コミュニケーションの変化に見る性悪説

リアルでのコミュニケーションだと、2チャンネルやTwitterのように相手を傷つけるような発言をする人は極端に少なくなる。
加えて近年現れたLive配信のコメント欄も、従来のSNSなどに比べて炎上が少ないと言われている。
例えば自分が相手のことを多少嫌っていたとしても、リアルな会話の中では穏やかなやり取りをする。

これはリアルのコミュニケーションになるほど、テキストだけでなく、表情、声、雰囲気や空気感、潜在的な実際の暴力、同じ空間を共有する他者からの視点など、あらゆる「制裁手段」となり得る情報量があるからだと思う。
それらの制裁手段が抑止力となって、リアルでのコミュニケーションは他者に対して暴力的になり辛い。

これはテキストだけの掲示板からTwitterへ、そしてTwitterからLive配信に移り変わるに連れ、常時接続が徐々に進んでいき、インターネットを介しても同時に共有できる情報量が増えたからだと思う。
逆に考えると、人は抑止力がないと他者に対して攻撃的になってしまう。

人は常に、無意識的あるいは意識的に、「自分にとって利益となる時間の使い方や行動」を求めている。
仮に例え人を攻撃しても何の反撃もないのだとすれば、当然他者を攻撃し一方的に搾取した方が楽だ。
しかし人は人とのコミュニケーションの経験を蓄積する過程で他者が有している反撃力、あるいは自己防衛力を理解するようになるため、それが抑止となって他者を攻撃しなくなる。
代わりに、「どうすればお互いにとってwin-winな関係を作り出せるだろうか」と、より難しい問いに対して工夫をするモチベーションが生まれる。

だからこそ、コミュニケーションの経験を通じて他者の抑止力を理解していない人や、絶対に反撃してこないだろうと思えるような相手に対しては、私達はリアルなコミュニケーションでも攻撃性が生まれてしまう。
他者を攻撃するか否かは、ある特定の他者に対し、

【自分に対する自信ー他者の反撃力>win-winの関係を作ることによるメリット】

となったとき、攻撃性が生じるようになってしまう。
だから他人の精神に対して攻撃を仕掛けたり、指摘や指導といった行動を取るためには、自分に対する自信や自己防衛力が必要だし、逆にそうした力を「育成」といったように善用するのではなく、悪用する人が他者を搾取している人だと思う。

何の抑止もなければ人を攻撃してしまうのが人だとすれば、
紛れもなくそれは性悪説ではないだろうか。

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