全生

父が逝きました。

 98歳。老衰。大往生でした。

 娘の私がいうのもおかしいですが、理想的な逝き方だったと思います。

 ひょっとしたら、あと1週間から10日。

定期的に訪問してくださっている主治医の先生からそう伺ったのは、今月半ばのことでした。

寝耳に水、とはこのことです。だって、つい2、3週間前までは、口からちゃんとご飯を食べ、それも好物のいくらや穴子のお寿司、餃子などをいただき、おちょこ1杯くらいの晩酌もしていたのですから。

 それが発熱して、食欲がなくなってきているとのこと。

 慌てて飛んで行きました。

 余計なことはしない方がいい。様子を見ましょう。けれど、危ないかもしれない。

 驚きましたが、ぼんやりしている暇はありません。

 母は25年ほど前に他界。妹が一人いるのですが、パートナーの仕事の関係でカリフォルニアのシリコンバレー在住。パートナーは日本人なのですが、半導体のエンジニアで、日本よりそちらの方がよほど仕事があり、やりやすいのでグリーンカードを取って定住しています。毎年6月ごろには一時帰国していたのですが、ここ2年はコロナで帰ってきていませんでした。父は自宅で独居ですが、30年以上通ってくれている家族同然のお手伝いさんがいる上に、sompoケアという会社がやっている「在宅老人ホーム」のお世話になっており、何不自由なく過ごさせていただいていたのです。(これについては後で詳しく書きます)

 とにかく、妹に戻ってきてもらわなければならない。

 「えーっ!」

 状況を聞いた妹は電話口で絶句していましたが(当たり前です。元気だったのですから)、とにかく数日後に帰ってきてくれることになりました。

 なんとか間に合いますように、と念じながら、ネットで葬儀屋さんを探しました。余命宣告されてしまった以上、それも明日か明後日でも不思議はない以上、準備しておくのに越したことはありません。

 いくつか資料請求した中で、1社、すぐ電話連絡をしてきたところがあり、いろいろ電話で話して、打ち合わせに来てもらうことにしました。

 私からの希望は

 自宅でやりたい

 身内やごく親しい人で静かに送りたい。コロナでもあるので

 でしたが、結果的に大正解でした。とことんまで話し合い、納得のいくお別れができたと思っています。それも後ほど。

 妹が帰ってきました。「隔離期間」なしで帰れる時期になっていて、本当にラッキーでした。葬儀屋さんと打ち合わせをし、主治医は1日おきにきてくれ、看護師さんは毎日来てくれる。そのほかに、6年以上お世話になっている「在宅老人ホーム」のヘルパーさんが1日5回。真夜中も必要に応じて。私と妹も泊まり込みで見守りました。

 父はほぼ1日中眠っていましたが、妹が帰ってきた翌日には親族が(父の弟や義理の妹、姪や甥など)、その翌日はアメリカにいる妹の娘、つまり孫とオンラインで会い、私の連れ合いもきてくれました。誰かに会っている時は目を開けたり、口を動かしたりして反応し、私や妹のこともわかってくれました(頭は最後までしっかりしていました。いわゆる認知系の障害はなかったと思います)。

 父の弟、つまり私の叔父が牧師なのですが、本人も93歳で色々病を抱えた身なのに、何年かぶりで外に出たと言ってお別れに来てくれました。父の姿に泣き伏し、それでも最後のお祈りをしてくれ、帰り際にもう一度会ってくれ、力強く言ってくれました。

 「兄さん、さようなら」

 その声は、今でも耳の底に残っています。

 大切な人とお別れをした翌日。

 朝10時ごろ部屋を覗いたら、規則的に寝息を立てて寝ていました。これならまだしばらく大丈夫、と思っていたのですが。

 その1時間後。

 「パパ、息してないって、ヘルパーさんが」

 妹の声に驚きました。だってついさっきまで息をしていたではありませんか。まさか。

 けれど、お別れの時が来たのでした。

 ヘルパーさんが主治医の先生に連絡をとってくれ、すぐ駆け付けてくださった先生から、正式に告知がありました。

 真夜中などではなく、お昼前の明るい時間に、昨日までの雨が止んだ清々しい空気の日に、私も妹も、家族同然にしているお手伝いさんも、みんな家にいる時間に、眠っている間に(眠るように)逝きました。

 「理想的な逝き方です」

 何年も見守ってくださっている主治医の先生も、繰り返しそう言ってくださいました。「たくさんの方を看取りましたが、本当に理想だ」と。

 正直、余命を告げられた時に、病院も一瞬頭をよぎったのですが、病院に行っていろいろやっても苦しいだけ(点滴などしても体が処理できないから苦しい)、第一今はコロナで会えなくなってしまう。食べ物も飲み物も水も本人が欲しがれば少しあげてもいいが、あげすぎると苦しくなる。とにかく自然に、と主治医の先生が言い続けてくださったのが、とても助けになりました。多分、全く苦しくなかったと思います。看護師さんもとてもいい方でしたが、その方も「とにかく自然に任せて、静かに見守ってあげてください」と繰り返してくださいました。

 自然は偉大だ。そう思ったのでした。

 父はよく生きた人でした。母を早くに亡くしたのは想定外で、私たちも含めてその後はかなり大変でしたが、よく立ち直り、大学(早稲田大学の理工学部で教授をさせていただきました)の定年後は絵を描いたりダンスをしたり、近所のギャラリー喫茶の常連になって友達を作ったりと、それなりに楽しく過ごしていました。もちろん、「家にいるとやりきれない」から外に出ていたというのはあったようですが、結果的には家に居られないから出かける、がプラスに働いていたと思います。

 内臓系の持病がなかったのは幸いでしたが、90代に入ってから脊椎管狭窄症をやり、入院して手術。良くて車椅子と言われましたが、リハビリを頑張り、歩行器で歩けるまでに回復しました。病院でガールフレンドと鉢合わせした時は驚きましたが。笑。

 帰宅後は家の中での生活でしたが、お手伝いさんのヘルプに加えて、妹の友人が「在宅老人ホーム」を紹介してくれ、家に居たいという父の望みを叶えることができました。このシステムは、文字通り家にいて老人ホームのサービスを、という発想から生まれたもので、1日に4、5回、食事や起床、就寝時にヘルパーがきてくれてお世話してくれるというものです。入浴の介助などもありました。最後の1年はほぼ寝たきりでしたので、入浴は訪問入浴サービスを頼み、とても気持ちがいいと父は喜んでくれていました。このシステムのおかげで、最後まで自宅にいたいという父の希望を叶えることができ、本当に感謝しています。

 一時は施設も考え、いくつか見ましたが、部屋も狭いし、食事も決まってしまう、自由もそうそうありません。あれでは鬱になる方もあるでしょう。やはり最後まで、住み慣れた自宅にいて自由に過ごしたい。そう思う方は多いのではないでしょうか。それを叶えてくれたsompoケアさんには、繰り返しですがどれほど感謝しても足りません。主治医の先生や看護師の方の紹介から何から、ケアマネさんが中心になって全て手配してくれました。日々見えるヘルパーさんも感じのいい方ばかりで、父は本当に幸せだったと思います。

 ひとことお礼がいいたくて、昨日事務所に行きましたら、あのように最期まで家で暮らしていただけるようにするのが自分たちの仕事、というようなお話で、納得しました。

 亡くなる数ヶ月前、母が亡くなってしばらく後にお遍路に行った時の着物があるから、自分が死んだら着せてほしいと言われました。その時はまだまだ元気で食欲もあり、この調子なら100歳は超えるだろうと思っていたので、話半分に聞いていたのですが、いざそうなり、探したら出てきたので納棺の時に着せていただきました。ずいぶん昔にご縁のあった真言宗の僧侶の方がいて、その方の逝き方は父とまったく同じでした。私の人生にメンターがいるとしたら、その僧の方だと思っている大切な方です。私もですが、父もその方と出会って毎日般若心経をあげるようになりました。ひょっとしたら、それも力になったかもしれません。

 斎場に行くことはしませんでした。家にずっといてもらって、2日間弔問を受けることにし、親族と、父を最後まで慕ってくださっていた弟子の方達を中心にお別れのご案内をしました。お香典やお花も辞退。斎場だと時間が決まって慌ただしいですが、ゆっくり父に会っていただいて、父の思い出話をすることができ、よかったと思っています。父には寝室にいてもらい、リビングに父の絵や、「有線七宝」という七宝をやっていた母の作品を飾って、皆さんに見ていただきました。部屋を整えてくれたのは妹で、私ひとりではとてもこんな風にはできませんでしたので、帰ってきてくれてつくづくありがたかったです。

 出棺の日に、菩提寺の住職に来ていただいて読経をしていただき、そのまま送りました。妹がまた6月に帰ってくるのですが、納骨の日程としてもちょうどいいタイミングのようです。今回、本当に全てが丸く、自然に収まり、亡くなったのにおかしな話かもしれませんが、本当に感謝の気持ちが先に立ちます。親孝行どころか、畏れ多くも子供孝行をしてもらったような気分なのです。

 丸く収まったといえば、父の趣味の一つだったオーディオの行先もそうでした。私がこんな仕事をしているのにその方面がからきしダメで、生前、教え子の方に譲りたがっていたのですがうまくいかずにいました。それが、弔問にきてくれて10年以上ぶりに会ったいとこ(父の甥)と話をするうちに、何と昔、父とオーディオ話をよくしていたと。で、機材を見せたら是非引き取りたいという。理想的ではありませんか。父の願いが叶ったのだ、そう思わずにはいられませんでした。

こういうことがあると、実家が空き家になってしまうことがよくあるようですが、どうもそれも避けられそうな話が出てきて、本当に何もかもがありがたい限りです。

 お隣に住んでいて、何かとお世話になっていた親族も、お礼の食事会に招待することができました。

 昔、野口晴哉先生が始めた野口整体に通っていたことがあったのですが、その会報誌が「全生」という名前でした。生を生ききる、ということなのだと思います。父は本当に、仕事も、リタイア後も一生懸命、よく生きて、そして多分そのご褒美に、よく逝かせていただけたのかもしれません。

 人は多分、よく逝くために、よく生きるのです。

 きっと父は今頃、あちら側で、母や、自慢だったたくさんの友人と再会して、笑顔でいてくれることと想像しています。

 父の自慢の一つは「いい友人がいる」ことでした。父の基準の「いい友人」というのは、何よりも人柄でした。社会的地位とか、そういうのはあまり重要ではなかったようです。

 「誇りにしていた」友人の一人に、桜で有名な福島の三春町で、養護学校の校長先生をしていた方がいました。そういう友達がいるのが自慢だったところが、とても父らしいと感じています。

 この半月、コンサートや講座は全てキャンセルまたは延期して(解説付き鑑賞会が前々から決まっていた「魔笛」だけは別)、慌ただしくも静かに過ごしました。時間的に行けないわけではなかったのですが、その気になれなかったのです。主催者やアーティストの方には申し訳ないと思っています。

 今月から日常に戻ります。これからもどうぞよろしくお願いいたします。

ご興味のある方に、sompoケアの「在宅老人ホーム」

https://www.sompocare.com/service/zaitaku/elderly/

今回お世話になった「エンディングライフ」。オーダーメイドのお別れができました。

https://ending.life/sogi/company/

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