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物事を本当の名前で呼ぼう。過ちや悪徳を許容する時だけ『寛容』『受容』を語る幻想をやめよう。敵の欺瞞や搾取、専制や迫害を覆い隠す『対話』『連帯』『自由』の呪文の言葉をやめよう(2020年6月17日)

マイケ・ヒクソン博士
2020年6月17日

編集者注:カトリック・ファミリー・ニュース(CFN)では、これまでCFNに記事を寄稿したことがあり、夫のロバート・ヒクソン博士と共に、私たちの使徒職の長年の友人でもあるマイケ・ヒクソン博士をお迎えしています。最新の手紙の英訳を含めた、ヴィガノ大司教閣下の最新情報について、博士の報告を掲載できることを光栄に思います(下記参照)。―CFN編集長マット・ガスパーズ

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カルロ・マリア・ヴィガノ大司教は、イタリアの法学教授【パオロ・パスクァルッチ教授】への回答の中で、第二バチカン公会議(1962ー1965年)の「異端的命題や異端を支持する命題」に対するカトリック教会の対応はどうあるべきかという問題について論じています。大司教は、「それらは排斥されるべきであり、私たちはこの排斥ができるだけ早く起こることを願うことしかできません」と説明しています。アタナシウス・シュナイダー司教とのわずかな意見の相違はありますが、このイタリア人の高位聖職者は、公会議は「取り下げられ」、そして「忘れられるべきだ」と考えていると述べています。大司教はパオロ・パスクァルッチ教授の次の言葉を、自らの言葉としています。「公会議が信仰から逸脱しているなら、教皇は公会議を無効にする権限を持っています。実際、それは教皇の義務です」。

イタリアの伝統的カトリックのウェブサイト「Chiesa e post concilio」に掲載されたヴィガノ大司教によるこの新たな介入

の背景には、第二バチカン公会議の重大な誤謬のいくつかに関する、シュナイダー司教によって触発された議論があります。6月1日、シュナイダー司教は、信教の自由への自然権があるという公会議の声明を批判し、この正しくない教えは将来的に教導権によって修正されなければならないと付け加えました。シュナイダー司教は、この誤った教え ―天主が積極的に人々に偽りの宗教を選択させようとするという考え方― が、「宗教の多様性」は「天主のご意志によるもの」であるとする教皇フランシスコが署名した2019年2月4日のアブダビ声明の根底にあると見ています。

シュナイダー司教が言うように、「善と悪、真理と誤謬の間で選択する能力があるからといって、誤謬すなわち偽りの宗教を選択し、実行し、広める自然権があるということを結論づけることはできません」。

こうして、司教は、「他の公会議によってなされた声明の中には、廃れて忘れ去られてしまったものや、後の教導権によって修正されたものさえある」と結論づけています。

シュナイダー司教自身の介入を支持する6月10日の対応の中で、ヴィガノ大司教はシュナイダー司教の批判を支持しましたが、"公会議自体は有効であり続けることができる一方で公会議の誤った教えの一部を公式に修正することができる"というシュナイダー司教の発言には、丁重に反対しました。

6月15日の新しい声明の中で、ヴィガノ大司教は、6月10日のコメントに関するパオロ・パスクァルッチ教授のコメント(下記参照)に答えています。この引退したイタリアの法学教授は、ヴィガノ大司教とシュナイダー司教を「勇気ある」高位聖職者と呼び、彼らの介入に感謝しています。同時に、教授は、将来の教導権が第二バチカン公会議を全面的に拒否する必要があると考えています。なぜなら、「文書の至るところに散りばめられた信仰に反する誤謬」のためです。

教授は、「教会のこの信じられないような危機によって提起された神学的かつ教会法的な問題は非常に大きく、解決するには困難を伴うでしょう」と信じています。そのため、教授は、「私たちは、天主の恩寵を通して私たちに与えられた導き、この二人の勇敢で最も正当な司教たち、正面攻撃において敵と向き合っている今のところ唯一のこの司教たちによって与えられた導きを用いて、自分の進むべき方向を定めようとしています」と付け加えています。

パスクァルッチ教授は次のように述べています。「私は平信徒としてこのようなことを考えていますが、私の考えでは、文書の至るところに散りばめられた手続き上の裏技や信仰に反する誤謬を明確に強調した後で、教皇は最終的に公会議全体を取り消し、『それによって信仰における兄弟たちを強める』ことができるでしょう。これは、jure divino[天主によって与えられた権による]教皇の教会全体に対する summa potestas iurisdictionis [裁治権の最高の権能]の範囲内に完全に収まることになります。公会議は教皇より上位にある訳ではありません。公会議が信仰から逸脱しているなら、教皇は公会議を無効にする権限を持っています。実際、それは教皇の義務です」。

パスクラルッチ教授は、教皇フランシスコの異端的な教えを調査し、その後、将来的に排斥することを世界の司教たちに求める公開書簡を書いて署名した学者や司祭の一人です。

ここに掲載された声明にあるように、ヴィガノ大司教は公会議に関するパスクァルッチ教授のコメントに全面的に同意しています。大司教もまた、「教皇が公会議全体を最終的に取り消すことは十分にあり得る」との見解を持っています。また、このイタリア人高位聖職者は、公会議について「すべてを取り下げて忘れることが望ましい」と考えています。

「第二バチカン公会議が修正される可能性があるという事実だけでも、公会議の最も明白な誤謬が明らかになればすぐに、その忘却を宣言するのに十分です」と、ヴィガノ大司教は説明しています。ヴィガノ大司教によると、公会議は「不連続性を持つ曖昧な定式化以上に、その破壊主義的な価値のために意図され、計画され、それがゆえに多くの悪を引き起こしてきた」のです。

この議論の中で、ヴィガノ大司教は、自分とシュナイダー司教の間には対立はないと主張し、「私の兄弟であるアタナシウス司教とのこの実りある交流から、浮かび上がってくることは、愛徳における一致のために必要不可欠な土台として、私たち二人がカトリックの信仰を再確立することだけを、どれほど願っているかということです。私たちの熱意は、私たちの主の御聖体の聖心から湧き出て成長し、主への愛に費やされるようにそこに戻ってくるのです」と説明しています。

ヴィガノ大司教が、教会の問題とその根源について、カトリック教会の中で、開かれた正直な議論が行われることを望んでいることは明らかです。また、マルコ・トサッティが発表した別の介入の中で大司教が述べているように、「私たちは、素朴さと冷静さをもって、物事を本当の名前で呼ぶことを学びましょう。また、過ちや悪徳を許容する時だけ、私たちに寛容と受容のことを語る人々の幻想に、静かに生きるために、従うことをやめましょう。敵の欺瞞を隠蔽(いんぺい)し、反対者の搾取、専制、迫害を覆い隠している『対話』『連帯』『自由』など呪文のような言葉を使うのはやめましょう」。

ここにお読みいただくのは、ヴィガノ大司教の許可を得て掲載した手紙の全文です。

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大司教閣下が手紙を書かれる元となったパオロ・パスクァルッチ教授のコメントを全文から抜粋してご紹介します。

このたび明確な議論をしてくださったヴィガノ大司教に感謝いたします。そこにはいつものように、非常な明晰さと知的な率直さがあります。また、貴重な議論でいつも私たちを照らし、慰めてくださるシュナイダー司教にも感謝いたします。他の聖職者の方々もすぐにお二人の議論に加わってくださるよう願っています。

ヴィガノ大司教がシュナイダー司教に提示されたと思われる批判については,次のようなことが言えると思います。シュナイダー司教は一般的な原則を述べておられるようです。それによると教会は、それまでの教理(それが「教導権の決定」に含まれているという理由で教理とされる)を、変更することができるという原則です。しかし、シュナイダー司教の挙げられる例は、教理的な面での意義がなく、教理的な面の変更には関わらないため、実際には本質的な、本来の「教導権の決定」ではありません。ですから、シュナイダー司教が表明された原則を教理に適用したいと思うのであれば、その原則は否定されなければなりません。教会は何世紀にもわたって、少数の問題に関する意見を変更してきました。例えば、借金に利息を課すこと(最初は高利貸しとして禁止されていましたが、その後、一定の条件のもとで認められました)や、教皇の物理的な統治権は最初、たとえそれが直接行使されていなくても全世界に対する直接的な権限であると理解されていましたが、その後(ベラルミーノによって)間接的な権限として理解されるようになりました。しかし、これらの問題は教義には関係しないので、いわゆる本来の教理に関わるものではありません。では、公会議の教えについては、すべてが問題ないのでしょうか? いいえ、違います。

さて、すでに指摘されているように、シュナイダー司教は、第二バチカン公会議やその他の特定の点を是正するための新しい誤説表(シラブス)[イタリア語の参考記事はこちらを参照]の必要性を常に主張してこられました。しかし、誤説表(シラブス)には教理上の意義があり、実際には、公会議に含まれている誤謬は、たとえそれが「司牧的な公会議」に過ぎなかったとしても、教理的な意義を持っているのです。これを否定することはできません。

ですから、ここで提案されている新しい誤説表(シラブス)というのは、過去に教皇たちによって有効に教えられてきた教理を変えるということではなく、ただ、教理に浸透してしまった誤謬を根絶するということだけです。[公会議の]誤謬は教理ではありません。[公会議の]誤謬は、教理を全面的かつ完全に否定することです。そしてそのような誤謬は、自らを司牧的に過ぎないと主張したにもかかわらず、同時に深刻で反復的な違法性に染まっていた集会によって広められた誤謬でした。

正直なところ、第二バチカン公会議というコンチリアボロ(不正公会議)の誤謬に対する将来の教導権による具体的な介入に関して、ここでヴィガノ大司教が提起された問題があるとは思いません。もし私たちが理解したとおりであれば、彼の論旨は、教会のまことの教理に関連しては明らかに正しいものです。しかし、当時の教皇たちの共謀の下、混乱と違法性が続く条件の下で開催された激動の公会議によって作り出された偽りの教理に関しては、それはあてはまらないように私には思えます。

これらすべては私の平信徒としての考えですが、私の考えでは、様々な文書に散りばめられた手続き上のごまかしや信仰に反する誤謬を明確化したうえ、教皇は最終的にこの公会議全体を取り消し、「これによって、信仰における兄弟たちを強める」ことができるはずです。このような行為は、天主の権による(jure divino)教皇の教会全体に対する裁治権の最高権能(summa potestas iurisdictionis)の範囲内に完全に収まることでしょう。公会議は教皇より上位にあるのではありません。もし公会議が信仰から逸脱したのであれば、教皇はその公会議を無効にする権限を持っています。実際、それが教皇の義務です。

さらにパスクァルッチ教授は 読者のコメントにこう答えています、「撤回するかどうかはヴィガノ大司教にかかっています」。

よくよく見てみると、ここには「撤回」するようなことは何もありません。私たちがヴィガノ大司教の考えをよりよく理解できるよう、適切な方法でさらに説明して下さるかどうかは、ヴィガノ大司教にかかっています。また、平信徒である私たちは、大司教と同じような神学的・教会法的なすべを持っていないからです。私たちは聖職者に反対している平信徒ではありません。私が、「これらすべては私の平信徒としての考え」だと言ったのは、反論するためではなく、単に私が神学者でもなく、この問題の専門家でもないことを示すためだけであって、そのため、私は法律や哲学の知識を持つ「平信徒として議論している」のです。

ヴィガノ大司教とシュナイダー司教は、反証さるべき二人の敵ではありません! この信じがたい教会の危機によって提起された神学的問題や教会法的問題は非常に大きく、解決するには困難を伴うでしょう。私たちは、 天主の恩寵によって、唯一、敵の攻撃に正面から立ち向かうこの二人の勇敢で最も正当な司教の与えてくださる導きを用いて、自分たちの方向性を定めようと務めているのです。

ジュゼッペ・ペレグリノ訳

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