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「私たちは教会の受難の証人となるように、十字架のふもとに立つ」―現代カトリック信者の義務(2021年7月14日)

親愛なる「Duc in altum」の友人の皆さん、カルロ・マリア・ヴィガノ大司教が、私の記事「教皇が病院にいる間に」[【日本語訳は、ヴィガノ大司教の記事の下に掲載してある】をきっかけに、この寄稿文を送ってくださいましたので、ここでご紹介します。大司教に感謝申し上げるとともに、大司教の言葉をお借りして、「試練の時に私たちに力を与えてくださるよう聖霊にお願いしつつ、謙遜に祈りましょう」。

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In hac lacrimarum valle
この涙の谷に

親愛なるヴァッリ博士、

若き日のヨゼフ・ラッツィンガーが行った有名なラジオ黙想から取ったイメージを使ってあなたが書かれた、教会の状態についての考察、また、カトリック信者が、ただ死ぬだけの瀕死の現実を抜け出して、もっと闘争的でゲリラ的な新しい次元へ「移行」することについての考察を読んで、私は感動しました。

この「移行」は、キリストの神秘体から出て行き、過去を失ったことを嘆き現在にうんざりしている人々の心の中に作られた、人間的でユートピア的な現実へと向かう移行ではありません。なぜなら、もしこれが私たちの誘惑であるならば、私たちは教会そのものへの裏切りを犯すことになり、私たち自身を教会から引き離し、その結果、教会だけがその成員に保証する私たちの救いを排除することになるからです。

この矛盾をよく考えてみてください、親愛なるアルド・マリア、もしもそうであれば、不変のカトリックの教導権に忠実であることを誇りにしていると宣言している人々は、私たちが皆、exsules filii Evae(ちくたく[逐謫:追放]の身なるエワの子)であること、そしてこの涙の谷をgementes et flentes(泣き叫びて)進んでいることを思い起こすことはなく、まさに[偽りの]オアシスを構築していることになってしまいます。

教会は終了していませんし、これからも終わりません。私たちが知っていることは、主がご自分の群れの牧者として置かれた人々によって、まだ生き残っているわずかなカトリックの人々が、あれでもかこれでもかと解体されるのを私たちが目撃しているというこの恐ろしい危機が、神秘体の悲しみに満ちた受難であり、神秘体の埋葬を示すということです。これは御摂理が定めたように、神秘体はすべてにおいて自らの天主なるかしら【キリスト】を模倣しなければならないのです。

ですから、それもエルザレムの暗い空の下、ゴルゴタで起こりました。そのとき、天主の御子が十字架に上げられたのを見て、このナザレト人の短い幕あいが終わったと信じる人たちがいたのです。しかし、悲観主義、恐怖、日和見主義、あるいは公然の敵意から、教会の死の響き音を冷笑的に観察する人々とともに、教会とそのすべての成員を待ち受ける復活の、必要にして不可欠な前提であることを知っているにもかかわらず、その苦悩の前でうめき、心が裂けるような思いをする人々もいます。死の響き音は恐ろしいものです。それは、用意日(Parascere)の不信の沈黙と、それに伴うサタンの世界支配を貫いた主の叫びのようなものです。「Eli, Eli, lamà sabactani!」(わが天主、わが天主、なんぞわれを捨て給いしや!)。

私たちはキリストの叫びを聞き、一方で教会はうめきます。私たちは、槍や棍棒、酢を浸した海綿のついた葦を目にし、群衆の下品な侮辱、最高法院(サンヘドリン)の挑発、衛兵への命令、敬虔な婦人たちのすすり泣きを耳にします。

さあ、親愛なるヴァッリ博士、今日、私たちは教会の受難の証人となるために、十字架のふもとに立たなければなりません。立つとは、直立し、静止し、忠実であることを意味します。至聖なるマリアとともに、悲しみの御母―stabat Mater dolorosa(悲しみの御母はたたずみ給う)―は、主が聖ヨハネという人を通じてまさに十字架のふもとで私たちの母として与えてくださり、そのことよって私たちは、その同じ最愛の弟子とともに、主の御母の子どもとなったのです。受難の痛みがキリストの神秘体において更新されるのを見るという苦悩の中にあっても、私たちは、この最後の荘厳な時の儀式によって、贖いが成就されることを知っています。

ご托身になった天主の御子によって成し遂げられた贖いは、贖われた人々においてその神秘的な一致を見いださなければなりません。御父は、私たちみじめな罪人を贖うために御独り子の犠牲を喜んで受け入れられたように、受難の苦しみが教会や個々の信徒に反映されるのを見守っておられます。このようにして初めて、まことの天主にしてまことの人であるイエズス・キリストが人間の名によって成し遂げられた贖いのみわざは、私たちを協力者かつ参加者とすることができるのです。私たちは、自分の知らない計画の受動的な対象者ではなく、むしろ、私たちの天主なるかしらの模範に従って、私たちの救いと兄弟の救いの能動的な主役なのです。このことによって、私たちは事実上、司祭なる民であると言えるでしょう。

この恐ろしい時代の荒廃に直面して、位階階級の背教と教会の体の苦悩に直面して、私たちは真に悲観的になったり、絶望やあきらめに屈したりすることはできません。

私たちは、新しい大司祭たちが唾を吐きかけ、新しい最高法院が罵り、悪態をついている十字架のふもとに、聖ヨハネと御悲しみの童貞とともにいるのです。一方で私たちは、司祭階級の指導者たちが率先して主を死なせようとしていた人々であることを思い起こします。ですから、教会の受難の時に、彼らの霊魂の盲目さがもはや理解することできないものを嘲笑するのが、まさに彼らであることは、驚くべきことではありません。

祈りましょう。試練の時に私たちに力を与えてくださるよう聖霊にお願いしつつ、謙遜に祈りましょう。かつてキリストにしたように、今日、鞭を振り回し、いばらの冠を教会の頭に押し付け、釘を打ち込み、教会の脇腹に傷をつける人々のために、祈り、償い、断食を増やしましょう。また、黙って見ている人々、あるいは見て見ぬふりをしている人々のためにも祈りましょう。

祈りましょう。泣く人々のために、ハンカチを出して【受難で】醜くなった【教会の】顔を拭く人々のために、しばらくの間【教会の】十字架を担う人々のために、墓や遺体を包む布、貴重な油を用意する人々のために。「Exspectantes beatam spem, et adventum gloriae magni Dei, et Salvatoris nostri Jesu Christi―偉大な天主であり救世主であるイエズス・キリストの幸福と希望と光栄の現れを待ちつつ」(ティト2章13節)。【バルバロ訳と1節のずれあり】

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

2021年7月14日
司教教会博士聖ボナヴェントゥーラの祝日

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