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ジゼルについてほんの少しのこと

ふと思い出したので、彼女のことを話してみようと思う。

情けないことに、ジゼルというのが本当の名前なのかどうかすら知らない。どこに住んでいたのかも、家族はいたのかどうかも、何も知らない。でも、私が知っている彼女のことを少しでもここに残しておこうと思うのである。


今から十年前の冬、私は箱を持っていた。中身は空っぽだった。
そのことにどうしても向き合わなければならなくなったとき、私は仕事を辞め、一間の安いアパートに引っ越した。冷蔵庫もテーブルもない部屋で膝を抱え、来る日も来る日も考えた。
ある初夏の朝に、私はふと思い立ち、一枚の真っ白なキャンバスを購入した。ちょうど、両手を広げたくらいの大きさで、そこに素晴らしい絵をかいて画家になろうと思った。そう決めた。

画家になろうと決めた時の清々しかったこと。野原に大きく広げられたピクニックシートみたいに、それは可能性に満ちていて、幸福の証で、自然体で、愛だった。
それに乗っているうちは、私はひらりと浮き上がってどこにでも飛んで行けたし、欲しいものは簡単に手に入った。誰もが私の自由を羨んだ。そんな魔法のピクニックシート。
しかしそれは、日を追うごとに太陽の光に照らされ、色あせた。使い込んで穴が空き、裂けた。そして気がつけば、半分に閉じられ、そのまた半分に閉じられ、最後は名刺みたいに手の中にすっぽり収まるサイズまで折りたたまれた。

そして、消えた。

私が初めて描いたのは、兎の絵だった。桃色の兎。目は漆黒で、濡れながら光を跳ね返している。背景はありきたりな草原ではない。コンクリートを打ったような冷たい壁。そこに影を落とす一匹の孤独な兎を描き始めた。
はじめは良かった。思った通りの色を作り、キャンバスに一筆一筆置いて行くと、命が芽吹いていくように見えた。やがてその兎は私の前で少しずつ動き回るようになり、口をもぐもぐ動かしたり、耳をひくつかせたりした。
しかしある日を境に、その兎はぱたりと動かなくなってしまった。まるで何千年も前から壁に埋め込まれた化石のように、固まり、冷えていた。私はそれ以上、その兎を描き進めてゆくことができなくなった。

白状すると、画家になると決めてからこの十年間、たったの一枚も絵を完成することができなかった。完成した、と言って人に見せたことはあるし、嘘をついたわけじゃない。でも、それは完成したのではなくて、それ以上動かなくなっただけだった。
はじめて描いた兎が動かなくなった時、私は戸惑った。数日経ち、どうしようもなくなった私は、それを上から白く塗り潰し、一から描き直すことに決めた。

キャンバスを塗りつぶすことは、口で言うほど簡単じゃない。先程まで、最高のものになるように、と願いを込めて愛でていたものを、手のひらを返すように見限るんだから。

「動かなくなった絵」を初めて塗りつぶしたその日のことを、私は一生忘れないだろう。絵が、筆の幅ずつ、消えていく。ワイパーで雨の雫をふり落すみたいに、醜い汚れを拭き取るかのように。
私は酒を飲んで紛らわした。ほかの画家たちと出かけて、また飲んだ。しかしアパートに戻れば、あの白く塗りつぶしたキャンバスが立てかけられていた。その白い絵の具の下で、二度と生きることができない兎のことを思うと、私の喉は押しつぶされたみたいに妙な音を出すのだった。

私はそこから目を背けるために、近所の絵画教室に通うことにした。申請書を書いて費用を納めれば誰でも参加できるものだった。私はそこでしばらく、用意された課題をこなした。手を描けと言われれば黙って手を描き、箱を描けと言われれば箱を用意した。次は風景だ、と言われれば外へ出かけていった。
私は、そこで幸せだったと思う。自分の空箱を誰かが代わりに埋めてくれる。知らないうちに中身は入れられていて、それが入っている限り私はそのほんの少しの重みとともに生きることができた。
やっていけるだろう。そう思った。絵を褒められた。羨ましがられた。私はいつも人々の中で笑い、一人になるとこっそり箱を開けて確認した。その中に温度を感じるたびに、また蓋を閉め安堵しているのだった。

「その箱は、まだ空のままよ。」

だからジゼルにそう声をかけられた時、こんなに驚いたことはなかった。椅子から転げ落ちそうになった。それをみて、ジゼルは面白くてたまらないというようにくすくすと笑った。

ジゼルはその絵画教室で雇われたモデルだった。ある日、裸婦を描くことになり、講師に紹介されて出てきたのが、この桃色の髪をした女の子だった。台に上がり、着ていた白いワンピースの紐を解いて、足で蹴るみたいにしてその布を台の傍に落とした。すらりと伸びた手足が、カーテンを引いたその部屋の中で唯一、白く発光していた。

私はジゼルを描くことに集中した。ジゼルは誰に話しかけられても「仕事中は絵描きとは仲良くならないの」と冷たくあしらっていたので、私は話しかけないままでいた。ジゼルの小さな乳房の間には、同じく小さな人参のタトゥーがあって、私は不意に、白く塗りつぶした兎のことを思い出した。

「その箱は、まだ空のままよ。」

ジゼルがこちらを見て微笑むたびに、またそう言われているような気がした。彼女は決められた時間ポーズをとり、休憩になると私の絵をのぞきこんだ。そしてなにもなかったようにまた台の上に登り、休憩時間の終了を見計らって、手足を伸ばし、ポーズをとった。

私はモデルとあまり親しくなりたくなかった。若くて可愛い子と知り合いたくてここに来たわけじゃない。私は真っ当な気持ちで絵を描きにきていた。モデルの私生活なんて全く興味がなかった。でも、なぜか私はジゼルのことが気になり始めていた。

絵画教室も後半になれば気楽なものだ。にぎやかなおしゃべりが始まる。講師も生徒に交わってクッキーなんか食べているから、真面目に描いているほうが馬鹿らしくなる。ひとりの女が近づいてきて、画材の話をした。私が、時折とても虚しい気持ちに襲われる、という話をすると、その女性は手作りのラベンダーウォーターを取り出し、その瓶を私の鼻先にちょん、とつけた。それでものすごく気分が軽くなった私は、ジゼルのことを見なくなった。でも、ジゼルが私のことを見ていることには気づいていた。

講師が淹れたコーヒーを飲んだり、トイレに行ったりしていたら、ジゼルが服を着て、隣に座っていた。彼女は
「あとでスタバに行こう。」
という。スタバに行って何をするのか聞いたら
「ドーナツを食べるんだよ。甘くて大きいから、半分ずつ分けよう。」
という。

その日は本当にスタバに行って、ピンク色のドーナツを半分ずつ食べた。酔いもしないのにジゼルのアパートに行った。細長く、洞窟みたいな不思議な部屋だった。入るといきなりバスルームがあって、その隣にものすごく小さなキッチンがあった。キッチンは異国のスパイスが並んでいて、シンクにはビール瓶がいくつも並んでいた。
「ホテルルームと同じ配置よ。このアパートは昔、ホテルだったの。」
部屋中にユーラシア大陸の古い布が貼られていて、どこかの国の民族が広げたテントに入り込んだようだった。ジゼルはちょうど、私ぐらいの背の高さをしていた。脚が長いので、座ると私よりずっと子供のようだ。服を脱ぐとやはり蝋人形のようで、それでも触るとあたたかく生きているのが、ちょっと奇妙に思えた。

そのキャンバスはまだ生きていた。最初のキャンバス。白く塗りつぶしたキャンバス。それは、私の部屋の隅に立てかけられ、妙な白さを放ちながらいつも私を見張っていた。昨日と一ミリも違わないその場所にあるのに、それはまるで生きているみたいに部屋中を動き回った。
人間というのは不思議で、どんなことでも慣れていくものだ。私は、塗りつぶした兎のことをすっかり忘れ、またそのキャンバスに新しい兎の絵を描き始めた。気に入らず塗りつぶしてはまた描いた。それを塗りつぶしては描き、またなかったことにした。
絵の具の層はだんだん厚くなった。私はそれすらもうっとおしく思えた。自分の積み重ねてきたものが、無様に着き、固まり、残る。そうすることで、自分が一つずつ「必ず落ちない汚れ」を溜めているように思えた。無能さを日々、証明しているように思えた。
私は、慎重に切り崩していた貯金をだいぶ減らして、電動やすりを買った。その積み重なった絵の具を一気に削るためだ。自分のしてきたことを無かったことにするためなら、なんでもするつもりだった。

装着した荒目のサンドペーパーを指で撫でた時、絵より先に私がこれで削られるような感覚を覚えた。ヤギの舌みたいに嫌にざらついたそれは、何度も何度も私の内側を舐めた。粉塵を防ぐためのマスクをし、スイッチを入れると、私は自分の絵にそれを当てた。そして、何層にも重なった兎たちに血が滲んでいくのを黙って見ていた。

私は、大草原の中にいた。隣にはジゼルもいた。彼女は、大学で芸術学を学んでいるらしい。その勉強のために私につきまとって、芸術を直に学ぼうとしている、と笑った。ジゼルは笑うことが本当に得意なようで、くすくすと隠れるように笑ったり、ヘラヘラと空をあおいだり、実にいろいろな笑い方を知っているようだった。
そこには、クローバーが隙間なく生えていて、太陽の光を惜しみなく受け取り、風を跳ね返していた。
「絵を描くことは、四つ葉のクローバーを探すことによく似ていると思う。」
私は誰にともなく言った。
「四つ葉のクローバーは見つけたら幸運といわれる。子供の時は競ってそれを探したものだったな。野っ原ではしかし、そう簡単には見つからない。その理由を大人になってから知ったよ。」
ジゼルは不思議そうな顔をして、
「理由ってなに。」
と言った。
「四葉のクローバーは実は奇跡でも何でもなくて、ただの突然変異なんだ。人が足で踏んだらそのクローバーは傷つき三つ葉から四つ葉になる。だから自然の中ではなく、公園のように人が多く出入りするような場所の方が四葉のクローバーは見つかりやすい。」
「ふうん。」
ジゼルは寝転んで無限のクローバーたちに頭をうずめた。

あなたなら、どちらを選ぶだろうか。それを幸運の証と信じて、だだ広い野原で血眼になって探し回るのか。見つからないと知っていても、それでも奇跡を信じてその一本を求めるのか。
あるいは、そんなものは奇跡でも何でもない、と割り切り人が踏みつけた足元を覗くのか。
「さあね。」
ジゼルは興味がなさそうに、地面の生えたクローバーの束をむしり取り、それを宙に向かって撒いた。

絵は、人が感動する仕組みを理解している人ほど、上手に描ける。それは一つの技術で、武器だ。一方で、私はやっぱり、そんなのは度外視にして奇跡を見つけたいと思っていた。大自然の中で四葉のクローバーを見つけるみたいに、ある日突然、なんの意図もなしにいい絵が描けることを願った。

綺麗事に聞こえるそれは、思えば本当に綺麗事で、大自然でたった数本の根拠のない奇跡を求め、私は苦しんだ。

次の裸婦デッサンの日、ジゼルが真っ白いワンピースを脱いだ瞬間、私は驚いた。私だけではない。他の生徒からも声が上がった。ジゼルの腰から背中にかけて、大きなすり傷があったからだ。それは痛々しく上から下へ伸び、凹凸のあるかさぶたになっていた。
「自転車で転んだのよ。背中が開いた服を着ていたの。」
くすくすと笑って、あとは何もなかったかのように手足を伸ばしてポーズをとった。

そういえば、私たちも一度、自転車で街を周遊したことがあった。ジゼルはオランダ製の美しい自転車を持っていた。私は友人から古いものを借り、一緒に4時間ほど、街の中と川辺を漕いだ。ジゼルは右へ曲がるとき、右腕を地面と平行に右に突き出した。そして左に曲がるときにはそれを左にした。私はその姿をとても美しいと思い、ずっと見ていたくなった。
その後、屋台でケバブを買い、川辺で寝そべって食べた。他の人たちはブランケットなどを敷いて、その上に寝そべっていたけれど、私たちは芝生に直に寝そべるのが好きだった。自転車を降りたときにはもう夕方で、たまたま通りかかったハンモックがあるカフェに寄った。二人で乗ると落ちるかもよ、と店の人は言ったけれど、私たちは気にせず寝そべった。ジゼルはジンジャーティーを頼み、
「まっず。」
といって私のほうに突き出した。私はおいしいと思った。
夜になると、ジゼルが、行ってみたかった店があるからついてきてほしい、という。そこは、ランプがたくさん置いてある店で、天井からぶら下がったり、壁に埋め込まれていたり、床に置かれていたりと、さまざまな光が私たちを迎えた。店にはなぜか誰もいなくて、私たちは、秘密基地を見つけた子供ように自由に歩き回った。奥に古い木製のライティングビューローを見つけた時は、
「美しいわ。」
とジゼルが夢中で撫でまわしているのを見て、ふと、絵が売れる日があったら、ジゼルにこの机を買ってあげてもいいだろうと思った。そんな日が来たら、私が絵を描いてきた日々も報われるような気がした。この机で、ジゼルが誰かに手紙を書いたり、本を読んでメモをとったりする様子を想像した。棚にはさまざまな凝ったデザインレターセットや万年筆が並べられていて、ふと彼女を見ると泣き出しそうな顔をしていた。
「ここにいると、とてもさみしい気持ちになる。自分にはどれも似合わないような気がするもの。」
私は彼女の肩を軽く抱いた。細くてどこまでも小さくなってしまうような背中は私の胸のなかに簡単に収まった。また来よう、と言ったらジゼルは嬉しそうにしていた。

家に戻るとやはり、そのキャンバスはあった。表面を滑らかにしたそれは、私の過去の悪事をあばきだすかのように支離滅裂な色を放った。私はそれを直視できずに、すぐに白の絵の具で覆った。

私はしばらく、そのキャンバスから離れた。クローゼットの奥にしまい込み、最初の一枚にこだわることがどれほど馬鹿げているかを自分に繰り返し言い聞かせた。言い聞かせれば、頭は言うことを聞いてくれる。私は新しいキャンバスを用意し、またのめりこんでいった。
手鏡のような小さなキャンバスを一日で描き上げてみたりした。いたずらに、ドアみたいな細長いキャンバスを買ってきて描いた。それを二枚組にして壁に立てかけ、巨匠みたいに腕を目一杯に動かしたりもした。絵の具のしぶきが壁に染み込み、その跡はまるで勲章みたいに見えることがあった。しかし次の日になれば、何の変哲も無い、ただの壁の汚れとなり、私は輝きを失った蛍の死骸を片付けるみたいにそれを拭き取った。

私は様々なサイズのキャンバスをとっかえひっかえ描いた。しかし、キャンバスを変えても結果は同じだった。様々なキャンバスが並びそのいずれも、途中まで書き殴られて終わっていた。未完成だった。部屋は瞬く間に大小様々なキャンバスで埋め尽くされ、描くスペースよりも埋まるスペースの方が大きくなった。


足の踏み場がなくなってきた頃、私はジゼルにこう言われた。たしか、静物画のクラスだったが、ジゼルはまだ自由に出入りをしていた。
「あなたはとても絵が上手いね。みんなからも、上手だって言われるでしょう。でも、画家にはならないと思うわ。私はこれまで何人も見てきたからわかる。君はいつか、描くことをやめると思うよ。」
黙ってしばらくそこに座っていた。そして、筆を洗わないままカバンの中に押し込み、後始末をして静かに部屋を出た。駅のゴミ箱に絵と筆を捨て、電車に乗った。

体は電車にゆられ、空中の吊革と同じ動きをした。私はあわてて耳をすませたが何の音もしなかった。カラン、コロン、と虚しい音が響くのかと思ったけれど、私にはもうなにもなかった。

私の箱は、また空っぽになった。


家に帰り、持っている画材をすべて、他人にあげた。約束より少し遅れてきたその男性は、なんだかわるいなあ、といいながらそれを次々と受け取り、プリウスの後部座席に積んだ。
「プリウスは意外と中が狭いから、たくさんの荷物が乗らないんだよね。」
受け取るだけ受け取ってその場から立ち去るというのも悪いと思ったのだろう、プリウスは私と世間話をしようとしていた。
「絵、やめちゃうの。」
「こんなに持ってるってことは相当描いてたんだろう。」
「もったいないなあ。」
私は、口角をあげないまま、器用に笑った。私が辞めなかったらあんたは画材をもらえないんだよ、と心の中で毒づいた。

私は、全ての絵をはがし、束にしてゴミ置場に運んだ。夏だったのか冬だったのか覚えていない。人気はなく、薄暗い雲がぼんやりと照らされていた。
覚えているのは、そのゴミの束を持っている自分の手が驚くほど浅黒く、血管が浮き出ていたこと。関節を覆う無数の皺は、絵を始めた頃にはなかったものだ。私はこうして膨大なお金と時間をゴミに変えて、挙句、打ち捨てたのだ。
アパートに帰ろうとして一度だけ振り返った。私と毎日、同じ部屋で同じ空気を吸っていたその絵たちは、新聞の束やビールの空き缶と妙に馴染んで、誰がどう見てもそれはゴミだった。

こうして私の部屋は絵を描く前に戻った。見えなかった床があらわになり、部屋は広く見えた。散乱した埃を吸ったらもっと広くなった。部屋には、プリウスが、もうあるからいらない、と言って残していったイーゼルだけがハの字に立ち尽くしていた。それを物置にしまったら、もうこの部屋はまったくの他人面をするようになった。

本当に苦労している人は、苦しいと言わないらしい。それは、自分が苦労していると言う自覚がないからだそうだ。では、こんなにも苦しい私は、まだ苦しみ足りないのか。こんなに自覚がある私は、まだ楽をしているというのか。

私は絵をきっぱりとやめた。



それから二年と半分が経った。
あれだけ足繁く通った画材店にも一歩も入らなくなった。部屋から画材の匂いは消え、唯一、壁のしみを見るまでは自分が絵を描いていたことすらも忘れてしまいそうだった。
実際、忘れた。
絵のない人生は、何とも爽やかで清かった。他にもやりたいことはたくさんあったのだ。今までどうしてそれをしなかったのか、と心底不思議に思えるくらい、他のことはうまくいった。私は、まだ若い。アイデアもある。絵に比べたらどんなことも実現可能に思えた。自分の可能性を上から、絵で蓋をしていたのだと思うようにすらなった。

ジゼルの言う通りだった。私は絵を描かない人生を選んだ。私の「やるべきこと」はもうなく、それは自由を意味した。朝、起きたら、その時思い浮かんだことをした。私がやりたいこと。それは私の好奇心に吸い付くように近づき、行動を共にした。

この時、私ははっきりと自分の好きなことを自覚した。それは、心のうちから私を震わせ、熱くし、上に突き上げるみたいに跳ねた。電気が流れ、喉が渇き、焦点が分離した。
私の好きなことは絵ではなかった。絵は、私の好きなことではなかった。その事実が、どこまでも飛んで行く翼の形をしていて、私は重力を失い、舞い上がった。

全てがうまく回っていく感覚。それを味わう日々が続いた時、妙な熱が出た。夜中の一時を過ぎ、光の見えない世界で私はがたがたと身を震わせた。背中が痛むほど体を小さく折りたたんだ。眠ろうと努めても、震えで目が覚める。こんなことは初めてだった。
それから一睡もしないでただ、部屋の壁を見ていた。明け方、少しずつ窓の外が明るくなってきた頃、その壁の白さを見て、それはキャンバスのようだと思った。私が最初に買ったキャンバス。あの白さに私は怯えていたんだな。そんなことを考えながら眠った。

昼ごろ、光の中で目が覚めた。そこは見慣れない部屋で、私は軽くなった体を起こす。部屋にはいくつかイーゼルが置かれ、そこには動物の絵が飾られていた。とても小さな絵だ。私は一つ一つ、のぞいて歩いた。それは全て、描きかけの絵だった。
いつの間にかそこは草原になっていて、イーゼルと絵は消えた。私が無限に広がるクローバーの上に寝そべり、目を閉じようとすると、小さな桃色の兎がやってきて私に話しかけた。
その兎はもともと絵であったこと。描きかけの絵から飛び出してきたこと。明日、自分は絵ごと捨てられてしまうこと。明日、死んでしまう、とえんえん泣くので、私は不憫になってぎゅっと目を瞑った。まぶたの裏の血管が光に透けるように見えた。草原は一度に消え、私は胎盤の中のような狭く暖かい世界に舞い戻った。すると声がした。

他の人にはできないわね。でもあなたならできますよ。あなたは画家だから。私を完成させて、生かしてください。

それはあの懐かしい、いたずらっぽい声なのだった。

昼ごろ、光の中で目が覚めた。私はゆっくりと起き上がり周りを見渡す。体は軽くなり、昨晩の痛みが嘘みたいだった。両手を上に伸ばし、目を瞑った。少しずつ背中が伸びていくのを感じ、一気に脱力した。水を飲んだ。顔を洗い、歯を磨いた。何か食べようと冷蔵庫を開けた時、私は、クローゼットの奥にあのキャンバスを入れたままにしていることを思い出した。プリウスに全部渡したと思っていたが、そのキャンバスだけは奥深くにしまい込んだために忘れていた。
私はそれをイーゼルの上に立てかけて、出かけた。町にある古ぼけた画材屋で、急なときだけ都合よく利用していた店だった。誰も買わないのか、埃を被った絵の具が並ぶ。まず手に取ったのはランプブラック。そしてチタニウムホワイト。カドミウムレッドにコバルトブルー。カドミウムイエローまで持ったら筆売り場に行き、適当に三本ほど選んだ。

私は自分でも馬鹿らしいと思いながら、あの桃色の兎を本当に描こうとしていた。そんな夢物語あり得ないと思いながらも、いまの私なら完成できるのではないかと思った。あの兎が言う通り、私にはできるかもしれない。私は画家だから。

イーゼルの前に座り、私はキャンバスとにらめっこしながら一日を過ごした。次の日も、その次の日も。その次の週も、そのまた次の週も。夢の中の兎を思い出して、こうじゃない、ああじゃない、と塗りつぶした。私は乳白色に染まり始めたその記憶を、頼りなく手繰るしかなかった。

確か八回目に描き直した時だと思う。私は、あきらめた。私の兎は完成しなかった。私は画家ではなかったのだ。

私はキッチンへ行き、何か食べた。トイレに行って、少し寝た。そしてまた起き上がって、あきらめられた兎を見に行った。キャンバスの中で上を向いた兎は、どうしてもそこから飛び出したいと言っているようだったが、私にはその方法がわからなかった。私は悩んだ末、その兎を塗りつぶした。

突然黒い目が現れたので、私はびっくりした。青かったり、黄色かったり、緑だったりした。でも緑の絵の具をまだ買っていなかったので私はまた、慌てて買いに行った。例の画材屋はなんて気まぐれな客だと思っただろう。レジを打ちながらこちらをちらちらと覗いていた。

目は二つあり、ほとんどの光を吸い込んでいた。鱗のようなものが体を覆っていて、私は顔をしかめた。うろこを一枚ずつ描くなんて、なんて面倒なことを。ひとりごちながら、描いていくと、そうじゃない、とそれが言う。
それは蛙だった。蛙は、鱗に覆われていると思っていたら、突然、灰色の雲の中にいるようだった。慌ててカラフルな絵の具をぬぐい、上から混色したグレーを塗り重ねた。すると雲だったようなものが晴れてきた。そこに蛙の姿はなく、ただ、大きな目だけが空中に浮いた、知らない生き物になっていた。これは蛙じゃない。何か他の動物だ、とわかった瞬間、その絵は動かなくなった。まただ。もう何度もあったことだから、驚かない。蛙は永遠に完成しない蛙になり、私は塗りつぶすための絵の具を練り始めた。

するとその蛙は言う。

私はここを去らないよ。姿を変えてここに戻ってくる。

その目は少し笑っていた。

君はそれに気づくかな。

私は迷ったがその絵を塗りつぶした。そして次の日、新しい絵を描き始めた。私は、次の日も、次の週も、ただ描いた。その絵は毎日姿をかえ、そしてきっかり一ヶ月後、ピタリと動かなくなった。でも、今までとは少し違った。その絵は、もう途中ではないのだ。桃色の兎は、こちらを横目で見ながら、今にも画面から飛び出していきそうだった。私は、生まれて初めて絵を完成させた。

私はジゼルにそれを伝えようと彼女を探した。
アパートに行ってみると知らないベトナム人の家族が住んでいた。前の住人はどうしたか、と聞くと、そんなものは知らない、という。
絵画教室の講師に連絡をとった。彼は戸惑ったように、
「君、モデルに手を出すなんて、画家としてあるまじきことだよ。君はいい画家だと思っていたのに。」
いずれにしてもモデルの連絡先は教えないことになっている、と前置きし、こう言った。
「絵を見せたいなら、私のところに来なさい。そもそも、人参のタトゥーが入っているモデルなんて、私は知らないね。」

私は彼女のその桃色の髪一本一本、口の周りについたドーナツのアイシングや笑った時の奥歯のくぼみなどを詳細に思い出せるのに、彼女のことを何も知らなかったのだ。

私の記憶の中で、ジゼルはいつもくすくす笑っていた。確か彼女と最後に会った時、彼女のアパートで酒を飲んだ。ジゼルは彼氏が飼い犬の世話をさせることや、嫌なことがあると酔って殴ると言っていた。私は彼女が可哀想になって、こんな狭い部屋の中にいるのはよそう、外で飲もうといって、公園のに行って二人で飲み直したのだった。

そのあと酔っ払い、二人で這いつくばってクローバーを探していると、犬を散歩させていた老人がこちらに向かって叫んだ。
「そんなところに手をついて。そこは、犬や猫のトイレだよ。毎日、みんなそこでおしっこさせているんだよ。」
ジゼルはへへへ、と笑っていた。
「大人ってすぐそういうことを人に言いたがるよね。教えてくれてどうもありがとう、と言っておくか。」
私はジゼルの、そういうところが好きだった。


私は帰り道、一枚の真っ白なキャンバスを購入した。ちょうど、両手を広げたくらいの大きさで、そこに素晴らしい絵を描こう、そう決めた。


いつか、私が高校から帰ると、母は美術の番組を観ていた。歴代の巨匠が描いた絵を順番に紹介する内容で、はるか昔に人気だった俳優が、腕組みをして唸っているのが映された。私は小さくてみすぼらしいそのアパートが気に入らなくて、テレビで仕事の憂さ晴らしをしている母も気に入らなくて、こう言ったはずだった。
「こう言う絵ってのは昔も今もバカな金持ちの道楽だよ。投資の道具だね。安く買い叩いて、高く売りさばくの。描く方も買う方も金の亡者だよ。」
すると母はこちらを向かずに言った。
「あんたは昔から、本当に絵が好きだよね。どう、勉強なんてやめて、画塾に行かせてやるから。」
私が黙っているとテレビに兎の絵が映された。
「えらい画家さんの絵だってさ。あんたなら、もっとうまく描けるんじゃない。」
ああ、あの日、私は始めたのだった。

完成したキャンバスをイーゼルから外し、新しいキャンバスを立てかける。あの日と同じ、真っ白なキャンバス。全てがまた、ゼロに戻る。

でも、もうわかっているのだ。この白はゼロじゃない。この白の中に溶けている未知の物語を、私が完成させていくのだ。

私はそう決めた。そしてまた突然、空っぽになった。


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