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マジステル氏への回答「公会議を強く批判する意見をあえて表明したことが、異端審問的な精神を呼び起こすに十分であったことは承知しています」(2020年7月)

【解説】有名なバチカン専門のジャーナリストであるサンドロ・マジステル氏は、第二バチカン公会議の批判をしたヴィガノ大司教に対して厳しい批判の記事を書きました。マジステル氏は、ヴィガノ大司教をあたかも異端審問するかのように、酷い言葉で「離教の瀬戸際」であるとしました。

それに対してヴィガノ大司教は、強く非難するマジステル氏に礼儀正しく、知的に鋭く同時に皮肉交じりに返答しています。マジステル氏に対する答えの行間からは、ヴィガノ大司教の怒り心頭の様子さえもうかがえます。その背後には分かってもらえない悲しさとあわれみがあるのかもしれません。
要点を列挙するのをお許しください。

* 誰かが批判意見をしても、まともな考えを持った人なら、その批判意見に異端審問のような発言は決してしない。しかし、公会議を強く批判する人にだけは、異端審問のような酷い非難がなされる。[だからあなたもそうしたのだろう。]

* 公会議を批判したことを非難する人は、議論の根拠を吟味もせずに「離教の瀬戸際」と悪口を言うだけだ。しかし「離教ぎりぎり」という悪口を受けるに値する進歩主義の司教や枢機卿らは他に多くいる。[あなたは非難の相手を間違えている。]

* 進歩主義者たちは首位権を主張し、自分の敵を劣ったものとし、注意を払ったり応答したりせず、ルフェーブル派、ファシスト、とレッテルを張って粛正する。しかし彼らには議論がないので、議論のルールを指示したり、誰が発言できるかを決める正当性はない。[あなたは、進歩主義者と同じ態度を取っている。]

* あなたの「離教の瀬戸際」という記事は、最初は、バチカン宮殿やあなたのオフィスにその肖像が飾ってある君主[フランシスコ教皇]について書いた記事だと思った。それならごもっともな"賛辞"だと思った。しかしヴィガノ大司教のことであるなら、それは"不正確"だ。

* 公会議を「器」として、公会議の本来の目的を歪めて、利用した人々によって、私たちは全員がだまされた。公会議の中心で組織化された少数の「陰謀家たち」が教会を内部から破壊するためにこの公会議を利用したりすることなど、またその陰謀家たちが、教会の権威者の沈黙や無為を当てにしてそのような陰謀ができたなど、私たちは教会と教皇制を愛するがゆえに、想像すらできなかった。

* 公会議を伝統的に意味においての再解釈を行うというベネディクト十六世の最近の立場は、1970年代の神学者ヨゼフ・ラッツィンガーの立場とはまったく異なっていた。ラッツィンガー自身が公会議に悪意の存在を認めている。諸文書中の意図的なあいまいさが存在する目的は、対立して相容れないビジョンを保持し、啓示された真理を損なうことであった。

* 第二バチカン公会議の支持者らは、第二バチカン公会議以前のカトリック教会があたかも存在していなかったかのようにその痕跡を抹消した。記憶の抹殺である。あたかも、第二バチカン公会議が"新しい教会"の最初の公会議で、第二バチカン公会議により"古い宗教"と"古いミサ"は終わったかのようになった。

* あなたが「第二バチカン公会議は途切れることのない一連の出来事の最新のもので、聖霊は第二バチカン公会議を通して語る」と言いたいのなら、なぜ、新しい典礼と新しい暦、新しい教理、「新しい祈りの法は、新しい信仰の法」が与えられ、過去を軽蔑して距離を置いたのか?

* 第二バチカン公会議の正しい解釈とはいったい何なのか?第二バチカン公会議は、対立する解釈や逆の解釈を正当化することができるように不明瞭にした言葉をわざと採用したので、その解釈は数えきれない。つまり誤謬が支配している。誤謬のある所には愛徳はありえない。この大混乱から、凍りついた実りのない例の"公会議の春"が起こった。

* 解釈法とは"おとぎ話"だ。教会を貶める罠に「公会議」という権威を与えようとする試みの一つだ。公会議を神聖化しようとして、公会議を開催した教皇たちが「公会議の教皇」であったことを理由に、次々に列聖されている程だ。

* マリア・グァリーニ博士の言うとおり、第二バチカン公会議は言葉の意味を変え、同じ単語に別の意味が与えたので、進歩派と保守派が何かについて話をしようとしても、言葉自体の意味が違うので会話にならない。今の教皇や枢機卿たちは新しい主張をするときにいわば問答無用で宣言するので、その新しい主張がどうしてそうなのかを説明しようとさえしないし、議論をしようとしても話にさえならない。伝統的な教えは固定しているが、新しい教えは液体のようでとらえどころがなく、議論のしようがない。

* 公会議という触れてはならない偶像に触れるようなことを言ったからこそ、あなたはこのように無礼な批判をする訳だが、一応、そうではないことを望むと言っておこう。

* ドイツの司教たちは『離教の瀬戸際』どころか、とっくに離教している。しかも、狂ったイデオロギーや行為を奨励して、恥ずかしげもなく全世界の教会に押し付けようとしている。

* ちなみにわたしは決して離教などするつもりはないのでご心配なく。親愛なるサンドロ、あなたの最善を祈る、頑張ってくれ給え。
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親愛なるマジステル様
6月29日にブログ「Settimo Cielo(第七天)」に掲載されたあなたの記事「ヴィガノ大司教、離教の瀬戸際に」に回答することをお許しください。

私が公会議を強く批判する意見をあえて表明したことが、異端審問的な精神を呼び起こすに十分であったことは承知しています。もし他の場合であれば、そのような精神はまともな考えを持った人々による憎悪の対象である筈ですが。それでも、聖職者と能力ある平信徒との間の敬意をもった論議において、今日まで未解決のままの諸問題を提起することが不適切だとは思いません。そのような問題の最たるものは、第二バチカン公会議以来教会を苦しめ、今や荒廃の段階にまで到達した危機です。

公会議の「虚偽の説明」ということを語る人々がいます。また、公会議を聖伝との継続のうちに読むことに戻る必要性ということを語る人々もいます。また、公会議に含まれているあらゆる誤謬を訂正したり、あるいはそのあいまいな諸点をカトリック的な意味で解釈したりする機会ということを語る人々もいます。一方その反対の立場からは、第二バチカン公会議のことを、教会を、時代に合わせてまったく新しく現代的な組織へと変化・変換するという「革命」を押し進めるための「青写真」ととらえる人々にも事欠きません。これは「対話」の普通のメカニズムの一部ですが、そのような「対話」は、いつも想定されているだけでほとんど実現することがありません。私が述べてきたことについてこれまで反対意見を表明した人々は、決してその議論の根拠に立ち入ることがなく、私の悪口を言うだけにとどまっていますが、そのような悪口を受けるに値するような、私よりずっと著名で敬うべき司教職に着く兄弟たちは他にいます。興味深いことは、教理的な場においても政治的な場においても、進歩主義者たちは自分たちが選挙の結果という首位権をもっていると主張することです。そしてその論理的帰結として、敵は存在論的に劣ったものであり、注意を払ったり応答したりするには値せず、教会の場においてはルフェーブル派、また社会政治の場においてはファシスト、と単純化して粛正できるとするのです。しかし、彼らは議論をしないため、彼らには議論のルールを指示したり、誰に発言する権利があるのかを決めたりする正当性がありません。とりわけ、欺瞞がどこにあるのか、その欺瞞の立案者は誰なのか、そしてその目的は何なのかについて、信仰以前に、理性がそれを証明した場合にはそれがあてはまります。

当初、あなたの記事の内容は、その肖像がバチカン宮殿第三開廊のフレスコ画で飾られたサロンや、編集者であるあなたのおしゃれなオフィスにあるような君主への、ある意味ごもっともな賛辞ととるべきであるかのように思えたのです。ところが、あなたが私の主張だとされる部分を読むうちに、あえて言うならば、ある不正確さ、を見つけました。これは誤解の結果だと願っています。ですから、私があなたのブログ「Settimo Cielo」でお答えする場を与えてくださるようお願いします。

あなたは、ベネディクト十六世について、「第二バチカン公会議が異端の影響を受けておらず、さらに、まことの永続的な教理との完全なる継続性のうちに解釈されるべきだということを教会全体に信じ込ませることによって、教会全体を『欺いた』」、として私が彼を非難しているかのように述べられています。私は、この教皇についてそのようなことを書いた覚えは一切ありません。そうではなく、私が述べたこと、そしていま一度再確認したいことは、この公会議を、公会議自体の暗黙の権威および公会議に参加した教父たちの権威性を備えた「器」として、その目的を歪めつつ利用した人々によって、私たちは全員、あるいはほとんど全員が、だまされたということです。そして、このように人々がこの欺瞞に陥ってしまったのは、教会と教皇制を愛するがゆえに、第二バチカン公会議の中心で、非常に組織化された少数の「陰謀家たち」が教会を内部から破壊するためにこの公会議を利用したり、またその陰謀家たちが、教会の権威者の共謀があったわけではないにせよ、沈黙したり無為であったりすることを当てにしてそのような行動をとることができる、などということを想像すらできなかったからです。これらは歴史的事実であり、それについて私は自分で個人的な解釈をしていますが、他の人も同じ解釈をしておられるものと思います。

また次の事実も、その必要さえないかもしれませんが、あなたに思い起こしていただきたいのです。それは、公会議の控えめに批判的な、伝統的に意味においての再解釈を行うというベネディクト十六世の立場は最近の賞賛に値する出来事ですが、一方で、恐るべき1970年代には、当時の神学者ヨゼフ・ラッツィンガーの立場はまったく異なっていたということです。権威ある研究によれば、このチュービンゲンの教授であったヨゼフ・ラッツィンガーはその同じことを認めていましたし、それが名誉教皇による部分的な悔い改めの証拠です。

「ベネディクト十六世による『継続の解釈法を用いて公会議の行き過ぎを正そうとする試みの失敗』を理由としてヴィガノがベネディクト十六世に対して行った無謀な告発」を私がした覚えはありません。なぜなら、これは保守派の間だけでなく、とりわけ進歩派の間でも広く共有されている意見だからです。また言っておかなくてはいけないのは、革新主義者たちが欺瞞、狡猾さ、脅迫によって獲得に成功したその中身は、後に使徒的勧告「アモーリス・レティチア」というベルゴリオ流「教導権」において最大限に適用されたビジョンの結果だということです。ラッツィンガー自身が悪意の存在を認めています。「教会の中には今や不動なものは何もなく、すべてが修正される余地があるという印象が着実に強まっていきました。ますます公会議は、自分たちの望みに従ってすべてを変え、すべてを再構築することができる、教会の大きな議会のように見えてきたのです」(ヨゼフ・ラッツィンガー『わが信仰の歩み』英訳 Milestones, Ignatius Press, San Francisco, 1997, p. 132参照, イタリア語 "La mia vita", Edizioni San Paolo, 1997, pp. 99)。しかし、ドミニコ会士エドワード・スキレベークスの次の言葉では、その悪意がさらにはっきりと認められています。「われわれはそれを外交的に表現しているが、公会議の後には、その暗示している結論を引き出すことになる」(De Bazuin, n.16, 1965)。

諸文書中の意図的なあいまいさの目的が、有用性の評価の名の下に、対立して相容れないビジョンを保持し、啓示された真理を損なうことであったことを私たちは確認しました。真理は、それが完全に宣言されるとき、分裂をもたらさざるを得ません。それは、私たちの主が分裂をもたらされるのと同じです。「あなたは、私が地上に平和をもたらすために来たと思っているのか? むしろ分裂である」(ルカ12章51節)。

私たちは第二バチカン公会議を忘れるべきだと提案することに、非難されるべきところは全くないと私は思います。公会議の支持者たちはこの「ダムナチオ・メモリエ(damnatio memoriae)」【記憶の断罪:あたかも存在していなかったかのようにあらゆる痕跡を抹消すること】を、公会議によってだけでなく、すべてのことによって、自信を持って行使するすべを知っていました。それはさらに、彼らの公会議が新しい教会の最初の公会議であり、そしてこの公会議から始まって古い宗教と古いミサとが終わったことを断言するほどにまで達していたのです。

あなたは私にこうおっしゃるでしょう。それは過激論者の立場であり、徳は中庸にある、すなわち、第二バチカン公会議は途切れることのない一連の出来事の最新のものに過ぎず、聖霊は唯一無二にして不可謬の教導権の口を通して語ると考える人たちの内にこそ徳がある、と。もしそうだとすれば、なぜ公会議の教会には新しい典礼と新しい暦が与えられ、その結果として新しい教理、つまり「新しい祈りの法は、新しい信仰の法(nova lex orandi, nova lex credendi)」が与えられ、自らの過去を軽蔑してそこから距離を置いたのか、が説明されねばなりません。

この公会議を捨てる、というアイディアそれ自体が、あなたのように、近年の危機を認識しながらも第二バチカン公会議とその論理的かつ必然的な影響との間の因果関係を認識することを望まないと言い続ける人々にさえ、つまずきを引き起こすのです。あなたはこう書いておられます。「注意:悪い解釈をされた公会議ではなく、公会議として全体を一括して【忘れ去る】」と。

では、あなたにお尋ねします。この公会議の正しい解釈とはいったい何なのでしょうか? あなたが与える解釈でしょうか、それとも公会議の企画をした勤勉な人たちが教令や宣言を書いているときに与えた解釈でしょうか? それともひょっとしてドイツの司教団の解釈でしょうか? それとも教皇庁立大学で教え、世界で最も人気のあるカトリックの定期刊行物に掲載されている神学者たちの解釈でしょうか? それともヨゼフ・ラッツィンガーの解釈でしょうか? それともシュナイダー司教の解釈でしょうか? それともベルゴリオの解釈でしょうか? 対立する解釈や逆の解釈を正当化することができるように不明瞭にした言葉をわざと採用したことで、どれだけひどい害が引き起こされたか、そしてそれに基づいて有名な"公会議の春"が起こったことを理解するには、これで十分でしょう。その集会を「公会議として全体を一括して」忘れ去らねばならない、と私は躊躇することなく言うのは、また、教会の一致を攻撃することによる離教行為の罪に陥ることなしにそれを表明する権利が私にある、と私が主張するのも、この理由からです。教会の一致は愛徳と真理において分かちがたく存しており、誤謬が支配しているところ、あるいはただ一つの誤謬でも入り込んでいるところには、愛徳はありえないのです。

解釈法という"おとぎ話"は、たとえその作者のゆえに権威あるものだとしても、それでも、教会に対する真の固有の意味の待ち伏せ攻撃そのものに、公会議という尊厳を与えんとする試みであることに変わりはありません。そのような試みは、その公会議自体に加えて、その公会議を望み、強制し、再提案した教皇たちの信用を落とさないようにするためです。それが進んだ結果、その同じ教皇たちが次々と「公会議の教皇」であったことを理由に祭壇のほまれに上がる【列聖される】までになっています。

マリア・グァリーニ博士が、「Settimo Cielo」に掲載されたあなたの記事に答えて6月29日にブログ「Chiesa e postconcilio(教会と公会議後)」に発表された、「ヴィガノ大司教が離教の瀬戸際にいるのではなく、多くの罪が表に現れつつある」と題された記事から引用させてください。彼女はこう書いておられます。

「そしてまさにここから生まれ、この理由のために(これまでのところ、ヴィガノ大司教によって引き起こされた議論を除いて)成果のないまま、継続しているのは、耳の聞こえない人同士の対話であり、それは対話の相手方同士が異なる現実の枠組みを用いているからです。第二バチカン公会議は言葉を変えることによって、現実へのアプローチの枠組みをも変えたのです。ですから、私たちが同じものごとについて話すときも、そのもの自体にまったく異なる意味が与えられている、ということが起こるのです。とりわけ、今の高位聖職者たちの主な特徴は、議論を許さない断言をしますが、それらを証明しようともせず、あるいはしたとしても誤った詭弁によって証明だけです。いえ、新しいアプローチと新しい言葉が最初からすべてを破壊転覆してしまっているので、彼らには証明する必要すらないのです。そして、定義された神学的原則に全く欠ける、異常な「司牧性」が何なのかは証明されることがないために、まさに議論の対象となる内容が取り去られてしまうのです。それは、明確で、曖昧さがなく、定義された真の構築物に代えて、形のない、変化し続け、溶解していく液体が進んでいくようなものです。これが、光り輝く永遠の堅固さを持った教義と、汚水やうつろう砂のように移り行く新教導権の違いです。」

教会の組織内における多くの、あまりにも多くの人々が、教会の歴史の中での唯一無二のもの(unicum)、ほとんど手を触れることさえできない偶像のようにみなしているこの公会議についての議論を私があえて再開する、というただその事実によって、あなたの記事の論調が決められてしまったのではないことを願い続けています。

ドイツのシノドスの道の司教たちのように、すでに離教の瀬戸際をはるかに超えて、常軌を逸したイデオロギーや行為を奨励し、恥ずかしげもなくそれらを全世界の教会に押し付けようとしている多くの司教たちとは違って、私は母なる教会から離れるつもりはまったくありませんのでご安心ください。私は母なる教会を賞賛するため、自分の人生の奉献を毎日更新しています。

Deus refugium nostrum et virtus,
populum ad Te clamantem propitius respice;Et in
tercedente Gloriosa et Immaculata Virgine Dei Genitrice Maria,
cum Beato Ioseph, ejus Sponso,
ac Beatis Apostolis Tuis, Petro et Paulo, et omnibus Sanctis,
quas pro conversione peccatorum,
pro libertate et exaltatione Sanctae Matris Ecclesiae,
preces effundimus, misericors et benignus exaudi.

われらの依り頼みと力とにまします天主、
御あわれみを垂れ、主に叫ぶこの民を顧み給え。
永福にして原罪なき童貞天主の聖母マリア、
その浄配聖ヨゼフ、
使徒聖ペトロ、聖パウロおよび諸聖人のとりなしにより、
罪人の改心、および、母なる公教会の自由と栄えとのために捧げまつる
われらの祈りを御慈悲をもって聴き容れ給え。

親愛なるサンドロ、キリスト・イエズスにおいて、最高のご多幸を祈って、私の祝福とあいさつをお送りします。

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