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社会性について

社会性について考えていて、いまのところそれなりに納得できている結論を、整理もかねて語ってみる。

ここでいう社会性とは「個人の社会をやる力」のことを指す。
結論それは企画力のことなんじゃないか?と最近は考えている。企画力とは何かというと、「大多数に好まれる物語性を提供する力」のことだと思う。重要なのは、物語ではなく物語性であるということだ。そこに物語性さえ見いだせれば、物語は受け手が勝手に作っていくものである。

好まれる物語性とはなんだろうか。今のところは「私=記録媒体としたときに、私を語るにふさわしいアーカイブとなることを予感させるもの」という理解がしっくりきている。

無駄にカッコつけた表現をしてしまい、冒頭から厨二病感がすごいが、要は大多数の人が積極的に経験したいと思えるもの、そういったものを提供できる人が社会性のある人と言って差し支えないんじゃないかと、そういう話である。

「物語性の提供」については、形式は特に問わない。それはタバコ部屋での面白い話かもしれないし、アイドルのライブかもしれないし、旅行のお土産かもしれない。単なる挨拶だけということもありえる。

例えば、毎朝近所のおばちゃんに向かって元気に挨拶をして学校にでかける少女がいたとする。おばちゃんは彼女に挨拶を返すことで、おばちゃんの中に、「元気な少女と私が共有する朝のさわやかな時間(物語)」を保存する。この時、少女がおばちゃんに提供したのは、さわやかな時間を想像・保存させる機会=物語性であって、物語そのものではない。おばちゃんはこの毎朝のやりとりについて、おばちゃんの中で勝手にいい感じのお話に変換しているのであるから、物語はおばちゃんが作っている。そして社会性とは、こういった機会を意図的に提供する力であるように思う。(つまり、企画である。)

※こういう言い方をすると、なにか狩人のような、獲物を動かす技術みたいなニュアンスになってしまうので、ここでは単に「挨拶したらお互い気持ちよくね?」と思ったから挨拶する、といった程度のフランクなものが出発点であることを念のためお伝えしておく。

となると社会性(企画力)とは、心地よい時間(経験)・ビジョンをデザインする力と言い換えることもできるだろう。

そう考えることで、不条理な世の中でみんなとウェイウェイやれている陽キャムーブにも説明がつく気がする。彼らは別に集団に媚びているわけではなくて、その場における善(=良しとされているもの)に寄り添ったものを提示しているに過ぎない。結果としてみんなに好かれたり信用されたりするのは、提供する時間(経験)やビジョンのデザイン力が高いからだ。
(そしてデザイン力が高いからこそ、自分の意図に沿って集団を方向づけることも可能だし、集団もそれを受容できる)

逆に、僕のようなアスペ陰キャがなかなかこういったことができないのは、まず自分自身の善をなにごとにも投影してしまうからなのではないだろうか。僕は、成果を重視してしまうことが多く、それこそが合理的で正しいと考えているから、社会性ムーブを「くだらない馴れ合い」と理解してしまうのではないか。僕にとって、自身の善とアクションは不可分なものだったのではないか。

社会性のある人は自分の善とその場の善を一旦切り分けて考えることができて、場の善を理解した上で、提供するものをデザインしている。つまり、「その場における論理」をきちんと見つめて尊重している。それは極端な例を出せば、「今はお砂場にいるから、お砂場遊びをしよう」と同じ次元の話なのかもしれない。

そのように理解すると、それはそれでかなり合理的ではなかろうか。

長々と語ってしまったのでそろそろ終わりにしておこう。
ひとまず僕は、企画というフレームワークを採用することで現状かなり社会がやりやすくなっている。他人の論理を見つめることがすごく楽になったのだ。「許し」のような、なにか余裕のある感情が常に僕の心を支えている。そしてこれは多分、他人を許しているというよりかは、僕が僕自身を許しているのだと思う。僕の善が、社会的な振る舞いによって脅かされるものではないということに安心したのだと思う。
こんな風に納得のためになにかしら一貫させた理屈が必要な自分のことを、やっぱりアスペだよなあ~なんて思いつつ、そんな僕のことを前よりもちょっぴり好きでいられている気がする。いい感じだ。

これからまた色々な発見があったりして考えが変わっていくのかもしれないけれど、今の僕にとっての社会性とはこんな感じ。

よかったね。ちゃんちゃん。

生きられそうです