ヴィガノ大司教、全員が新型コロナウイルス感染症のワクチンを受けねばならないと言う教皇フランシスコに反応(2021年1月14日)
聖座によるワクチン推進に関するカルロ・マリア・ヴィガノ大司教の考察:2021年1月15日(LifeSiteNews)
Sanitas corporum suprema lex.
体の健康は最高の法である。(教会法の Salus animarum suprema lex 「霊魂の救いは最高の法である」 をもじった表現)
数日前、イタリアの民放テレビ「カナレ5」(Canale5)で、ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ( [注]フランシスコ教皇の本名) が製薬会社の「スポンサー」という異例の役割で登場したインタビューが放送されました。私たちはすでに彼を政治家の役割で、労働組合員の役割で、制御なしの移民容認の推進者という役割で、不法移民を歓迎する支持者という役割で、そして慈善家という役割で見てきました。
これらすべての役割の変容の中で常に浮かび上がってきているのは、自分の組織の役割[教皇職]から完全に遠ざかることができる彼の能力と並んで、このアルゼンチン人の多面体的な性格です。私たちは今、彼が製薬会社の「推進者」であり、確信的なワクチンの「支持者」であり、1年前から大衆をコントロールし、世界経済フォーラムが望んでいる「グレート・リセット」を押し付ける手段として新型コロナウイルス感染症を利用してきた人々の熱烈な「応援者」でもあることを発見しています。
ワクチンが有効性を保証するものではなく、むしろ深刻な副反応を引き起こす可能性があるという事実もあります。いくつかのケースでは、ワクチンが中絶した胎児から採取された細胞に由来して製造され、それゆえにカトリックの道徳と完全に相容れないという事実もあります。高免疫血漿(けっしょう)を用いた治療、そのほかの代替治療プログラムを用いた治療は、その有効性の証拠があるにもかかわらず、使用を拒否されているという事実も存在します。
こういったすべてがあっても、全くゼロの医学的能力に基づいて今、信徒にワクチンを推奨している一方で、ベルゴリオの主権者としての権威を利用して不特定の「倫理的義務」の名の下に、疑わしい治療を受けるようバチカンの市民に要求している新しい「専門家たち」にとっては、それらの事実はほとんど意味がないのです。殺風景なパウロ六世記念ホールは、この新しい公衆衛生の儀式を行うための神殿として、象徴的に選ばれました。そこでは「新型コロナウイルス感染症教」という宗教の役務者たちが司式を務めますが、それは霊魂の救いを保証するためではなく、体の健康に対する偽りの約束を保証するためです。
異端者や偶像崇拝者との対話という名の下に、無節操にも少なくないカトリックの諸真理を破壊した後、ベルゴリオが放棄することができないただ一つの「教義」が、予防接種の義務という教義であるのは、不愉快なことです。気を付けてください。これは[シノドス好きの]彼が、いかなるシノドスの手続きもなしで一方的に定義した「教義」です。教義とは、その発表前に、たとえ道徳的な一貫性がなくても、少なくとも功利主義的な細心の注意によって、最低限の賢明さがあることを人々が期待するようなものです。
なぜなら、遅かれ早かれ、人々に対するワクチンの効果が発言するようになったとき、ワクチンが引き起こした死者の数や、まだ実験中の薬によって生涯にわたって不具になってしまった人々がどれほど多くいるのかを数え始めたとき、誰かが確信的なワクチン支持者に説明を求めることができるようになるからです。
その時点では、自分たちに認められた権威に基づいて、無防備な被験者に、いわゆるワクチンを接種するように説得した者たちのリストを作成するのが、まったく当然のことになるでしょう。彼らは、自称専門家、利益相反のあるウイルス学者や免疫学者たち、大手製薬会社に雇われている蚊の専門の科学者たち(zanzarologi)、科学的野心を持った獣医師、政府が資金提供したジャーナリストや世論形成を行った者、面目を失った映画スターや人気歌手らですが、このリストにベルゴリオも例外的な支持者として、側近の高位聖職者たちとともに加えなければなりません。[訳者注:特にイタリア人読者には、ヴィガノ大司教の挙げたリストで誰のことを言っているのか個人を特定できるだろう]
そして、もしも現在、この問題に関する専門能力に欠けているということが、それを理由に少なくとも賢明な沈黙を守るべきだと考えるには十分でないと思われるなら、その時が来れば「知らなかった…」「想像もしなかった…」「私の専門分野ではなかった…」と彼らが抗弁しても、彼らの罪を重くさせる要因としてのみ判断されるでしょうし、そのように判断されるべきです。「Stultum est dicere putabam [「私はそうと思っていた」と言うのは愚かなことである]」。
もちろん、ベルゴリオの教会では、同棲は使徒的勧告「アモーリス・レティチア」(Amoris Lætitia)で合法化することができ、イタリアのカトリック日刊紙「アッヴェニーレ」(Avvenire)は今日、ジェンダー・プロパガンダのパンフレットのように簡単に「LGBTの子育て」を語ることができ、母なる大地を礼拝する偶像崇拝的な儀式は、マルサス的環境主義に好意を示しながら聖ペトロ大聖堂で行うことができます。聖なる叙階の秘蹟の問題は修正され、女性に役務者の資格を授与することできます。死刑は不道徳と宣言することができ、他方で妊娠中絶についてはさりげなく黙っているのです。汚聖を犯さないために舌でご聖体を受けることを望む人々にはそれを拒否しながら、公の罪人にご聖体を授与することができます。教室へ入るのは、すでにアイルランドで起こったように、予防接種を受けていないカトリック学校の生徒には拒否することができます。
そして、さらにカトリックの教義に対するこれらの露骨な冒涜は、公会議による革命と完璧なイデオロギー的連続性をもっており、しかも、秘教と迷信の境界線上にある「科学」というものへの確固とした揺るぎない信仰告白を伴っているのです。一方で、天主を信じることをやめれば、何でも信じることができます。
このように、ベルゴリオにとって、洗礼によって唯一のキリストの教会に属することが霊魂の永遠の救いに究極的には余計なことであったとしても、ワクチン開始の儀式は、個人の肉体的な健康に不可欠であることが「エクス・カテドラ」(ex cathedra [聖座からの不可謬宣言に例えている])で宣言されており、不可欠なものとして、それは延期不可能で必要なものとして提示されています。
エキュメニズムと宗教間対話の名の下に、啓示された真理を脇に置くことが可能であるならば、新型コロナウイルス感染症の「教義」や、パンデミックについてのメディアによる啓示、ワクチンという救いの秘蹟に疑問を呈することは同様に許されません。そして、回勅「フラテッリ・トゥッティ」(Fratelli Tutti)によって、普遍的な兄弟愛が、生けるまことの唯一の天主への信仰から離れて推し進められるのならば、いわゆる「否む者」との接触は許されません。否む者とは、新しいカテゴリーの「避けるべき」罪人であって、群れへの警告となるように、健康の異端審問とメディアの破門によって異端として処罰されなければなりません。
「この教えを持たずにあなたたちのところに来る者があれば、その人を家に入れず、挨拶もするな」(ヨハネの第二の手紙10節)と聖ヨハネは警告しています。ベルゴリオは誤解したに違いないので、彼は中絶賛成者や犯罪者に挨拶をしたり受け入れたりしていますが、自らを「反ワクチン派」に汚染させることはないのです。
この科学絶対の教義主義は ---- この教条主義は、科学が宗教よりも優先するということを最も熱烈に支持している者たちさえをも恐怖に陥れるものですが ---- 、科学者ではない人々によって広められています。影響力のある情報発信者(インフルエンサー)たちからベルゴリオまで、スポーツ選手からバイデンまで、いわゆる「専門家」から政治家までが宣伝しており、私たちは逃げられないでしょう。彼らは皆、テレビカメラの前で腕を出すことに熱心ですが、ビデオでよく見ると多くの場合は注射器の針がまだキャップで覆われていたり、ワクチンの血清は実際には不透明であるはずなのに接種液が透明だったりします。
これらは明らかに、新型コロナウイルス感染症の大司祭たちが軽蔑をもって[ワクチンを]拒否している[ワクチンへの]反対意見です。「神秘」(mysterium)とは、神聖な行為を儀式化することの一部です。それはちょうど「秘蹟」(sacramentum)がそれが意味するものを成し遂げるのと同じように、です。
押すと引っ込む針で、あるいは注射器のプランジャー [押し子] を押すことなくワクチンを投与することは、大衆の信者たちに伝わるべきメッセージを「劇的に演出する」のに役立ちます。そして、この儀式の犠牲者たち、すなわちファイザーやモデルナ、アストラゼネカでさえ保証する勇気がない免疫という幻影に、すべての人の善のために素直に身を捧げている人々は、新しい健康宗教の一部でもある「いけにえ」(sacrificium)を表しています。
さらによく調べてみると、ワクチンを製造するために妊娠3カ月目に中絶された罪のない赤ちゃんたちは、邪悪な者だけが見て見ぬふりをすることができる恐ろしいパロディーの中で、地獄の力を讃美するための一種の人間のいけにえとなっているように見えます。
グロテスクな儀式の狂ったような興奮状態の中で、典礼聖省の注意書きさえも欠くこともありません。同省は、不条理を完全に無視しながら、灰の水曜日に聖灰を塗る方法についてをおかしなラテン語で公布しています。「Deinde sacerdos abstergit manus ac personam ad protegendas nares et os induit[その後、司祭は手を洗い、鼻と口を保護するためにマスクを着けます]」[古代ローマの演劇用の"仮面"という単語をマスクとして使っている]。洗剤を使った手の清めとマスクの使用は科学的には無意味ですが、儀式によって表現された「信仰」の伝達には象徴的に必要なことです。そして、まさにこのことから、アキタニアのプロスぺロの古代の格言「Lex orandi, lex credendi」[祈りの法は信仰の法]がいかに真実であり、いかに有効であるかを理解することができます。この格言によれば、祈る方法が信じることを反映させているからです。
誰かが、ベルゴリオが実行した教皇職の完全な崩壊を避けようとする敬虔な試みで、ベルゴリオが表明した「意見」はまさに意見であり、まさに意見のままにとどまっており、それゆえに、カトリック教徒には自分の良心と自然道徳とが不道徳であることを証明するそのワクチンを受ける義務はない、と異議を唱えるでしょう。
しかし、「カナレ5」では、新しい「教皇の教導職」が、明示的に発表されたのです。それはちょうど、飛行機の中で、LGBTについての教義「裁くような私は一体誰なのか?[だれも裁くことはしない、私は裁かない]」が定義されたのと同じであり、また、ちょうどそれは「アモーリス・レティチア」の脚注で、結婚の非解消性が司牧的実践の名の下に否定されたのと同じです。政治家がソーシャルメディアでツイートし、自称専門家がテレビスタジオでもったいぶって話し、高位聖職者たちがインタビューで説教します。将来のいつかベルゴリオが[エコロジーの]電動スクーターを勧めるために宣伝に登場しても驚かないでください。
カトリック教徒は、信仰や道徳と衝突するものを自分たちに本能的に指し示してくれる「信仰の感覚(sensus fidei)」によって照らされ、この医療供給物のセールスマンの役割が、多面体的なベルゴリオが果たす多くの役割のうちの一つに過ぎないことをすでに理解しています。
彼が頑なに果たしたくないと強く主張している唯一の役割は、キリストの代理者の役割です。その理由は、彼のあからさまな無能さのため、生来の短気さのため、あるいはまさに最初から意図的にそれを選択していたためです。このキリストの代理者の役割を果たしたくないということは、まさにこれ以外の何ものでもなく、このアルゼンチン人の参照ポイントが何であるのか、彼を動かしているイデオロギーが何であるのか、彼が設定している目標と、その目標を達成するために彼が使おうとしている手段が一体何なのかを明らかにしているのです。
+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ
2021年1月14日
司教証聖者教会博士聖ヒラリオ