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ヴィガノ大司教とフィル・ローラー氏とのインタビュー「キリストの代理者である彼の後継者の一人が、切れた聖伝の糸をつなぎ直すことでしょう。これは敗北ではなく、真理と謙遜と勇気の行いとなるでしょう。」(2020年6月)

フィル・ローラー氏とのインタビュー
カルロ・マリア・ヴィガノ大司教

【フィル・ローラー氏は、米国のジャーナリスト兼作家。カトリック・ワールド・ニュース(CWN)の編集者にして設立者。】

ローラー:まずお聞きしたいのは、あなたは第二バチカン公会議についてどのようなことをおっしゃっておられるのか、ということです。公会議以来、事態が急速に悪化してきているというのは確かにその通りです。しかし、公会議全体が問題だとすれば、どのようしてそうなったのでしょうか? そのことと、教導権の無謬性について私たちが信じていることとを、どのように両立させることができるのでしょうか? いったいどのようにして、公会議の教父たちの全てが騙されたのでしょうか? たとえ公会議のごく一部だけ(例えば、「ノストラ・エターテ[Nostra Aetate]=キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言」、「ディニターティス・フマネ[Dignitatis Humanae]=信教の自由に関する宣言」)が問題を含んでいるとしても、それでも私たちは同じ疑問に直面します。私たちの多くは何年も前から、「第二バチカン公会議の精神」が誤りであると言い続けてきました。あなたは今、この偽りのリベラルな「精神」が、公会議の成果を正確に反映していると言っておられるのでしょうか?

ヴィガノ大司教:公会議に問題があることを証明する必要があるとは思いません。トリエント公会議や第一バチカン公会議ではなく、第二バチカン公会議についてこの問題を提起しているというその事実こそが、誰にとっても明らかな、誰もが認める事実を確認しているように、私は思います。現実には、必死になってこの公会議を擁護している人々でさえ、第二バチカン公会議より前のすべての公会議とは別に、この公会議のみを擁護しているのです。そして、以前のすべての公会議の中で司牧的公会議と言われていたものはただのひとつもありませんでした。また、注意していただきたいのは、彼らが第二バチカン公会議を、特に卓越した「公会議」と呼んでいることです。それはまるで、それが教会の歴史全体の中で唯一無二の公会議であったかのように、あるいは、教理の定式化ないし教導権の権威を理由にして、少なくともこの公会議を比類のない公会議とみなしているかのようです。この公会議は、それ以前のすべての公会議とは異なり自らを司牧的公会議と呼び、新しい教理の提案を望まないと宣言しましたが、実際には、公会議前と後の区別、教義的公会議と司牧的公会議の区別、明確な条文と空疎なおしゃべりの区別、「アナテマ・シット【呪われよ=排斥文】」と「世におもねること」の区別をつくり出した公会議なのです。

この意味で、教導権の不可謬性(あなたが言われる「無謬性」とは、むしろ聖書の一つの特性とされるものです)は問題にもならないと思います。というのは、立法者、つまり公会議を招集したローマ教皇が、もし望めば行使できたはずの教理上の権威を行使したくないと荘厳かつ明確に断言したのですから。私は、教義的なものとして提示されているものほど司牧的なものはないという見解をもっています。なぜなら、最高の形式で教える務め(munus docendi)を行使することは、主がペトロに羊や小羊を養うようにとお与えになった命令と一致するからです。ところが、このような「教義的」という概念と「司牧的」という概念の間の対立は、公会議の冒頭の演説の中で、教義には厳しい意味を与え、司牧的世話にはもっと柔軟でもっと融和的な意味を与えようとしたまさにその人物【ヨハネ二十三世】によって引き起こされたものです。また、ベルゴリオの種々の発言においても、同じ対立が設定されているのに気付きます。そこでは、教皇は、分別の名の下に、「司牧主義[pastoralità]」を、信仰と道徳の問題における厳格なカトリックの教えを柔軟にしたものだとするのです。あいまいな語彙を使い、間違って理解されたカトリック用語を用いる行為が第二バチカン公会議の時から教会に侵入したということを認めるのは、心の痛むことです。またこれは、いわゆる「あいまい語主義[circiterism]」、すなわち、言葉をあいまいで故意に不正確な意味で使う策略の、最初にして最も象徴的な例です。これが起こったのは、この公会議が絶対的なものとしてまさにイデオロギー的に推進した言葉であったアジョルナメント【現代化】が、この世との対話を何よりも優先していたからです。

もう一つのあいまいさについても明確にしなくてはなりません。一方で、ヨハネ二十三世とパウロ六世は公会議を新しい教義の定義に関与させることは望まず、むしろ公会議を司牧的なものに限定したいと宣言しましたが、他方で、外部的には(つまりメディア的には、あるいは私たちが今日言うように、メディアの中では)、公会議の決定が極めて強調されたことは事実です。このような強調のゆえに、まさに当初からその可能性が明確に排除されていたにもかかわらず、教理上の権威を想定させたり、教導権の不可謬性を暗示したりするような考えが伝えられることにつながりました。このような強調がなされたのは、多かれ少なかれ異端の実例が権威的なものとして認識され、それによって聖職者や信徒たちに受け入れられるようにするためだったのです。しかし、もし誰かが「ノストラ・エターテ」に【問題があると】手を触れるだけで今日でも大声で叫ぶ一方、誰かが私たちの主の神性やいとも聖なるマリアの終生童貞を否定しても沈黙するような、これと同様の欺瞞を使う書き手たちが信用に値しないことを示すには、これで十分でしょう。カトリック教徒は第二バチカン公会議やトリエント公会議のような一つの公会議を礼拝するのではなく、至聖三位一体である唯一のまことの天主を礼拝することを思い起こしましょう。カトリック教徒は公会議の宣言あるいはシノドス後の勧告に崇敬を示すのではなく、教導権によるこれらの決定が伝達する真理に崇敬をしめすのです。

あなたは私に、「いったいどのようにして、公会議の教父たちの全てが騙されたのでしょうか?」とお尋ねです。当時の私自身の経験と、そのころ私と議論していた私の兄弟たちの言葉を使ってお答えします。教会という団体のまさに中心に、非常に強力で組織化された敵対勢力が存在し、枢機卿たちや高位聖職者たちが教会への確実な忠実さをもって準備した完全に正統な準備草案を彼らが否定することに成功し、また長たらしくて故意に曖昧にしたスピーチの背後に隠れて、それらを巧妙に偽装した一連の誤謬にすげ替えることができるなどとは、誰も想像することすらできませんでした。バチカン大聖堂の天井のまさに直下で、カトリック教会の退位と革命の開始を布告する「三部会」が招集されるなどとは、誰も信じることすらできませんでした。(以前私の文章でも触れたように、スーネンス枢機卿は第二バチカン公会議を「教会の1789年(フランス革命)」と呼びました)。公会議の教父たちはとてつもない欺瞞の対象、そして最も緻密な手段を用いて巧妙に仕組まれた詐欺の対象となりました。彼らは言語毎のグループの中の少数派とされ、突然招集される会議から排除され、教皇がそれを望んでいると信じこませることで賛成投票をするよう圧力をかけられたのです。そして、革新主義者たちが公会議の議場で実現することに成功しなかったものを任意委員会や常設委員会で獲得したのは、強力なメディア・マシンに認められ、賞賛された神学者やペリティ【神学専門家】の積極行動主義のおかげでもありました。このように組織的な悪意を持った教父たちがいた一方、他方で甘い楽観主義を持ち、不注意だった善意の教父たちもいたということを証言する膨大な数の研究や文書が存在します。進歩派による数々のルール違反が聖なる議会のテーブルで(教皇によって)裁可されたので、(革新主義者たちに反対する)「チェトゥス・インテルナツィオナリス・パトルム【国際教父グループ=公会議途中に結成された保守派グループ】は、ほとんど、あるいはまったく何もすることができなかったのです。

「公会議の精神」とは第二バチカン公会議を異端的にあるいは誤って解釈したものであると主張してきた人々は、たとえそれが善意に基づくものだとしても、不必要で有害な活動を行っていたのです。枢機卿たちや司教たちが教会の名誉を守りたいと思うのは理解できますし、教会が信徒たちや世界の前で信用を失わないことを願うのも理解できます。そこで、進歩派が公会議の結果だとしているものは実際には不当な虚偽の解釈であり、恣意的に強制されたものであると考えたのです。しかしその当時は、ピオ十一世が(回勅「モルタリウム・アニモスMortalium Animos」=真実の宗教の一致について、によって)排斥した信教の自由が、「ディニターティス・フマネ」によって肯定されるようなことがあり得ると考えるのは困難でしたし、ローマ教皇自身の権威が実体のない司教団によってないがしろにされるようなことがあり得ると考えるのも困難でした。ところが今日では、第二バチカン公会議の中に巧妙に隠されていたことが、まさに公会議の首尾一貫した適用という名の下に、今や教皇文書の中ではっきりとした声で(ore rotundo)肯定されていることが、私たちにはよくわかります。

他方、私たちが普通、ある出来事の精神と言うときは、まさにそれがその出来事の魂、本質である意味で言っています。ですから、公会議の精神とは公会議そのものであり、公会議後の時代の誤謬が結局は(in nuce)公会議の決議の中に含まれていた、ということを私たちは断言することができます。それは、公会議の教父たちがいるところでは進歩主義者たちがあえて公会議前と呼ぶミサが捧げられたにもかかわらず、新しいミサ(Novus Ordo)が公会議のミサである、と言うことが正しいのとまったく同じことです。また同様に、もし第二バチカン公会議が本当に(過去との)決裂の瞬間ではなかったとしたら、まるで公会議前の教会と公会議後の教会が公会議自体によって本質的に定義された二つの異なる存在であるかのように、その二つについて別々に扱う理由がどこにあるでしょうか? そして、もしこの公会議が本当に教会の途切れることのない不可謬の教導権に沿ったものであったならば、なぜこの公会議のみが、その解釈に重大かつ深刻な問題を引き起こし、そして他の公会議との間に存在論的異質性を示すのでしょうか?

ローラー:第二にお聞きしたいのは,何が解決策なのか、ということです。 シュナイダー司教は、将来の教皇が誤謬を否認しなければならないことになると提案しておられますが,ヴィガノ大司教はそれでは不十分であると考えておられます。しかしそうすると、教導権の権威を維持しつつ、いかにして誤謬を訂正することができるのでしょうか?

ヴィガノ大司教:私が思うには、解決策は何よりも、高位聖職者と教皇に始まる私たち全員が行わなければならない謙遜の行いにあります。教会の中心へ敵が潜入したこと、ローマ教皇庁や神学校、教会学校の主要な職位が組織的に占拠されたこと、反逆者の一団が陰謀を行なったこと(それには、最前線においてイエズス会が道からはずれたことも含まれます)、そしてこれらのことが、破壊主義的かつ革命的な行為に正当性と合法性の見かけを与えることに成功したことを私たちが認めることです。私たちがまた認めるべきことは、善良な人々の対応が不適当であったこと、多くの人々が甘すぎたこと、また別の人々は恐怖を抱いていたこと、そしてこの陰謀のおかげで得をした人々が何を得たかということです。大司祭の家の中庭でキリストを三度否んだ後、ペトロは激しく泣きました(flevit amare)。聖伝によると、この使徒のかしらは自らの裏切りを悔いておびただしい涙を流した結果、生涯にわたって両頬に2本の深いしわを刻んでいました。キリストの代理者である彼の後継者の一人が、その使徒としての権能を十分に発揮して、切れた聖伝の糸をつなぎ直すことでしょう。これは敗北ではなく、真理と謙遜と勇気の行いとなるでしょう。使徒のかしらの後継者の権威と不可謬性は、無傷のまま、再確認されることでしょう。実際、この教皇の権威と不可謬性は第二バチカン公会議ではあえて疑問視されていませんでした。ところが皮肉なことに、その公会議が許した誤謬を将来教皇が正す日には、その教皇の権威を問題視する声を上げる人々が出ることでしょう。その公会議自体が自らそのような権威を持っていないことを正式に宣言しつつ、その権威をごまかす嘘をついていたのですが、他方、公会議の教皇たちから始まって高位聖職者たち全てが、この公会議がそのような権威を持っているかのごとく信者たちにこっそり信じこませていたのです。

上記のように表現することは、教会およびローマ教皇の権威に疑問を投げかけているように見えるため、行き過ぎだと感じる人々がいることは承知しています。ところが、聖ピオ五世の教令「クオ・プリムーム・テンポーレ[Quo primum tempore]」に違反し、ローマ式典礼の全て、聖伝のミサという教理と霊性の幾千年にわたって敬うべき宝、グレゴリオ聖歌や聖なる音楽という巨大な遺産、典礼や祭服の持つ美を即日廃止し、最も卓越したバシリカにおいてさえ、欄干、不朽の祭壇や聖櫃を取り除いてその建築的調和を損なわせることには、まったく良心の呵責がなかったのです。「人に向く」という公会議の刷新の祭壇上にすべてのものが犠牲に捧げられたばかりか、それにも増して深刻であったのは、その典礼が見事なまでにカトリック的であり、第二バチカン公会議の精神と相容れない、というまさにその理由のために、すべてが犠牲にされたということでした。

教会は天主のお定めになった制度であり、教会のすべては天主から始まり、天主に帰らなければなりません。危機に瀕しているのは支配層の威信でもなければ、企業や政党のイメージでもありません。ここで問題になっているのは天主の御稜威の栄光であり、主の十字架上でのご受難や、聖母の御苦しみ、殉教者の血、聖人たちの証し、霊魂の永遠の救いを無にしないということです。もし私たちが、傲慢のため、あるいは不幸にも頑迷であるために、自らが陥った誤謬や欺瞞に気づくすべを知らないのであれば、私たちは天主に申し開きをしなければなりません。天主はご自分の民が悔い改めるならばその民にあわれみ深いお方であるがごとく、その民が「私はお仕えしない」というルチフェルに従うならば正義において御容赦はなさいません。

親愛なるローラー博士、あなたとあなたの読者の皆さんに対して、私は心から、私たちの主と私たちの聖母の御取り次ぎを通じて、私たちの主の挨拶と祝福をお送りします。
[ジュゼッペ・ペレグリノによる公式訳]


ヴィガノ大司教の主張の要点は次の通りと考えます。

*第二バチカン公会議は、それ以前のすべての公会議とは異なり自らを司牧的公会議とし、新しい教理の提案を望まない、教義上の権威を行使しないと荘厳かつ明確に断言した【理論】。

*しかし、実際には、公会議前と後では断絶が生じ、「教義的」(公会議前)という概念と「司牧的」(公会議後)という概念の間の対立が生じた。つまり、明確な用語の意味(公会議前)と空疎なおしゃべり(公会議後)の対立、異端排斥(公会議前)と世俗へのへつらい(公会議後)という態度の違いが生じた【現実】。

*実は、教義的なものこそ司牧的である。羊や小羊を牧すとは、教える務めを行使することだから。しかし、第二バチカン公会議によって、教義=厳密で明確な意味、司牧的=柔軟で融和的意味・あいまいな語彙・間違って理解されたカトリック用語、の対立が生まれた。

*第二バチカン公会議のもう一つのあいまいさは、メディアの中では公会議の決定があたかも強制的であるかのように強調されたことだ。公会議自体が自ら不可謬の権威を持っていないことを正式に宣言しつつ、公会議の教皇たちから始まって高位聖職者たち全てが、この公会議が不可謬の権威を持っているかのごとく信者たちにこっそり信じこませていた。

*カトリック信徒は、公会議を礼拝するのではなく、至聖三位一体である唯一のまことの天主を礼拝する。教導権が伝達する真理に崇敬をしめす。真理こそがもっとも重要である。

*教会に非常に強力で組織化された敵対勢力が存在していて、バチカン大聖堂の天井のまさに直下で、カトリック教会の退位と革命の開始を布告する「三部会」が招集されてしまった。それが第二バチカン公会議だ。第二バチカン公会議は過去との決裂の瞬間だった。

*「"公会議の精神"とは第二バチカン公会議それ自身とは違い、第二バチカン公会議を誤って解釈したものだ」という主張は、不必要で有害である。第二バチカン公会議の中に巧妙に隠されていたことが、今では教皇文書の中ではっきりと肯定されている。公会議の精神とは公会議そのものであり、公会議後の時代の誤謬は公会議の決議の中に含まれていた。

*解決策は、私たち全員が謙遜に事実を認めること。キリストを三度否んだ後、ペトロは激しく泣いた。将来の教皇は、切れた聖伝の糸をつなぎ直すだろう。これは敗北ではなく、真理と謙遜と勇気の行いとなるだろう。使徒のかしらの後継者の権威と不可謬性は、無傷のまま、再確認されるだろう。

*教会は天主のお定めになった制度であり、教会のすべては天主から始まり、天主に帰らなければならない。【第二バチカン公会議によって、人間による別の新しい教会を作ってはならない。】今の問題は、天主の御稜威の栄光であり、主の十字架上でのご受難や、聖母の御苦しみ、殉教者の血、聖人たちの証し、霊魂の永遠の救いを無にしてはならない。

*もし私たちが謙遜に悔い改めて第二バチカン公会議の誤りを認めるなら、天主はあわれみ深いお方であるが、もしも「私は仕えない」というルチフェルに従うならば、天主は正義において容赦はしないだろう。


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