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ヴィガノ大司教のノヴァラ教区司教への公開書簡:聖伝のミサの停止について「二千年の信仰によって私たちにまで受け継がれた聖なる言葉で祈りたいと望むことの何がそんなに耐え難く、そんなに嘆かわしいことなのでしょうか?」

ヴィガノ大司教のノヴァラ教区司教への公開書簡:聖伝のミサの停止について

  • 信者は、聖伝のミサを奪われるに値する、いったいどんな憎むべき罪を犯したというのでしょうか? このミサは、ベネディクト十六世によって「決して廃止されていない」と認められましたが、今日では第二バチカン公会議の教会論に反するために分裂を招くものとして取り消されています。

  • シノダリティーに関するシノドスで多くの司教が語る、天主の民への配慮と耳を傾けることは、どこに行ってしまったのでしょうか?

  • 信者たちが自分の司教に求めているものは、何世紀にもわたって教会の祈りの声となってきた典礼の使用を自由に享受したいということだけです。

  • 昨日まで教会が教え、推奨していたことが、今日では、教会で統治の役割を持つ人々によって軽蔑され、禁止されている一方で、以前はキリストの教えに反すると考えられていたことが、今では、従うべき模範とされているのです…。

  • 二千年の信仰によって私たちにまで受け継がれた聖なる言葉で祈りたいと望むことの何がそんなに耐え難く、そんなに嘆かわしいことなのでしょうか?

【解説】カルロ・マリア・ヴィガノ大司教は、前在米国教皇大使でした。それ以前にはバチカン市国行政庁次官(教皇に次ぐ第二の管理者 Secretary General of the Vatican City Governatorate)というバチカンの高位聖職者でした。ヴィガノ大司教は聖ピオ十世会の会員ではなく、聖ピオ十世会とは直接の関係はありません。

聖ピオ十世会はマルセル・ルフェーブル大司教によって創立されました。ルフェーブル大司教は、聖霊修道会の元総長であり、ピオ十二世のもとでの教皇使節【教皇大使】でしたが、教会法に従って聖ピオ十世会を創立し、新しい典礼がカトリックの信仰から離れていることを50年以上も前からすでに警告していました。新しい典礼について、ヴィガノ大司教が今、警告しているので参考情報としてご紹介いたします。

聖ピオ十世会は、カトリック教会が、二千年の間、信仰し続けてきたことを信仰し、やり続けてきたことをやり続けているという理由だけで、疎外されています。信じられないような現実が今、目の前で繰り広げられています。

カルロ・マリア・ヴィガノ大司教の公開書簡

司教閣下、

司教様が最近、オッソラ渓谷(イタリア・ピエモンテ州)のヴォコーニョ教会とサン・ビアージョ礼拝堂におけるトリエント典礼の挙行を停止するという決定をなさったことは、何千人もの信者と聖伝の典礼(こちら)に結びついている司祭たちの間に大きな苦渋を引き起こしました。何年にもわたって自発教令「スンモールム・ポンティフィクム」(Summorum Pontificum)が適用されてきた後、司教様が冷淡にも「トラディティオーニス・クストーデス」(Traditionis Custodes)の規定を実行なさったことで、深い怒りを覚えました。教会法の条項が教区長に与えている権能によって、司教様がそれをしないでいることがおできになるという事実にもかかわらず、です。

司教および使徒の後継者としての司教様の役割が、ローマが行使する明白な権威主義の圧力によって試されていることは理解できます。ローマの絶対的命令(diktats)への従順と、信者の神聖な権利の保護との間で選択を迫られ、最も人間的に単純な選択が、他の時代であればドン・アボンディオ神父を、領主ドン・ロドリゴと「名前を隠した男」(Innominato)【いずれもマンゾーニの小説「いいなづけ」の登場人物】による弾圧に加担するようにさせた選択であることも、同様に理解します。このミサは、行う必要はない、権力者がそう望んでいるのだから、と。

「あわれみの教会」は、その権力を、強制力をもって行使しているのです。その強制力は、逆に、もっと深刻な状況、つまり神学的逸脱、道徳的異常、典礼の領域での冒涜と不敬を癒やすために使われるべき時には、行使されていません。天主の民に与えられた位階階級のイメージは、〈弱者に強く、強者に弱い〉という格言に要約されます。これは、言わせていただけるなら、司教様が司教としてお誓いになったこととは正反対のものです。

パレーシア(parrhesia)【包み隠さずはっきりさせること】とシノダリティーへの多くのアピールは、言葉ではしばしば嘆いている例の聖職者主義が原因の権威主義的な決定によって日々否定されています。ヴォコーニョとサンビアジオの信者は、聖伝のミサを奪われるに値する、いったいどんな憎むべき罪を犯したというのでしょうか? このミサは、ベネディクト十六世によって「決して廃止されていない」と認められましたが、今日では第二バチカン公会議の教会論に反するために分裂を招くものとして取り消されています。有名な〈連続性の解釈法〉は、どこに行ってしまったのでしょうか? シノダリティーに関するシノドスで多くの司教が語る、天主の民への配慮と耳を傾けることは、どこに行ってしまったのでしょうか?

ニケーア・コンスタンティノポリス信経において、私たちは、教会が一(いつ)、聖、公(カトリック)、使徒継承であることを告白します。教会は、全世界への広がりにおいてだけでなく、時間の経過においても出来事の展開においても〈一つ〉です。忠実なカトリック教徒は、自分の時代の教会と交わるだけでなく、必然的に全時代の教会と交わらなければなりません。カタコンベの教会、コンスタンティヌスの教会、聖ベルナルドの教会、聖ピオ五世の教会、福者ピオ九世の教会と交わらなければなりません。信仰の法(lex credendi)とそれを表現する祈りの法(lex orandi)は、最新の流行や偶発的な出来事によって決定された不純物の影響を受けてしまうことはあり得ません。しかし、もしアンニバレ・ブニーニの近代主義の心から生まれた祈りの法(lex orandi)が、「公会議の教会」の唯一の礼拝の表現として認められるとすれば、このことは、それが表現する教理が、数世紀にわたって伝えられ、カトリック教会によって忠実に守られてきた、私たちの主の使徒たちへの教えではないもの、つまり主の教えに反するものだということを意味します。もしこの聖伝との断絶が「トラディティオーニス・クストーデス」(Traditionis Custodes)の起草者【教皇フランシスコ】自身によって認識され、認められるとすれば、このことは、「公会議の教会」をカトリックの聖伝の外に置いてしまい、それによって、主がその権威を制定なさった目的に反して法を公布する正当な権威を排除するのです。

司教様がこの考え方を共有なさり、トリエント・ミサを「共に歩む(synodal)教会」にとって融通の利かない、余計なものと考えておられるかどうか、私は承知しておりません。私には、司教様のご決断が、信仰の遺産(depositum fidei)を守る義務から外れたやり方で司教の権威を行使していることを示している以上に、教会から憂慮すべき距離を置いていることを示している、つまり、その決定がもたらしうる結果について全く心配せずに、自らのイデオロギー的プログラムに従う位階階級の不一貫性や特異性による犠牲者であることを示しているように思われます。

その結果は、教会の不変の教導権、司祭の正当な権利、そして信者の霊的必要性を平気で踏みにじる〈新し物好き〉(rerum novarum cupiditas)という、非常に悪い印象を与える牧者のイメージになっています。ご存じのように、信者たちが自分の司教に求めているものは、何世紀にもわたって教会の祈りの声となってきた典礼の使用を自由に享受したいということだけです。60年にわたる【第二バチカン公会議の】失敗と異常が――古い典礼が新しい典礼の欺瞞と偽りを明るみに出すからという理由だけで――違法とすることはできない聖伝の典礼に与る自由です。

ノヴァラ教区の信者、そして、世界中の何百万という聖伝の信者は、権力がその正当性を引き出す目的そのものに反するこの権威主義的な権力の行使から、どんな教えを引き出すのだろうかと私は思います。彼らが不当と考える命令に従おうとも、あるいは、人ではなく天主への従順の名の下にその命令に反対しようとも、牧者の権威は全く信用されません。なぜなら、昨日まで教会が教え、推奨していたことが、今日では、教会で統治の役割を持つ人々によって軽蔑され、禁止されている一方で、以前はキリストの教えに反すると考えられていたことが、今では、従うべき模範とされているのですから。

古いミサの使用(usus antiquior)に結びついた司祭と信者は、そのほとんど全員が、確信を持たずに単に迎合主義からノブス・オルド(Novus Ordo)の押しつけを甘んじて受け入れた人々ですが、彼らに対してどんな非難ができるでしょうか? 彼らが天主の礼拝を望んでいるという事実でしょうか? 典礼挙行の際の記念と礼儀正しさでしょうか? 改革された儀式の意図的に曖昧な空虚さに比較したときの、聖伝の典礼文の比類なき豊かさでしょうか? ここ地上で期待する天の宮廷の栄光を見ることへの憧れでしょうか? 騒々しい兄弟的なアガペー――そこにおいて主は、人間自身を祝うための言い訳に過ぎない――の代わりに、キリストのご受難を敬虔に観想することでしょうか? 二千年の信仰によって私たちにまで受け継がれた聖なる言葉で祈りたいと望むことの何がそんなに耐え難く、そんなに嘆かわしいことなのでしょうか?

ヴォコーニョの信者と司祭は、世界中の教区に散らばるすべてのカトリック教徒と同様に、アリウス派の異端の時、偽りの宗教改革の時、英国国教会の離教の時に起こったように、これらの絶対的命令(diktats)から逃れる方法を見つけるでしょう。不可侵の権利を奪われることによる彼らの苦しみは、天主をお喜ばせする忠実さが試されているのであり、ちょうどフランスの恐怖政治の時代に屈服しなかった聖職者が行ったようなものです。しかし、司教様が、彼らを新しい儀式に引き入れたり、父祖の宗教に忠実であり続けようとする彼らの決意を曲げらたりできるとは思わないでください。せいぜい、彼らが毎日のミサの慰めを受けたり、主日や聖日の典礼行事にあずかったりするのを妨げることができる程度でしょうが、こうしたことはすべて、信者間の調和や、教会の権威に対する信者の尊敬の念のどちらにも有利には働かないでしょう。

時が彼らの正しさを証明することになるでしょう。ちょうど、誤った権威や隷属した権威によって押し付けられた異端の逸脱に対して、素朴な者が告白したカトリックの正統信仰を対比させる出来事で常に起こったように、です。天主の御裁きもまた、彼らの正しさを証明することになるでしょうし、この裁きに対して、司教様は司教としての自分の仕事を弁明しなければならなくなるでしょう。ベルゴリオの最高法院(サンヘドリン)が司教様を裁くのではありません。司祭評議会も、今や信用を失った公会議の物語(ナラティブ)をつなぎとめるために、すでに失われたこの戦いで司教様を自己中心的に支持する偽りの友人たちも、司教様を裁くのではありません。ですから、私は、司教様の年齢と公正な裁判官【キリスト】との出会いが避けられないことを考慮し、最後のこと【四終】と司教様の永遠の運命について健全な考察をしていただくことが最も適切であると信じています。もし司教様が天主のみ旨に従って行動してきたと、また今も行動していると信じておられるなら、何も恐れることはありません。司教様はオッソラ渓谷の信者と司祭を反逆者とみなし続けてもいいですし、聖伝のミサを禁止し、現在ある権力に無条件に服従することをすべて示してもいいのです。しかし、この世の権力者は過ぎ去り、彼らを支持し彼らに従う者たちは、忘却の彼方か全員一致の断罪を受ける運命にあることを忘れないでください。

永遠の栄光を受けるに値するために司教様に残された時間を意識することで、ご自身の足跡を振り返っていただき、司教様に世話をするよう託された信者に対して真の慈愛の行為を行ってくださるという希望をもって、私は司教様を(当然、聖ピオ五世の【聖伝の】)ミサの聖なる犠牲において記念することを保証し、慰め主なる聖霊が賢慮の賜物で司教様を照らしてくださるよう懇願するつもりです。

キリストにおいて最も忠実なる、

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

追伸

この公開書簡は、兄弟である司教の方々、つまり、ブランビリア司教と、自発教令「スンモールム・ポンティフィクム」の有益な効果を無効にするように、ローマ教皇庁から圧力を受けていることが明らかになったすべての司教の方々にも宛てられております。


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