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参照される父性

最近、父性に関する本をいくつか読み、動画を観たりして、思ったことを書きます。長いので、「日本にもあった父」だけ読んでいただいても、大変うれしいです。

『父性の発見』鈴木光司著。という本があった。結論からいうと全然よくない本でした。前半では、日本には古来から父性はなかったと書いていた。後半では鈴木先生(リングの原作者)が小説家になるまでの自慢が書かれている。自慢本はだいたいどんな本もどうしようもない。

『弱い父ヨセフ』竹下節子著。この本は面白かったです。若干、フランス出羽守感が否めないが。だとしても比較文化論としては面白かった。カトリックとプロテスタント諸国では男女平等化圧に違いがあるetc。この本ではヨセフがキリスト教諸国の歴史でどのように扱われたかの変遷が示される。ヨセフが「弱い父」というのは竹下先生の感想でしかないようにも思える。

Youtubeではポール・ド・ラクヴィヴィエ先生のお話しを観た。ラクヴィヴィエ先生はカトリックの立場から、現代社会の父の不在を嘆く。父性とはまず「原初に出発して、ある方向へ向かわせるものである」という定義が出てくる。父性とはなにかという議論において、まず「父性とはこうだ」というたたき台を設定しない論ばかりがある中、本動画でははっきり示される。良かった。


『聖書』ルカ2章において、このような場面がある。エルサレムから家路へ向かおうとする聖家族であったが、ふと見るとイエスの姿が無い。父母は心配してエルサレムに引き返す。すると、群衆の中で学者らに交じって議論するイエスがいた。そして、母マリアはかけよってイエスにこう言う。

どうしてこんなことをしてくれたのです。お父さんも私も心配したのですよ。

次にイエスはこう返した。

なぜ心配なさるのですか、私が父の家にいるのを知らなかったのですか。

日本にもあった父

父性とは何かというと、参照される存在。間接的な光といえます。

上記の会話はルカの中でも印象に残る会話だ。マリアとイエスが直接会話している。そして二人は互いに(言葉が乱暴ですみませんが)「父」を用いて相手を”脅している”。

このとき、マリアのいう父とはヨセフのことを、イエスの父とは天主を指している。しかし、どちらも間接的に父を用いて相手をさとそうとする。

つまり父とは間接的に人々の会話の中に威を借りられて出てくる存在だ。そうして、ある方向を観なさいと特定の対象へ相手をかかり結ぶ。

たとえば何か間違ったことをしたときに「”お父さんにまで”あなたは迷惑をかけたのですよ」と母の話の中に出てくることによって、相手に反省を促す。

私たちが何か間違った方向へ行ってしまったとき、父は威を借りられて参照される。あなたは間違っていますよ、正しい方向に向き直りなさいと。父は参照される対象だ。父の厳しさは参照というプリズムを通して私たちにそそぐ光のようなものではないでしょうか。

そう考えると、我々日本にも父があったのではないか。『父性の誕生』鈴木光司先生の、日本には元から父が不在だったという説は間違っている。我々日本人には、(とくに封建時代)孔子や孟子という参照対象があった。古代中国人が私たちの父だった

孔子や孟子はさらに、君子はこうあるものと、歴代の明君などを参照している。私たちには手本にするべき父とその言葉があった。しかしそれは明治に入って以降、急速に無視されつづけていますが。よって、日本にも父があったと言っていいでしょう。

素晴らしい男性の「偉人」がどのような文明圏においても父として存在していた。あの男を見よ、と人に言われる男が必ずいた。父性なんぞ歴史上で定義されたこともないと考えるような人は歴史を知らないといえる。

幽霊的父性像を創ってはいけない

私は、父性は歴史時代に存在しなかったわけではないことは前章に述べました。この章では、父性を創ってはいけないことを主張する。近現代の父性こそ、最近登場してきた幽霊なのだ。しかも顔の無い悪霊といえる。

ヨセフは、自分の子ではない子を妊娠しているマリアを何の文句もなしに妻にした。彼はマリアとイエスのために床に這いつくばって料理を作った。(カトリック的には)ヨセフとマリアは性交渉を持たなかったとされる。

このようなヨセフから竹下先生は、あるべきこれからの父として「弱い父」を提示する。

「弱い父」の「弱い」とは、妻や子に盲目的に奉仕することを指している。「弱い父」はヨセフ自体ではない。竹下先生のヨセフ解釈から生まれたものだ。ヨセフに概念を一枚くるませたものだ。

この父性像では、こう思う男性もいるでしょう。”それはロボットと何が違うのだろう”と。また、妻や子を持たない男性には適用できない像でもある。

(ちなみに、男性はすでにヨセフ的である。直感に反して、女性のほうが養母に向いていない。パートナーに連れ子がいる場合に最も上手くいくのが、「男性&女性とその連れ子」の場合である。むしろ現代女性こそヨセフを見習う必要がある。)

このような概念はやがて暴走する。結果的に人間は概念によって押しつぶされ出す。

「弱い父」も、反対に

「強い父」も、

「強い男性」も、「イケメン」も、

それらは暴走して人間に不当に圧力をかける。

大抵、不自然な概念を自らに課する人は自滅に追い込まれます。「超人」を目指したニーチェとか、「上流階級・サムライ」を自らに課した三島由紀夫が典型でしょう。前者は自ら課したそれに耐えきれなかったし、後者は自ら課したそれによって滅んだ。

(特に三島由紀夫に言いたい。サムライは、サムライだからといって、全員が腹を切らないでしょ。変だ。)

人間像はただの概念だから、際限がなく、創られていくことになる。それらは不整合を起こそうと関係なく進行してしまう。

たとえば「イケメン」とは、会計を奢ること、清潔感のあること、大胆なこと、頭の良いこと、女性と遊ばないが好きな女性には真摯なこと、etc、etc、etc・・・。その求められる人間像は概念である限り青天井であり、際限のないものとなり、不自然なものとなる。

今日もsns上では一部の女性たちが「イケメン」の青天井を吊り上げる。それは個人の勝手かもしれない。しかし、現実の男性はその「イケメン」から脱落する。全ての女性を不快にさせず、しかも悦ばせ続ける男性がいたら不気味である。男性の創作物にでてくる女性と同じくらい不自然な人間でしょう。

男性諸君もこのような暴走した概念に追いついていこうと考えると、大変な目をみることになる。それはよすべきだ。

顔の無い悪霊に合わせて自分を滅さざるを得ない現代こそ、不当なものといえる。

男は泣かない。

男は積極的がいい。

そういった言説に包囲されている現代男性は健気すぎる。このとき、この「男」こそ顔の無い幽霊なのだ。

涙もろいかそうでないか、積極かあるいは慎重か、なんて、そういったことは単に個人の性格だ。性格までをも規定しようとするのはファシズムに似ている。

よって、概念には程度の限りがある必要がある。『論語』や『孟子』では「君子」とは何かが語られ切っている。歴代の明君からそれが参照されている。さらに「君子」についてを語る孔子は非常に人間味にあふれている。弟子が死んでは涙を流す。ごく自然な人間だ。

『聖書』では、イエスは神の側面と人の側面を見せてくれる。ムハンマドの生涯は孤児から始まった。寛大な人であった。健康な性欲をもった人でもあった。ソクラテスは、人々を皮肉る皮肉屋ながら、社会の人々のために義務を果たそうとする義人である。人間味にあふれている。

近現代以降に登場してきた顔の無い幽霊的父性と、

古くから存在する参照対象である「君子」や「ソクラテス」や「イエス」や「ムハンマド」とでは、どちらがよいでしょうか。

最近登場してきた顔無し悪霊も、古代からの聖人も、どちらも遠く及ばないほど理想的な存在に見えるかもしれない。

しかし前者のような、顔の無い幽霊は、

際限がないがゆえに、具体的なエピソードがないがために、歴史上で参照されてきたという実績がないがゆえに、暴走する。

顔の無い幽霊的父性の青天井な暴走。しかし男性がそれを請け負わないといけないとすれば、次のようなことが起こるはずです。

つまりニーチェ的な脱落か、三島的な自滅か、いずれにしろ不穏な結末です。だからこそ男性は結末を察知し、おおかた早くもそれらの概念を放棄することになる。自分の人間味を許さない概念からは逃げるしかない。

すると、社会には父とよべるような人がますますいないように見える。ますます父性とは何かについてわからない社会が存在することになる。その一方で、それゆえにか幽霊的父性概念の暴走は止められない。とくに女性たちが都合よき父性を勝手に創りつづけていくだろう。

書物に書かれている「偉人」たちは、近代以前から参照対象だった。つまり「父」だった。すでに人々に愛されてきたという実績があるし、彼らは過去のものとなった。いわば凄みと人間味と際限のセットパックなのです。

だから我々は、父性がわからない現代において、父を取り戻したいのであれば、『論語』を読みましょうとか、『聖書』を読みましょうと言った方が良いと言えます。つまり、「偉人」に還らなければならない。


IMAGE BY -MayaQ- FROM Pixabay






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