見出し画像

純脈

生活を営むなかで、あーあとなる瞬間が訪れる。紙の本を読む楽しさを零す私に友人が笑った時、私の顔を覚えた図書室の先生にいつもすごいねと喜ばれる時、とても寂しかった。
みんなが言葉に美しさを見いだすのは、どうも歌や詩からのみらしい。ふーん。
親しい子たちの誰もおそらく意識したことはないのだろうけれど、文章に纏うオーラの質感を私は知っているし、着いた色も私は知ってる。五感で表現するのは正しくないのかも。触れているとも思わないし、目で見えているわけでもないし。共感覚というらしい。

純文学ってすごいよ。私も別に語れるほど詳しくないけどね。でも、本当に奇麗だってことは知ってる! とりあえず王道を制覇しよう。
太宰治の文章に私の理想が詰まっているのだけど、やっぱり彼は六種みたいで、なるほどねと腑に落ちた。「ふ」は内臓なんだって。私は喉や鎖骨の辺りじゃないかなと思う。

中学二年の頃から物語を作るようになった。当時は稚拙なラブコメに過ぎなかったのに、今や伏線回収の雑なポエムもどきばかり綴ってる。やめなよ。
「書きたい」が「吐きたい」になっているのに気がついた。純度100%の娯楽じゃなくなってしまった。苦しんでいる。創作したいというより、思考を可視化させたいだけになっていくようで、なんだか、執筆という行為を愚弄しているみたいだ。

心とか脳をぷかぷか漂う液体?、ふわふわ、どろどろ、きらきら、ちゅるちゅる、な、くらげみたいにやわい、水飴っぽい粘性のそれらを混ぜこぜに固めて、なんとか、文章という形を保たせてるような感覚……。イザナギとイザナミが矛で国を造る描写が昔から好きで、何か言葉を紡ごうとするとき、あのシーンが無意識に流れてくる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?