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山本太郎が言う「生きているだけで価値がある」とは、どのような意味なのか

「あなたを幸せにしたいんだ 山本太郎とれいわ新選組」発刊記念 ト-クイベント 2019.12.17 大阪市中央区

質問者(28:19~):
上手な質問になるとは思いません。私自身の率直な感想というか、思いを伝えさせてください。私自身は山本さんに共感していますし、応援していますが、正直、違和感を感じるところが多いと。例えば YouTube で見るような、各地での演説における、繰り返される言葉、例えば、「全ての人は生きてるだけで価値がある」とか、あるいは「生きてるだけで価値がある」という、そういったフレーズの中に私はどこか綺麗事じみたことを感じてしまう。今回の本のタイトルは「あなたを幸せにしたいんだ」ですけれども、これも何か、本を買うのをためらってしまうような、そんな違和感を感じます。(会場から笑い)いや、笑われてしまうけれども、本当に、これは結構微妙なところでですね、私自身、応援したいんだけれども、非常にアンビバレントな気持ちを感じます。なんて言ったらいいんでしょうか。あの、どうしてそういうふうに思えないんでしょうか、私自身。「すべての人間に価値がある」と。たとえニートであれ、あるいは障害者であれ、生産性がない人間であれ、生まれながらに全ての人間に価値があると断言できない私なんですけれども。まだ質問の形にはなっていませんけれども、綺麗事ではないと言える根拠みたいばものがあればお聞かせください。

山本太郎(30:01~):
ありがとうございます。おっしゃってることの意味、分かります。分かります。ていうのは何かって言ったら、「生きてるだけで価値がある」って言うけど、実際そうじゃないやんってことですね。価値が思えないと思うような人間も知ってるしと、たぶん思ってしまうと思うんですよ、例えばね。なんだろ、自分の知ってる嫌な人とかね、当てはめていったら、「みんなには価値があるよ」ってふうに自分は心から100%、そういうふうに言ったって、思えないわっていうふうに思っちゃいそうな気持ちは分かるんですけど、これは全員にとっての、なんだろうな、保障なんでよ、保険なんですよね。

質問者(30:48~):
保険ですか。

山本太郎(30:49~):
保険。だって、生きてるだけで価値があるっていうの世の中にしなきゃ、自分がいつ価値がないってことで切られるような世の中になるかわからないじゃないですか。思うんですよ。生きてるだけで価値があるっていうの、これ何かって言ったら、もう、なんだろな、これ、天賦人権説ってことですよね。生まれてきてくれただけで価値があるっていう、超スタンダードな考え方ってことですね。この民主主義国家っていうものを作っていく上での、人間の権利だったりとかっていうものの超大元にある考え方を、なんだろう、言っちゃってるってことなんですね。だからこう、山本太郎がこっ恥ずかしいっていうか、そういう基礎的な部分なんだっていう話なんですね。

一方で、 これまでの人生の中で、いろんなマウンティング受けたりとか、いろんな嫌な思いしたりとか、いろんなことがあった中で、「みんな愛してるよ」なんて気持ちになんかなれるかよって人があるのはわかるし、そういう気持ちもあるだろうとは思うんですけど、でも自分自身への保険として、誰もが生きてるだけで価値があるっていう社会にしたいっていうことなんですね、本当に。私は思うんですよ。だって、自分が何の役にも立たなかったとしても、存在を認めてくれるような社会だったら、怖くないじゃないですかってことですよね。生きてて怖くないだろうってことですね。私はそう思うんですね。

「あなたを幸せにしたいんだ」というキャッチフレーズみたいなものを出したときに、「余計なお世話だ」って言われたことあるんですね(笑)。「おまえに幸せにしてもらわんでも、私は幸せだよ」みたいな人もいるんですよ。「いやいや、いいですよ、勝手に幸せな人は、どうぞお幸せに」っていう話なんですね。まあ、まあ。でも、「あなたを幸せにしたい」っていうのは何なのかっていうと、なんだろな、全ての人々をすみずみのとこまでコミットしていきながら、「幸せですか、大丈夫ですか」とかっていうようなことをつきまとうってことではなくて、要は、人間の幸せっていうのは、最低限の尊厳が守られる生活というものの基盤にならなきゃ、私、なかなか、これ、なんだろな、そこからのスタートじゃないですか。私はそう思うんですよ。そのささいな幸せ、ささやかな幸せとか、色々あるかもしれないけど、でも、本当に幸せを感じるためには、この尊厳が守れるくらいの、健康で文化的な暮らしが最低限送れてるってことが土台としてなかったら、なかなかそこから幸せというか、自分のやりたいことやったりとか、なんかそういうことって広がっていかないのかなと思うんですよね。

だから私が言ってるのはなにかっていったら、どんな生まれであれ、どんな育ちであれ、スタートライン全員引き上げるからね、っていう意味合いでもあるんですよね。だって、それぐらいやってくれなきゃ、国がある理由なんてないしねってことなんですよね、私からしたら。だからこの「生きてるだけで価値がある」っていう社会にしたいとか、「あなたを幸せにしたいんだ」っていうことに関して、こっ恥ずかしくなるっていうか、あのちょっと止めてもらえるかなっていう気持ちになる方もいらっしゃるでしょう、ということなんですけど、でも、私はこれをビジョンとしていくような社会にしていかなきゃ、全く真逆の状況がどんどん力を強めていってるように思うんですよね。

生産性で人間の価値を測る社会になってるし、完全自己責任にされてるし。そこは自己責任というよりか、国の経済政策の失策によって確実に首がしまってることも多々あるわけですよね。なので私としては、もう超……なんだろな、この世界のと言いますか、人の権利っていうものから考えたとしても、その大元である天賦人権説っぽいなと思ったんですよ、私。 そんなこと考えてなかったんですよ、今まで。それ質問されて、なんやろなこれって、自分でもう一回見つめ直したら、天賦人権説やん、これ、みたいな。ありがとうございます、気づきました(笑)。そうなんですよね。

だからもう、あまりにも生きづらい社会を変えるためには、今の社会と真逆の言葉、何を実現したいかっていうことを明確にしなきゃいけないないっていう部分も大きかったと思うんですね。生きてるだけで価値がある社会ならば、私が切り捨てられることはない、あなたも切り捨てられることはない、そう思うんですね。

例えば障害の、障害を持った議員、二人、国会内に入ってくれましたけれども、「障害者だけには優しい社会にするようだな」みたいなことをなんかこう、言う人もいるんですけど、どんだけひねくれたらそんな話になるんだと思うんですけれども(笑)、障害者も切り捨てない、切り捨てられないってことは、全員切り捨てられない、誰も切り捨てられない社会にするっていうメッセージだって分かりませんか、ということになってくるんですけどね、そういう方々には。

誰もが生きてていいし、役に立ってる者しか生きていけない世の中だったら、これもう大変なことになりますね。というよりも、役に立ってなきゃいけないっていう世の中だからこそ、役に立たないと自分で決めつけた障害者を19人殺傷するような事件が起こったんですよね。普段から自分が役に立ってるとは到底思えないから、何かしら役に立とうと思って、そういうようなことを。役に立ってる人間だということを証明するために、そういうような事件が起こっちゃった。そう考えたとするならば、役に立つとか立たないとか関係ないんだよって。生きてるだけでいいよって。それだけで価値があるんだ人間は、っていう社会をみんなで作っていこうと。こうなったとしても支えようと。

そんなことやったらもうナマケモノしかいなくなるだろうって話ですけど、そうは言ったって、なまけ続けるって大変ですよ(笑)。何かしたくなるし、一人では無理だし、誰かとしゃべりたくなるし、関わりたいしっていう。なんか、あまりにもこの苦しい空気っていうものを、この国に失われたものを取り戻したいって言ったら、なんだって言ったら、「寛容さ」とか言うしかないんだろうと。この国に寛容さってものがあったのかどうかも私は知らないんですけども、じゃあそれを作ろうじゃないか、みんなで、っていうような話で、こんな恥ずかしい名前にしてごめんなさい(笑)。次になにか出すときはもっとストリートな名前にしますからね(笑)。エッジのきいた感じの。すいません。

(文字起こし&太字:Shino)

▼補足

2016年に「津久井やまゆり園」で入所者19人を殺害した犯人は、「役に立つ人間になりたいと思っていた」と語っている。

#山本太郎 #れいわ新選組 #生きているだけで価値がある

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