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封建のフェミニズム

『独考』只野真葛ただのまくず著。について。

『江戸期の開明思想』杉浦明平 別所興一編著。1990年初版。社会評論社。より

本書『江戸期の開明思想』はっきり言ってオススメできないです。現代語訳ではないから慣れていないと読み進めるのに時間がかかります。また解説や紹介がバイアスがかかっていることに注意しなければいけない。

江戸時代中期から末期を生きた女性。江戸の上流家庭の生まれ。高い教養を受けた。仙台にひとり嫁ぐ。

只野真葛の生涯の詳細はウィキが詳細。「ウィキは典拠にするものではありません」と言う先生の言葉が未だ脳裏にチラつく私ですが、のせておく。noteだし。


本書では只野真葛の備考に「女性解放思想家」と書いてある。文学者とかならいいと思いますが、解放思想家?とは思う。

『独考』は、只野真葛が55歳のときに書いたもの。そこで滝沢馬琴(『南総里見八犬伝』の著者)を頼る。馬琴にこの文を送り、何度か書簡を交換した真葛でしたが、ついに書評はもらえず。それどころか滝沢馬琴、最後には真葛に対してマジギレし、この『独考』を死蔵することを極めこんだようです。

2023年4月末現在、wikiには「滝沢は『独考』を送りつけて絶交した」とある。送りつけたのは『独考論』という反論文書で、真葛の著自体は手元に死蔵したはずでは。おい筋肉、どっちなんだいッ。


『独考』について。
真葛は独特な2つの軸を持っている。
一つは、天地の拍子
真葛は儒教という中国の理論を日本に適用したのは間違いだと考える。

儒教の考えをよく守って働く人がいつも損ばかりするのは(これは真葛自身の経験から)天地の拍子に外れるからだ、と彼女は考える。

外国の教えによって、日本社会の聖人君子ほどこの社会で苦しむ。むしろ儒教の教えなんて関係ないがごとく振る舞う人は人生が上手くいくのは、この国の本来のリズムに合ってるからなのだ。だから、外国の教えは捨てなさい。ということ。

しかしながら、真葛はロシア出羽守。

蘭学の影響もあり、ロシアの習俗について聞いていた。ロシアの皇帝は王でありながら、商業もやる。これを高く評価している。

また真葛は、若い子女らがこの人だと決めずに遊び、いいと思った人同士が惹かれ合うロシアの習俗を評価する。つまり現代の西洋的自由恋愛をよしとしている。

もう一つの軸は「勝負」。真葛は勝ち負けにこだわっている。

恋愛は、男と女のラブゲームという見方をしている。想ったほうが負けで、気にしないほうが勝ちだとか。セックスは勝ち負けを争うものなりとか。

この勝負の考えは現代の一部女性もしている気がする。

(私はこういう考えは変だと考える。戦闘当事者でない者ほど、「争い」が好きであるのはいつの世も同じでしょうか。)

また、「博打」は悟りの境地であるとすら言う。勝負をかけた時の、浮ついた気持ち。それはこの社会を離れつつこの社会にいるという空観的境地だと。

博打と論語の関係は、呉智英先生の『現代人の論語』に詳しいことが書いてあります。

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真葛は、男を下に見る女はよろしくないとしている。真葛は「10歳にして女の手本になりたい」と思ったのであって、現代フェミニストのように「女性を解放してやろう」とかそういう考え方ではないでしょう。

女は男に勝るべきいはれなし。
(女性には男に勝つ道理などない)

と真葛は言う。逆に言うと、封建時代にも男性を見下す女性はいたのでしょう。しかし、真葛からすればそれは間違いである。

なぜ真葛は、男女の別を厳しく縛る儒学を批判した上で、それでも女は男を見下すなと述べるのか。

私が思うに、真葛は、勝ちにこだわるからこそ、女は男を見下すべきでないと述べるのだと考える。

ここで老子を紹介します。老子はフェミニスムを含んでいる。老子の思想は、孔子の思想と原理的に異なっている。真葛の思想は老子に繋がっていると思います。

牝常に静かなるを以って牡に勝つ。
(女性は静かであるからこそ男性に勝つ)

つまり、静かに、下手にいることによって、あえて負けて、実で勝つ。こんなことを言っている。

恋愛のだんには、手柔女たわやめも男を投げる。
(恋愛においては、力のない女が男を振り回すことができる)

というか手柔女だからこそ、男性を投げることができる。男性が守ってあげたくなる女子のほうが、男性を操作する権限が増える。『独考』は、フェミ本というよりかは、モテ本に近いのではないか。と、思った昨今。

IMAGE BY mariastone FROM Pixabay












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