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独占インタビュー:ヴィガノ大司教は、LGBT支持の枢機卿を非難する: 「スーピッチ枢機卿、グレゴリー枢機卿、トービン枢機卿などはミサを捧げるに値しない」(2021年7月8日)

2021年7月8日(LifeSiteNews)LifeSiteNewsとの書面による新たな独占インタビューで、前駐米教皇大使カルロ・マリア・ヴィガノ大司教は、教皇フランシスコが最近、同性愛を推進するジェームズ・マーティン神父を支持したことを非難しています。

「それは、教会の指導者たちが世界統一主義(globalism)という反キリスト的イデオロギーに無条件に降伏し、キリストの群れ全体を敵の人質として渡し、司牧者としての役割を放棄して、傭い人と裏切り者という本当の姿を見せる自殺行為なのです」と述べています。

インタビューの詳細は以下の通りです。

Viriliter agite, et confortetur cor vestrum.
Ps 30:25

勇ましくあれ、心を強くもて。
詩篇30篇25節

【問い】教皇フランシスコがジェームズ・マーティン神父を支持したことについて、どうお考えですか。

【ヴィガノ大司教】LGBTQ+のイデオロギーとそれが前提としているジェンダー論は、社会全体、家族、人間にとって、そして明らかに教会にとっても致命的な脅威となります。なぜなら、社会の体、その成員の間の関係、そして男女の生物学的な現実という概念そのものを分解してしまうからです。この概念は、ジェンダー論に基づいた個人個人の疑わしく可変的な主観的自己認識へと恣意的に変えられてしまうのです。多くの人は、これが引き起こすことになる混乱を認識していません。

世俗の習慣や家族の習慣だけでなく、宗教生活の習慣においても、LGBTQ+運動が認められればすぐ、性同一性障害と定義されるものを持つ人々を教区や共同体で歓迎するように要求するようになるのは必然的です。象徴的な例えとしては、司祭に叙階された男性が、ある時点で自分は女性であると確信した場合があり得ます。私たちは、性転換者や女装趣味倒錯者がミサを捧げるという事態に備えるべきなのでしょうか。また、聖なる品級の秘跡の問題を完璧に定義している男性染色体が存在し続けることと、女性の外見とを、どのようにして和解させることができるのでしょうか。男性の自己認識を持つようになった修道女が、男子修道会に移ることを要求し、おそらく聖なる品級を受けることも要求する場合については、どう考えるべきでしょうか。この妄想は、世俗の領域では不条理で不穏な結果をもたらすものですが、もし宗教生活の領域に適用されたとしたら、すでに痛めつけられている教会の体に致命的な打撃を与えることになるでしょう。

ジェームス・マーティン(イエズス会)のような人物が、教会の領域で、さらにはローマの機関で、これほどの名声と知名度を得て、広報のための部署(Dicastery for Communications)のコンサルタントの任命を受け、最近ではベルゴリオから手書きの手紙を受け取るまでに至った理由を考えてみなければなりません。ベルゴリオは、汎性愛者運動を支持していることをこれ見よがしにしていますが、これは事実上、一連の無制限の性的変異種や倒錯を、熟慮の上に、批判的ではなく、支持を表明しています。

このような先験的な(a priori)支持は、一人のイエズス会士の嘆かわしい【たまたまの】行き過ぎ行為なのではなく、イデオロギー的な前衛による計画的な行動を表しているのであって、それは、制御不能なものであり、ベルゴリオとその宮廷の「教導権」そのものを方向付けることのできるものであることを、すでに証明しています。

LGBTQ+のイデオロギーは、明らかなグノーシス的かつルチフェル的な母体に属する、不明瞭さを持つ世界統一主義者(globalist)の宗教という新しい道徳的パラダイムを構成しています。これには超自然的に啓示された教義が存在していないので、ポストヒューマンのスーパー教義の前提として役立ち、その中では、"信仰"はあらゆる種類の異端や堕落を無条件に受け入れるものへと変質し、"希望"は「ここで今」(hic et nunc)既に保証された救いという不条理な主張へと分解し、"愛徳"は天主への最終的な言及を奪われた水平的な連帯へと堕落するのです。イエズス会士マーティンの活動は、水瓶座の時代の虹の役務者、反キリストの宗教、そして不浄なパチャママに始まる偶像と悪魔の崇拝の前兆となっています。

このため、ジェームズ・マーティンの異常な挑発行為をベルゴリオが支持するという卑猥でつまずきを与える行為は、彼の有名な「裁くなんて私は一体何様なのか?」“Who am I to judge?” から始まった道を、この「教皇職」の「断絶」のラインと完全に一致した形でさらに一歩踏み出すことになります。それは、教会の指導者たちが世界統一主義(globalism)という反キリスト的イデオロギーに無条件に降伏し、キリストの群れ全体を敵の人質として渡し、司牧者としての役割を放棄して、傭い人と裏切り者という本当の姿を見せる自殺行為です。つまずかせられた私たちは、「argue, obsecra, increpa, insta opportune importune―よい折りがあろうとなかろうと繰り返し論じ、反駁し、とがめ(よ)」(ティモテオ後書4章2節)から、「loquimini nobis placentia-気に入ることを言ってくれ」(イザヤ30章10節)への移行を目撃しています。

ですから、第二バチカン公会議以来優勢な方法によれば、バチカンは、進歩的な傾向のある最も扇動的な主唱者を放任し、自然のカトリック的な道徳という「テーゼ」、教理の逸脱という「アンチテーゼ」、そして時代に即した新しい教導権という「ジンテーゼ」の間でヘーゲル弁証法を採用していますから、ジェームズ・マーティンがバチカンの最高レベルの集団でこのような評価を享受しているのは驚くことではありません。

このようなやり方は、世俗化した現代のメンタリティーに合わせてうまく更新したものであると思う人がいるかもしれませんが、それにもかかわらず、キリストの教えと創造主によって人間に与えられた法に対する、ひどい裏切りを明らかにしています。今日の支配的な反キリスト教的イデオロギーがおもに望み、推進している悪徳の拡大は、位階階級が私たちの主から受けた命令の一部を否定することを何ら正当化するものではなく、この世的な精神を甘やかし、道徳を堕落させることだけを目的とする道徳の不純化という操作を認可するものでもありません。それどころか、主流派がカトリックの道徳の不変の原則を取り消そうとすればするほど、司牧者たちにはますます、声を上げて天主が説くように命じられたことを躊躇なく再確認する義務があるのです

それゆえ私は、道徳に関して個々の同性愛者の回心を求める適切な司牧活動ではなく、人々の罪深い行為を正当化し、いわゆるLGBTQ+の運動に対話相手としての尊厳を与えるようなカトリックの教理の変更という幻想的な約束に基づいて、個人的な成功を収める一人のイエズス会士に声が与えられることは、天主に対する暴挙であり、教会の名誉に対してもつまずきを与えるものであり、信徒にとっては重大なつまずきの問題であり、司祭や聴罪司祭にとっては荒涼とした放棄であると考えています。

自然に反する特定の性的倒錯にある人々だと自動的に認識することで彼らを支援するこの略語をただ使用するだけで、ジェームズ・マーティンと彼の協力者が汎性的なロビーの要求にひれ伏していることを示しており、教会はこれを受け入れたり正当化したりすることは少しもできません。

いずれにしても、聖職者の大部分が、LGBTQ+イデオロギーの要求が位階階級によって承認されるのを見たいと切望しているのであれば、このことは、実行不可能な利害の対立と、非常に深刻な道徳的・規律的な危機によるのであるのは明らかです。

【問い】特に、教皇フランシスコが、特に過去にバチカンの公式文書で非難されていたシビル・ユニオン(civil union)を公に認めたことを考えると、同性婚(homosexual union)に関する教会の教えを変えることは可能なのでしょうか。

【ヴィガノ大司教】明確にしなければならないのは、十戒の第六戒に反する行為、特に、男女の自然な区別それ自体や夫婦の行為の生殖目的において、創造主を侮辱する性的歪みに関する行為は、権力集団の圧力あるいは世俗の権威によって公布された不正な法律の下であっても、新たに変更される対象にはなり得ないということです。

性的行為が本質的に子孫繁栄を目的とするのではなく、制限なく快楽を満たすことを唯一の目的とする、今日の支配的なイデオロギーの基礎にある快楽主義的で汎性欲主義的な考え方は、躊躇なく糾弾されるべきであると思います。このような考え方は、秘跡によって祝福された、受胎可能な夫婦の結合においてのみ性的行為を合法とする、創造主が意図された自然の御摂理に反しています。自然は第一に、二人の男性または二人の女性の間に子孫を残すことを可能にしていないため、同性間のあらゆる形態の性的行為は本質的に秩序に反しており、いかなる形でも正当化することができないのは明らかです。

シビル・ユニオンとは、婚姻という自然な制度に関する責任と義務をカップルが負わない、同棲を公的に正当化する形態に他なりません。もし世俗の権威がこのような結合を承認するならば、自分の権威を濫用することになります。世俗の権威とは、御摂理が「共通善」(bonum commune)の非常に正確に限定された範囲内で、かつ、教会が母としての権威をもって見守っている「霊魂の救い」(salus animarum)に直接反することが決してないように、制定したものだからです。

しかし、そのような結合(シビル・ユニオン)が教会の権威によって承認された場合、最高の立法者である天主が法に与えるのを欲した目的を倒錯させることに加えて、天主から受けた任務に対する裏切りとなります。その時、いかなる暗黙の形であっても、罪深くつまずきを与える行為を公式に承認することは、事実上(de facto)無効となります。

【問い】米国では、LGBTであると自認することを支持する手紙に署名して、その方向付けを認めている司教がたくさんいますし、スーピッチ枢機卿(Cardinal Cupich)のように、同性愛のカップルが聖体拝領できることを示唆している司教もいます。このような発表に戸惑っているカトリック教徒にメッセージをいただけますか。

【ヴィガノ大司教】近年の偽りの教導権、特に公の姦淫者と離婚者が秘跡にあずかることに関する使徒的勧告「アモーリス・レティチア」(Amoris Laetitia)の偽りの教導権は、第二バチカン公会議後も革新主義者による組織的な破壊から守られていた教導権の一部に裂け目を開いてしまいました。したがって、大罪の状態にある人々が秘跡にあずかることができるようになった後、この不幸な決定が、男女で構成するカップルではないために合法的な結婚をする能力のない人々にまで拡大されていることは、その絶対的な重大性においてさえも驚くべきことではありません。

しかし、よく考えてみると、この異端の考え方は、政治家にも関係しています。彼らは、統治や社会的関与の行動において、公然とカトリックの教えに反し、洗礼と堅振で受けた一貫性への関与を裏切っています。一方、天主の御目には聖なる法に反抗しているだけの、いわゆる「大人のカトリック教徒」は、スーピッチ、トービン、グレゴリーやその追随者といった、さらに反抗的な司教たちの間で広く承認されており、彼ら自身は聖なる秘義(ミサ聖祭)を捧げるに値しません。一方、主から授けられた命令に忠実な司牧者たちは、その公の罪の状況を認識しているだけでなく、ご聖体を冒涜することでそれを悪化させることを望まないのです。

【問い】同性愛についての教会の本質的で不変の教えはどんなものですか。

【ヴィガノ大司教】自らのかしら【キリスト】の教えに忠実である教会は、継母ではなく実母です。子どもたちの弱さや罪への傾きを甘やかすのではなく、すべての霊魂を創造された目的、すなわち永遠の安息に導くために、子どもたちを戒め、諭し、薬としての制裁で罰するのです。

天主によって意図せられ、愛されているすべての霊魂は、十字架上の贖い主によって贖われ、その霊魂のために贖い主はご自身の御血を流されました。「Cujus una stilla salvum facere totum mundum quit ab omni scelere.」(御血の一滴だけで世のすべての罪を贖うことのできるお方)。共通博士(Doctor Communis)【聖トマス・アクィナス】が作った聖歌「アドロ・テ・デヴォテ」(Adoro te devote)にあるように、キリストのいと尊き御血の一滴だけでも、全人類をそのすべての罪から救う力を持っています。

教会の不変の教えは、単純かつ水晶のように透明で、天主の愛と天主のための隣人愛から霊感を受けています。人は人間の人格が持つ傾向や方向性(オリエンテーション)を、不合理にも正当なものとして擁護するのですが、教会の不変の教えは、これらの傾向を残酷に去勢するものとして、押し付けられるものではありません。そうではなくむしろ、人間を完全に満たすことができ、人間本性の持つ深い本質に対応する唯一の目的に向かって、個人の愛すべき調和のある発展として、示されるのです。

人間は、天主を愛し、天主を礼拝し、天主に仕えるために生まれ、そうすることで楽園の栄光のうちに永遠の至福を得るのです。

原罪や個人的な罪によって堕落した本能を満足させることで、人間が天主から遠く離れ、天主に逆らう自分を何らかの形で満足させることができると信じさせることは、羊を欺き、奈落の底に突き落とすために、司牧者としての役割を濫用する者の罪深い欺瞞と、非常に重大な責任を構成します。

そうではなく、すべての人間には超自然的な運命があり、自分を鍛え、自分を永遠の報いにふさわしい者にするための苦しみと犠牲という道があることを、忍耐強く、しかししっかりとした霊的指導によって教える必要があります。

カルワリオなくして復活はなく、戦いなくして勝利はありません。これは、既婚者も独身者も、司祭も一般人も、男性も女性も、子どもも年配者も、主によって贖われたすべての霊魂に当てはまります。原罪によって堕落した自分自身の本性との戦いは、私たち全員を同一のものとします。つまり、お金を管理する人は盗みの誘惑と、結婚している人は配偶者を裏切る誘惑と、貞潔に生きる人は純潔への誘惑と、おいしいものを食べる人は大食の誘惑と、人前で拍手を浴びる人は高慢の誘惑と、それぞれ戦わなければならないのです。

このように、謙虚に天主の聖寵に信頼し、無原罪の童貞の執り成しに依り頼むことで、主が試練を与えられるすべての人は、たとえ同性愛という苦しい状況にあっても、人は罪との戦いの中で永遠の場所を勝ち取るのだと理解しなければなりません。キリストのご受難を無駄にせず、天主の御あわれみの輝きを被造物に向けて輝かせ、その被造物を天主は誘惑の瞬間に、悪への傾きを人を惑わすように承認することによってではなく、私たち一人一人を待ち受けている輝かしい運命を指し示すことによって助けてくださるのです。その運命とは、主が私たちのために用意してくださった王服を着て、小羊の婚宴に入場を認められることです。

秘跡による赦しで取り戻した聖寵と、天使のパンであり将来の栄光の誓いであるご聖体という天の食べ物によって、この地上の巡礼において私たちに助けが与えられますように。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

2021年7月3日
司教殉教者聖イレネオの祝日


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