終焉に宿る永遠のいのち
私は、8㍉フィルムフェチの多くが廃虚フェチであることを信じて疑わない。
両者にみられる親和性の高さが雄弁に語っている。
8㍉フィルムと廃虚は、どちらも終焉を生きている点で共通している。
終焉を生きるというのは、いのちの終わりではなく新しいいのちの始まりを意味する。
それはいつまでも生きるいのちのことではなく、然りとて瞬間(いま)を生きるいのちでもない。
時間や空間に縛られない真の自由なのだ。
しかしその自由は、「自己」という可動域に限られた自由であることを忘れてはならない。
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