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「抽象絵画の覚醒と展開」展(@アーディゾンミュージアム)と筆触の歴史

この展覧会の魅力は、その展示内容の豊富さにある。開館準備段階から抽象絵画の収集に力を入れてきたというアーティゾンミュージアムのコレクションは、ピカソやブラック、クレー、ボロックなど実に豪勢だ。それで学生は入場無料だというのだから、太っ腹な美術館である。

 展覧会はセザンヌを初めとする印象派の時代から、抽象絵画の歴史を辿っていく。それまでのリアリズムとは異なる課題に画家たちが取り組む。主体がとらえた現象としての風景をいかにキャンバスに写すか、セザンヌやモネ、ゴッホの絵画は、後の抽象絵画につながるそうした問題意識を垣間見せてくれて面白い。

展覧会を見る限り、本格的に抽象画らしい抽象画が始まるのは未来派の活動がスタートする1910年前後かららしい。そこから30年代にかけて、ドローネー、ピカピア(好きなアーティストだ)、ピカソ、ブラック、クレー(最も好きな画家だ)などが登場する。前の時代の画家がかろうじて人や風景の形を保った絵を描いていたのに対し、ピカソではそれが幾何学模様化され、ピカピアやクレー、カンディンスキーに至ってはほぼ幾何学模様だけが残っている。また日本のモダニズム絵画も飾られていて、古賀春江の世界性のようなものも感じられ、それもなかなか興味深い。

編年的に抽象画をたどったおかげで、絵画の変化がよくわかる。キャプションも丁寧で、全体的に初心者に優しいキュレーションだった。逆に言えばある程度美術の知識がある人にとっては教科書的で物足りなかったのかもしれないが、少なくとも僕にはありがたい(ただし説明の文章がやけに長かったことと、絵画を飾る額縁が豪壮過ぎたことはこの展覧会の大きな欠点である)。

さて戦後。ボロックやザオ・ウーキー、ミロ、具体などの作品が飾られており、こちらも有名どころが概観できる。抽象度が一層増し、絵画はさらに難解、黒を一面に塗ったラインハートの絵画などは僕たちが思い浮かべるような現代美術らしい現代美術だ。ぶっちゃけこの時期くらいから、ひとつひとつの絵の違いがよくわからなくなってくる。ラインハートくらいきれいな黒を描くなら別としても、抽象度の高い絵画は「抽象」という点で因数分解されてしまって、( )のなかはだいたい同じに見える。キャンパス一面に色を塗るとして、それが赤だろうが緑だろうが青だろうがどんな違いがあるのだろう。美術の世界にも第二芸術論はあったのだろうか。あったんだろうな。

しかし、わからないなりに感じるものもあった。美術の歴史の一端は、まさに筆触の歴史なのだということだ。

ゴッホやモネの絵画が分かりやすいが、印象派の時代になると筆の動きがはっきりと感じられるような線が見られるようになる。絵の具がべちゃっと塗られていて、そこに筆のあとが残っている。

筆の動きが感じられるというのは、つまり描き手の身体性が前景化するということだ。絵画は単に絵としてではなく、それを描く画家の身体と一緒に鑑賞者の前に現れる。それをより追求すれば、ボロックのアクション・ペインティングや白髪一雄の足で書いた絵のようになっていくわけだ。

さらに言えば、そこが戦前の絵画と戦後の絵画の境目でもある。戦後のモノ派などもそのきらいはあるが、戦前の抽象画は概ね幾何学的だ。クレーもそうだし、カンディンスキーやピカピア、ピカソもそうだ。◯、▽、□といった幾何学模様で画面が構成されていて、ひとつひとつの図形は独立性を保っている(ついでに言えば、図形のなかでも角があるものが最も頻出し、◯はそれに対して一定の距離をとっている)。

※今回はついでに現代美術館でやっていたホックニー展も見てきたのだが、ホックニーの絵画はそうした幾何学的抽象画へのアンチテーゼだと感じた。そこにはやはり幾何学的に構成され抽象されたベタッとした画面があるのだが、一方で画面の一部は細かく書き込まれている。世界の抽象度をどのように調整するのかということを、有名な結婚の絵(タイトルは何だっけ?)のように多様な画風を「結婚」させながら模索していく。それがホックニーのやり方なのだ。たぶん。

さて戦前は幾何学模様の時代だが、これが戦後になると違う。▽や□といった図形ではなく、線や点が主役を張るようになる。要素同士の独立性は消滅し、色と色とが混ざり合う。筆触はより「流れ」のようなものと一体化し……まあ、言ってみればぐちゃぐちゃになる。そのぐちゃぐちゃとどう付き合うか、ということが戦後美術の歴史なんだろう。

そこには綺麗なぐちゃぐちゃとそうでもないぐちゃぐちゃがある。個人的に青を使った作品は綺麗に見えるが、これは個人の好みの範疇かもしれない。しかしぐちゃぐちゃは総じてぐちゃぐちゃとしか言いようがないし、先にも書いたように右のぐちゃぐちゃと左のぐちゃぐちゃの違いはよくわからない。ただ美術館を見たあとノートを買って自分でもぐちゃぐちゃを書こうとしてみたのだが、意外と難しかったから、ぐちゃぐちゃをやるのにも技術が必要なのだろう。

抽象絵画は画面から意味を読み取ることが難しく、方法論に眼が向くという点でコンセプチュアルだ。ぐちゃぐちゃの内実はよくわからないが、正直僕にはコンセプト重視の作品の方が鑑賞しやすい。コンセプトを読み解けば、あとはお勉強してきた人文学的な読解技術でどうとでも理解できるからだ。光線の入り方とか筆の感触、色の混ぜ方といった技術的な話になるよりは、思想的な話の方がずっとやりやすい。

しかしそれは、作品に対して楽をしているとも言える。僕はたぶん、作品を見ずにコンセプトを見ている。コンセプトがある作品は、語りやすいし、どうとでも語れる。「これは資本主義の論理に支配された現代美術を批判している自己言及的な現代美術なのだ」とか。

そうした安易さに流されないためには、結局たくさん見ることが必要だ。量はどこかで質に転換する。それが僕のモットーなのだ。またなにか気になる展覧会があったら、関西からえっちらおっちら東京まで出向くこともやぶさかではない。




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