天才の条件 マイノリティセンス

※この作品は小説ではありません。難解であるため、閲覧には注意が必要です。


遺伝的マイノリティ

世界の形の話をしよう。人間は肉体だけをみると肌の色や性別の差はあるけれど、おおむね同一の存在に感じるだろう。20mを超える身長や4つの目がある人間は存在しない。しかしそれは肉体と言う「入れ物」の話であり、中に何が閉じ込められているのかを私たちはよく知らない。

人間は二種類に分けられる。それは『マジョリティセンス』を持つ人間と、『マイノリティセンス』を持つ人間だ。これは私が提唱するセンスの区分であり、現時点で最も整合性を保つことの出来る一つの答えだ。

1877年の2月9日王立学会特別研究員である「フランシス・ゴルドン」が「遺伝の法則の典型」という講話を行った。釘が打たれたボードに上からボールを落とす。現代で似たようなものを探すのならば、パチンコ台を想像すると良い。この時ボールがどのような動きをするか知っているだろうか。ボールが釘にはじかれ右に行くか左に行くかは完全に偶然である。それにも関わらずボードに落とすボールの量が多くなればなるほど、正規分布の図を示すようになるのだ。正規分布の図とは別名ベルカーブと呼ばれる両端が低く中央が盛り上がる図の事だ。

これが遺伝的特性であるとゴルドンは主張したのである。現代の科学から見るとこの理論には穴があり、両端に限界値を設けていなかったことで遺伝的特性を表すには至っていないことが分かっている。この正規分布図そのものは1820年にフランスの数学者、あのラプラスの悪魔で有名なピエール=シモン・ラプラスによって証明された中心極限定理と同様のものである。

ゴルドンの主張をそのまま遺伝的傾向に当てはめるのならば、人類は繫栄しその数を増やすほど遺伝的マイノリティである両端の値は極端になるという事になってしまうのだ。身長の高い者同士が結婚したからと言って、身長5メートルを超える巨人が一定数生まれるなどという事実は今日まで確認されていない。遺伝的特性はある縛りの中で調整を行い、その周辺でのみ個性の発露が確認される。人間の遺伝子にはまず超える事の出来ない、物理法則に由来する設計上の限界点が明確に存在する。その枠の中で我々は個性や多様性を謳っているに過ぎない。

しかし、このフランシス・ゴルドンの「遺伝の法則」をベルカーブで表現しようとしたことは非常に興味深い。概ね中央値にいる人間と、そうでない人間には大きな違いがあることが一目で理解できる点も素晴らしい。
人を表現する時の一つのカテゴリとして、楽観主義や悲観主義と呼ばれる神経症傾向の分類が存在する。天才の事を『サヴァン』や『ギフテッド』と呼んだり『HSP』と呼んだりすることはご存じだろうか。これらは全て感覚処理感受性と呼ばれる、最も遺伝的影響が反映される個人の特性である。このような感覚的分類で人はいつの間にか分けられているのだ。

おそらくこの問は未来を見通すことの出来るラプラスの悪魔でも答えることは出来ないだろう。もし聞けるのなら聞いてみたい。この安定した秩序ある世界は一体誰が創ったのだろうか。

分かりやすく、もう少し言葉を変えてみるとしたら、誰の「感覚」を基準にして創られているのかという問いだ。答えが中央値に位置する、似たような遺伝的特性や感覚を持った人間が創るのである。法律の起源もさかのぼれば、つまるところ動物としての本能が言語に変換されたものである。ルール作成の基準となるようなセンスを持つ人間を、私は『マジョリティセンス』を持つ人間とカテゴリしている。一方で高い神経症スコアにより特異な感覚を持つ両端に位置する人間を『マイノリティセンス』と呼んでいるのだが、残念なことにこの安定的な世界では高い神経症スコアであるマイノリティセンスを持つ人間の自尊心は低いことが観測されている。偏りは不遇なのである。では、総量としてはどうなのか。それはつまりマジョリティセンスとマイノリティセンスの人間はどちらが多いのかという話となるのだが、それはマイノリティセンスというカテゴリでの検証がされていない以上答えはわからない。だが、私は小さくないと思っている。

正規分布図カーブのどこからがマイノリティで、どこからがマジョリティといった線は引かれていない。通常言葉通りで考えるのであれば、マジョリティは51%以上を示さなければならない。しかし、その前提はマイノリティが同質でなければならない。例えば性的マイノリティであるゲイが必ずしもトランスジェンダーを歓迎しないように、勝手にマジョリティ側の視点で同じカテゴリにされた多様性は必ずしも同一化されない。極端な例であるのなら全人類が10人いて、3人が同じ価値観、後は全員バラバラであった場合3人であっても人類にとっても多数派となり、基準となる。

私の目的の一つにこの『マイノリティセンスを持つ人間の能力を最大化させること』が含まれている。マイノリティの人間の最も困難な部分である『世界への適合』のきっかけを示すことが世界を良い方向へと向かわせる手伝いとなることを知っているためだ。

まず一つの容易に想像できる反論に、答えていこう。それは、人の個性は多様性を極め同一のものではないという理屈だ。それはつまりマイノリティや、マジョリティなどの2分化された括りではなく、人類全ての人、一人一人が独自の個性を持ちそれぞれが違っているという思想である。ではその「個性とは何か」に社会学で答えるのならば、『時代や役割』という言葉を私は使用するだろう。人は遺伝的なもので自分の個性が構成されていると思い込みがちだが、それよりもその時代で重要とされる価値観に対する教育や、個人の役割が個性には影響を与えている。その意味で個性とはある種の年代でくくられるものであり、それを何度も繰り返して年輪のようになっているのが人類の個性の歴史なのである。私たちがぼんやりと想像している以上に個性とは限定的なのだ。

また、より個人の性格を特定する心理学の領域からも考えていこう。心理学者、ルイス・ゴールドバーグの性格の5因子「ビッグファイブ」だ。人の個性はおおむね5つの要素の組み合わせで成り立つという主張である。

1つ目、社交性→外交的や内向的な要素。明るい、活発、人懐っこいがこれに当たる。
2つ目、神経症傾向→楽観的や悲観的に影響する要素。うつ傾向、心配性、怒りっぽいなど。
3つ目、協調性→同調性と共感力に影響する。やさしい、親切等の共感的要素。
4つ目。堅実性→自制力。善良さ、まじめ、几帳面、曲がったことが嫌いなども。
5つ目は新奇性→経験への開放性。オープンさ、知的、想像力がある、新しい体験を求めるなど。

これは、近代のパーソナリティ理論では最も有力な方法として広く活用されている。しかし、私はこのルイス・ゴールドバーグの編集には少し不満が残る。それはこの5つの要素の中にも個性を決める優先順位が存在する点だ。例えば神経症傾向に影響するデザインの一つに、セロトニントランスポーターの存在がある。

人間はセロトニンと呼ばれるホルモンを分泌することで安らぎを感じることが出来るのだが、実はこの分泌する量は人種間で見ても、ほとんど差がないことが判明している。しかし、このセロトニンが由来で、人種間の気質に差が発生しているのだ。ここで特徴的なのがセロトニンを受け止める受容体(トランスポーター)の性質である。脳内で分泌した幸せホルモンであるセロトニンをボールに例えるならば、それをキャッチするのがセロトニントランスポーターだ。この1キャッチで安らぎの値が1ポイント増える。人種によりこのホルモンを許容する遺伝子に大きな差がある。つまりキャッチできる安らぎの上限が人種間である程度決まっているということに他ならない。アジア人、特に日本人はとびぬけてセロトニントランスポーターと呼ばれる遺伝子が短い。このセロトニンの値は楽観や悲観という人間の気質に大きくかかわっており、それがゴールドバーグの提唱するビッグ5の二つ目にある神経症傾向の項目を特別にする。

ビッグファイブの『神経症傾向』は別の項目である『新奇性』や『自制力』と関係がないのかというと、決してそうではない。それぞれが相互依存的で、上位概念と下位概念に分類される。神経症傾向である楽観性という上位概念を素に、新奇性という新しい経験を求める下位概念の特性が生まれると私は考えている。その意味でこの5つは必ずしも5つである必要はなく、場所や目的に応じて変化させなければ、むしろ個性を把握するには障害となりえる場合もある。

しかし、ルイス・ゴールドバーグのビッグファイブを参考にすべき点は別に存在する。個性とは下位概念の集合体であるという事実である。セロトニントランスポーターの例でも分かるように、上位概念とは敏感な各器官なのだ。しかし、このことは神経症傾向が個性においていかに重要かを示すことにはなっても、まだ人間のセンスを二分させる理由とはならない。
 
 
 
右脳と左脳

右脳派、左脳派という言葉を一度は聞いたことがあるのではないだろうか。これは一昔前の自己啓発ではお決まりのコンテンツであった。右脳派は柔軟性があり創造的、左脳派は細かく計算高いという、二つのカテゴリに人間を分けることで、自分の個性を判断するというものだ。これはアメリカ、コネチカット大学の心理学者であるシンシアモールが発見した法則である。手を組み右手の親指が上に来たら左脳派、左手の親指が上に来たら右脳派であると発表した。自己啓発では実際その場で手を組ませて、あなたはどのタイプかを特定させ、受講者を喜ばせるのだ。ここで考慮しなければならない点は、シンシアモールは脳科学者でもなければ神経学者でもないことだ。脳科学者の間でこのような議論が起こることはない。脳のどの部位や神経がどのように機能するかを特定することは、心理学にも干渉する様々な知見を得る事のできる学問であることは間違いない。しかし、心理学の分野から脳の機能特定に至ることは非常に困難なのである。この右脳派左脳派の理論はパーティーでのジョークとしてなら歓迎するだろが、熱意をもって大きな声で言っている人がいたら、気の毒で良い病院を紹介してしまうかもしれない。

ではなぜ人々はこのようなコンテンツを受けいれたのか。それは、何も無知だけが原因なのではない。このことが人間を表す重要な側面を表現していたからに他ならない。

実際この「右脳派」「左脳派」というコンテンツは「右脳タイプ」「左脳タイプ」と呼ばれる学習スタイルとして確立し、近年では「聴覚継次型」「視覚空間型」という思考スタイルとして再概念化されている。神経学的に明確な根拠があるわけではない。ただ、個人の思考スタイルや学習スタイルを理解するには非常に便利なメタファーだったのだ。

内容は昔とあまり変わっていない。聴覚継次型は事実や詳細の学習を好み、具体的で細かい指示を好む。それに対し視覚空間型は抽象的な課題を好み、全体的目標や指示を好むのである。

では人を表現する便利なメタファーとして、これは一体何を表していたのかという話になる。それこそが神経症傾向に他ならない。楽観的や悲観的という特性の下位概念を言語化していくとつまりそれが右脳派や左脳派と呼ばれる概念と近しいものとなる。それは心理学者ユングのタイプ論である内向的、外交的という特性も似たような神経症傾向が元になっていると確信している。

確信の理由は脳の機能に由来している。くしくもそれは右脳と左脳の違いで説明できる。右脳と左脳の最も大きな違いは、視覚のインプットのスケール感に大きな影響を与えている点だ。

「ネイボン課題」と呼ばれる心理学の実験手法がある。これは視覚的な情報処理における「局所的な処理」と「全体的な処理」の優位性を調べるために用いられる。具体的には、とても小さな沢山のAというアルファベットを使用し、Hという文字を作る。右脳は物事の全体を把握する役割があるため、右脳が活発な人間はその文字をHと捉え、細部をじっくり見る特徴を持つ左脳が活発な人間はAと読んだ。これが視覚のスケール感という個性だ。

重要な点は、「実際の視覚情報」も「頭の中にしかない概念情報」も脳では同一の処理が行われるという点である。実際の目でイヌをみることも、目を閉じ頭の中でイヌを想像することも、脳内では全く同じスクリーンに映し出される。結果、脳内で起こる思考もスケールとして癖が出てくると考えられる。

スケール感の大きい思考の持ち主は細部を気にしない楽観的な性格に傾倒し、逆に細部にこだわる人間は、小さな違和感を発見できる状態を得ることが出来るのである。このスケール感の元となる右脳、左脳のバランスに最も大きな影響を与えているのがそれぞれの視覚情報である。右目は左脳と、左目は右脳と交差するようにつながっている。物理的に視力そのものが、ある程度の人の神経症傾向に影響しているのだ。つまり、視覚に対する神経症の強度が個性を形作る上位概念と呼べるのである。

では、視覚神経の強度だけが、そうなのだろうか。マイノリティセンスを持つということは必ずしもそれに当てはまらない。マイノリティセンスとは文化圏内での少数を指すため例えばアジアでマイノリティである「楽観性」と呼ばれる感覚も、欧米やアフリカではマジョリティとなるためだ。
 
 

HSP

神経症傾向が人の思考やパターンを作っている。そのことを表すのに貢献したのがアメリカの心理学者、エレイン・アーロン博士だ。
彼女が提唱したHSPという概念が広く知れ渡り、人の過敏な感覚が個性に対しどのような影響があるのかが一般的な認知を得た。

HSPを説明するうえで感覚処理感受性という言葉が大きな鍵となっており、それはマイノリティセンスの上位概念でもある。人間は5感を持っており、そのインプット濃度にはグラデーションのような差がある。エレイン・アーロン博士は4つの特徴をまとめ、各イニシャルをとったDOES(ドーズ)という表現をした。処理の深さ、過剰な刺激、共感、繊細さ、の4つである。午前3時に小さな物音で目が覚めてしまったり、町の中のローストチキンの匂いが気になったりする。一方で、中華屋の40Pを超えるようなメニューを、1時間かけて読んでいられるほどの深い集中を見せるのだ。

約5人に一人の高い割合で繊細な感覚を持つ人間がこのような特徴を持っている。そもそも多くの生物、ネズミ、猫、犬、猿、馬などでも同様の感覚処理感受性の繊細さが確認されている。感覚器官の鋭敏さの偏りは、生物が様々な環境の変化に対応していくための標準的な設計であることが分かる。だからこそ、多くの共感を得ることが出来、だからこそここまで浸透してきたのだろう。

日本においてHSPの認知は「繊細」という特徴が際立っており、理解しやすい反面本質的な現象面からはやや理解が遠ざかっている気がする。言葉としては『繊細』というよりも、『強度』というニュアンスが近いように感じる。各感覚器官のボリュームがいくつか高めに設定されている為に起こる現象だからだ。

このHSPは『DSM‐5』(アメリカ精神医学会が発表する書籍『精神障害の診断と統計マニュアル第5版』)に記載がない。つまり、病気としての記載がないのだ。それは当然である。これは病気ではなく、『センス』の話であり、それ以上でも以下でもない。ただ、病気ではないにしても、マイノリティであるがゆえの特徴として、組織との相性が悪いセンスである事は知っておいたほうが良い。社会で感じる「理不尽さ」の根底は言語化されていないマジョリティの作った隠れたルールだからだ。
 
 
 
サヴァン

サヴァン症候群に対しての説明をしていこう。
何よりも特筆すべきはその並外れた特殊能力である。難解な本の記述を一読しただけで全て記憶することが可能で、一度目を通せば本を見ずに逆から読み上げることだってできる。音楽教育を受けていないのに、一度聞くと曲が弾ける。ランダムに言う年月日の曜日を瞬時にこたえられる。他にも多くあるが、通常の鍛錬ではなかなかたどり着けない能力を先天的な才能だけでこなすことが出来る。

そしてもう一つサヴァン症候群を特徴づけるものがある。それが自閉症や発達障害の症状である。この自閉症スペクトラムは先ほどのDSM‐5によってはっきりと診断基準を設けられている。つまり、このサヴァン症候群と呼ばれる明らかに秀でた能力も、正式に言葉にするのならば『自閉症スペクトラム障碍/自閉症スペクトラム症』と呼ばれて終わってしまうだろう。

サヴァン症候群のスキルは自閉症特有の『特異な認知』に依存し発揮されている。先ほどのHSP以上に感覚処理感受性が個性に強力に働いているということだ。自閉症に関しては、0歳から1歳2か月までの脳の発達に強力な先天的な個性を得る確率が高い。しかし、これは自閉症児に限らず全人類の道程を示している。
 

 
センスの道程
 
人は生まれてから約8か月もの間脳の神経細胞である『シナプス』が爆発的に増える。人の長い人生においてこのようなシナプスの変化は一度きりである。そして1歳2か月を過ぎたあたりからしぼんでいくのだ。ここで何が行われているか。それは、『世界に対応するためのスキルの振り分け』である。これは『シナプスの刈り込み』と呼ばれる現象だ。子育てをしたことがある人はわかるだろうが、子供の成長は大人に比べ驚異的であり超人的である。子供は脳の刈り込み段階で、世界の形に最も適した脳になる。それは気温、言葉、両親の顔など、生きて行くための様々な要素を取り込む。

結論から述べるのならば、ここで適正な神経細胞を形成した人間が『マジョリティセンス』を得ることが出来る。言い換えるのならば「当たり前のように空気を読むことの出来る能力」をここで形成するのだ。

通常、人は後天的にもセンスを得ることは出来る。しかし、それはとても小さな努力を蓄積させ、長い年月をかけ専門的な分野で使用するシナプスの量を増やしたためである。

才能とは、つまりシナプスである。サヴァンとは有り余る脳のシナプス(才能)を自閉症児が局所的に使用して得た能力であると考えるのが最も自然があり、整合性がある。カレンダー計算などはその良い例で、余ったシナプスが局所的にかみ合い独立した計算アルゴリズムを持ったためであると考える専門家の意見もある。

我々が行う反復練習とは、すなわちシナプスを増やす、強くする要素が大きい。これを最初から行えるのだ。しかし、自閉的思考を有する自閉症児は他人から教えられたり強要されたりするのを拒むため、これをコントロールしたり、またビジネスなどに応用するのも芸術以外実例はほぼない。

サヴァンのように一定の代償を差し出し、マイノリティセンスを得る例は他にもある。「優位性の病理」と呼ばれるそれは左脳の障害が引き起こす。左脳の左半球に障碍があると、左脳の細胞集合が不完全となり、その代償としてニューロン移動が起こり、結果右脳が大きくなるのだ。中枢神経の病理により右脳優位が生まれるのである。

しかし、人は欲張りである。誰しも代償を払わず優位性を保つ能力を得たいと考えるだろう。インド人女性でこのような事例がある。
3歳で数に興味をもち、5歳で2乗根の計算が出来た。その後3乗根や9乗根の計算やカレンダー計算もできた。また、母国語以外に英語をはじめとするいくつかの言語も話せるようになったのだ。サヴァン症候群と決定的に違うことがある。それは彼女の知能レベルは平均的だったのだ。


ギフテッド

サヴァン症候群と同様の、能力の秀でている特性を持つ『ギフテッド』と呼ばれるカテゴリが存在する。サヴァンと最も大きな違いはその知能の高さだ。前述のインド人の女性はサヴァンではなくギフテッドとよぶべきだろう。

最初に共有したいのは、ギフテッドの誤った認識である。まず、ギフテッドと呼ばれるには全米ギフテッド協会が定めた基準を満たす必要がある。それは「1つ、あるいは複数の分野でずば抜けた資質(理論的思考や学習能力)あるいは力量(上位10%以上の成績)」を示すことである。

アメリカの大半の州の法律ではいずれかの分野で上位3~5%に位置する子供を指す。しかし、そのためギフテッド児は特別な困難はなく、自分で上手くやっていくことができる。もしくは特別な介入は必要であってもごくわずかであると考えられてしまうという誤った認識を人々に植え付けた。知的能力や創造性の高さは決して万能ではない。多くのギフテッドと呼ばれる人は、得意分野以外は並みかそれ以下である場合がほとんどだ。むしろ、強みの裏にはトレードオフの関係を持つネガティブな個性がある事の方が一般的である。もちろん私たちの思い描く『理想の天才』という名のヒーローが存在しないわけではない。世界的に評価される突出した才能をいくつも所持し、人に愛され良好な社会関係を維持し、やる事全て凡人以上。そんなまるでコミックに出てきそうなヒーローを天才と呼ぶとして、世界中で100人ほどだろうと言われている。これは一般的なギフテッドの中でも例外であるし、サンプル数がそもそも少ないため、実際彼らにも何かしらの代償が存在するであろうことは想像に難くない。

もう一つギフテッドに対し大きな誤解があるとすれば、それはギフテッド児や成人ギフテッドに対し、実績評価を基準とすることだ。金メダリストになったら天才といわれた。ではその人がその競技を始める前は天才ではないのだろうか。そんなことはない。競技を始めることが出来なかった、未来のオリンピック選手だっているはずだ。現実機会を得られない天才は多く存在する。研究でギフテッドは『症状』のような共通点を分析することで、ある程度の特定が可能であることが判明している。

これも人間の5つの特性『ビッグファイブ』と同様に上位概念と下位概念が存在する。物事にはあらゆるものに基礎がある。私たちはそれを発展させ、複雑になったものを応用と呼び素晴らしいものだと捉える節がある。しかし、こと人間の本質を追求するうえでこれがミスリードとなりえる。つまり、あらゆる人間の本質は固定的で、決定的であるのだ。この原則のようなものの派生が人間らしさと呼ばれるものであることを知る必要がある。

この場合ギフテッドというセンスの下位概念こそが結果である。分かりやすい発露が才能の発揮であり役割の取得であるだけのことなのだ。
下記は一般的なギフテッドの症状とも呼べる特性である。一部なら当てはまる人は多いのではないだろうか。

知的過興奮性
非常に思考が活発で、知識と理解を求め真実を探し、問題を解決しようと邁進する。熱烈な読書家となる。知的過興奮性のあるものは、道徳的問題や公正さの問題に関心を向けることが多い。独立した思想家、鋭い観察者であり、思想や考えをめぐってわくわくする気持ちを人と共有できない状況に我慢できないことがある。
 
想像の過興奮性
豊かなイマジネーション、空想遊び、アニミズム的(動植物も無生物も霊魂が宿っているという精霊崇拝)思考、白昼夢、ドラマティックな感覚、揶揄は非常に魅力的。就学前の想像上の友達がいた。
 
感情の過興奮性
人、場所、ものに特に自分が熱狂したものに関わるすべてを大切にしたがる。新しい環境への適応困難。反応がオーバーだと批判される。
 
精神運動の過興奮性
筋神経系の興奮性が高く活動性やエネルギッシュさの容量が大きいように見える。早口、熱烈な意気込み、身体活動や活動欲求の激しさとして現れる。
 
感覚の過興奮性
シャツについているタグを嫌がる。ざらざらする。縫い目のある靴下を履けない。蛍光灯の点滅や音が非常に耳障りで頭痛を引き起こす。

この過興奮性こそがギフテッドがギフテッドたる条件だ。この項目は一貫性があるようだが必ずしもそうでない。また、少なくとも全て当てはまる必要はない。しかし、症状でギフテッドかどうかを判断するには、これが、その時だけのイレギュラーな状態なのか、通常時の感覚でもたらされているものなのかは注意しなければならない。日常で頻繁に起こるものはギフテッドの特性だが、特定の条件下でしか起こらないのであれば、一時的に状態が偏っているだけなのかもしれない。自己啓発を受けた直後だと神経感覚が軽度の躁状態となるため、過興奮性に陥りやすいことなどはある。本質的にどちらの過興奮性にも違いはないため、これは継続性や頻度が重要となってくる。一時的な状態変化であれば、それらは結果としてマジョリティセンスに傾倒していくため、結果として自然とマイノリティセンスは収斂されていくのである。

ギフテッドとは感覚処理感受性の少数派の一部だ。この見えざる内面をあえて外見に特徴のあるファンタジー世界の人間に例える。マジョリティセンスを持つカテゴリを『人間』とする。最も数が多く中立的な能力を有している。HSPをエルフ、サヴァンをドワーフ、ギフテッドがホビットとした場合、人間視点では彼らを「亜人」と呼ぶ。ネットで調べてみれば、ファンタジーの人種は妖精、半獣、竜人などもっと多くの分類が存在していることが分かった。しかし、人間目線ではやはりそれは「亜人」であることに変わりはない。注目するべきは、亜人視点では自分達と、それ以外にしか分類されないというごく当たり前の帰結だ。エルフにとって世界は自分達エルフとそれ以外であり、数が多いことも寿命が短いことも何ら関係ない。そのバイアスは純粋に同一の存在ではないという理由だけが発生理由だ。エルフやドワーフは人間と比較し長寿だが、見た目も文化も一致する部分は少ない。マイノリティセンスもまた同様である。例えば同じギフテッド同士であっても全く性質が異なるばかりか、マジョリティセンスよりも感覚が乖離することも珍しくない。それでも、同じ種族であると判断できるのなら、共同体としてつながることもできるが、ファンタジーと違い、神経症の傾向が分かりやすく外見に発露することはない。これが世界をひと際複雑にしている要素なのだ。

人は5感の『どこが鋭敏なのか』で事なる内面を持つ。ここがマイノリティセンスの入り口である。HSPの割合は5人に一人だが、ギフテッドは10人に一人の割合で含まれる。学校のクラスに例えるならば、5人に一人とは、背の高い子の割合。10人に1人は左利きの子と同じくらいの割合だ。この特徴は身の回りにあふれており、決して珍しいものでは無い。つまり、天才とはレアではないのだ。発見できた天才の数が圧倒的に少ないという事実の証明にすぎない。

では、なぜこのような過興奮性が起こるかを説明していこう。5感の鋭敏な器官が異なることで、マイノリティセンスの性質が変わる事にある。その中で聴覚や嗅覚、視覚にシナプスの容量を多く使用した場合、一般的なHSPと同様の性質になる。ギフテッドは『触覚』にシナプスの容量を大きく振っている場合が多い。触覚は日常で大きな意味を持つ事は少なく、また反動のように他の感覚の鋭敏さを損なうような動きがある。結果、聴覚や視覚がシナプスの刈り込み時期に世界と上手く適合しない。ただ、この「鈍感さ」が楽観性に変換され、優位に働くのだ。

俯瞰した視点で物事を見る癖を持っているのは、この視覚の適合がある種の偏りを生んでしまったためだと推察される。これは何も『視力が悪い』という理由ではない。例えば視力が良すぎたとしても、細かい一点に集中して物事を見るため、結果として視覚のシナプスが上手く発達しない可能性がある。これはほんの些細な現象で決定づけられてしまう。例えばシナプスの刈り込み時期だ。生後8か月ごろに『よく眠ってなかなか起きない子』であったりしても、同様の現象が起きてしまう。実際ギフテッド児の大脳を調べると、彼らのシナプス刈り込み時期が遅いことが分かった。

視覚が、上手く発達しなかった。だから、細かいものを探すのが苦手で常に整理整頓を行う。だから細かいことを気にしない気質になった。だから楽観的になった。だから、スケールの大きい本質的な問題を解くのが好きになった。

つまりはこのように上流から河を引くように、1つの真なる上位概念がもたらす現象なのだと言えるだろう。
ハーバード大学の心理学者 デビッド・パーキンスが言った言葉でこのような考えがある。「思考とは一般的に『辻褄が合う』と停止するというルールに従っている」

ギフテッドはその性質上俯瞰的なモノの見方をする為、物事に対する辻褄が合いづらい。多くの人がおおよそ3つか4つくらいの判断材料で意思決定しているのに対し、その倍以上のカードを常に保持している。結果思考が遅かったり、矛盾が見えて失望したりしてしまうケースがある。ジグソーパズルを思い浮かべると良い。一部が出来ていたとして、それをイヌの絵であると多くの人が断定したとしよう。しかし、俯瞰的な視点を持った人間は、それが犬の散歩を楽しむ家族のパズルであることが分かるのだ。しかし、それを理解してもらうことも、ましてや証明することもできない。
また、整合性が合わないことに対して、思考をやめるという選択をすることができないのも特徴の一つである。残念ながらそこに選択が存在しない。それ故記憶を保持し続けることが結果として可能となる。記憶力が先天的に良い人間はそのような強制力により望む、望まないにかかわらずそのスキルを使用しているのである。

結局ギフテッドとはその言葉通り、与えられた者、選ばれた者という運命論的な解釈をよくされる。しかし、それは偶然にも自分の才能と出会い、認知することに成功した一握りの人間だけであり、天才である事にも気が付かず死んでいく人間の多さから考えるのならば決して恵まれた才能ではないことが分かるだろう。
 
  
マイノリティセンスとは

マイノリティセンスとは広義のHSPと呼ぶことができるだろう。その根源は感覚処理感受性の鋭敏さがもたらすものだからである。細分化された先にサヴァンやギフテッドが存在するが、日本においてHSPとは感覚が鋭敏である以上の意味をあまり持たず、繊細という一つの個性を説明するにとどまっている事がエレイン・アーロン博士の提唱するものとの乖離を生んでいる。海外の書籍ではより感覚処理感受性の幅を大きく取り上げており、いわゆるギフテッドもHSPであるという捉え方が出来るのだが、その編集であれば私も同意できる。しかし、日本人における繊細性の重要さも考えるのならばあえてHSPを下位概念に置き「マイノリティセンス」と位置付けたほうが色々と説明しやすいため、これを採用している。

説明しやすい項目の代表がマイノリティセンスである事の代償についてである。この代償について誤解を恐れずに述べるのであれば『常識が無い』ことである。HSPやサヴァンもそうだが、社会に対してのエントリーコストが高くつくのだ。

多くのマジョリティセンスをもつ者たちは常識を『感覚』でおおむね共有できるが、マイノリティはシナプスデザインが世界の形に必ずしも適合していないため理論やパターン学習。そして、ごくまれに共有できる感覚で長い間やり過ごしてきたのだ。

必死に世界と適合するため、攻略のパターン学習を積み上げたとしても、環境が変わったりした場合、パターン学習のサンプルが蓄積するまでは自身の『常識のない行動』に悩まされなければならない。強い探究心は、決まりの悪い質問を生み、秩序や体形を追い求めるその姿勢は、仕切り屋に見えたり支配的に見えたりする。素早い情報の理解は、他者の遅さに対しいら立ちを感じさせるし、枠を外れたユーモアのセンスは授業や仕事の邪魔になることがある。周囲からの理解を得るまでは、その存在はリスク因子となりえるのだ。

なぜなら多くの概念。例えばそれは正義や愛、やさしさや勇気などと言ったものはマジョリティセンスを持つ者たちの主観に基づくイデオロギーが元になっており、根拠のない集団圧力によって秩序を保っているからだ。そこには統一性も合理性もなく、心地よさが重要視される。だから、彼らはそれを言葉にする必要がない。逆に、マイノリティセンスを持つ人間はそこに言葉がないが為に真の意味で共有することが出来ない。

最後にこの内容で誤解をしないでほしい点がある。もしあなたがマイノリティセンスを有していたとして、このコンテンツは自己肯定を高めさせ、あなたを認め、また癒して終わる類のものでは決して無いということだ。むしろ知って欲しいのはマジョリティの世界である。我々は愛や、正義や、可能性や、勇気といった当たり前に理解している「つもり」の概念をどれだけ正しく言葉にできるのだろうか。

私はこの事実を思い返すたびに安心する。それは世界が複雑に創られていることだ。情報には価値や信頼度が存在し、面白いことにそれは時間経過とともに変化していく。今、私たちが生きているこの時代、この場所で問われる常識をもう一度一緒に考えていきたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?