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"stranger" そして「異邦人」- 宮本浩次の極北を生きる衝動

stranger とは本来、人づてや土地勘のない場所に生きる者、見知らぬ環境に放り込まれた部外者を指す。
だから外国人のこととは限らないし、誰しもが"stranger"になりうる。
見慣れた場所がある日突然見知らぬ場所になっていることもあるだろうし、馴染みのある人間関係が急激な変化を遂げることもあるだろう。
勢いある子音が続く語感もあいまって、この言葉からは寄る辺なき身の心細さや寂しさ、孤独、そしてそれでも生きていく逞しさやしなやかさまでも感じずにはいられない。
この感じは宮本浩次の「異邦人」の咆哮そのものと言ってもいいのではないだろうか。
だから新曲"stranger"のタイトルを見たとき、わたしは何よりも「異邦人」への目配せを感じずにはいられなかった。

「異邦人」の馴れ親しんだエスニックな前奏部分が剥ぎとられて新しいアレンジが施されたことに、宮本浩次自身も最初はとまどいを隠せなかったようだが、見知らぬ世界に身をおく"stranger"の叫びをヴォカリーズで表現し始めたとき、この曲は異国情緒や旅愁漂う歌謡曲から、極北を生きる衝動が炸裂するダイナミックな「うた」へと変貌した。
このカバー曲がこんなにもわたし達の心をとらえてはなさないのは、築き上げた世界が崩れ去り、これまでとは異なる世界に接したときのざらついた肌触りや違和感を誰もがこんにち経験していて、それを明快に表現してくれる誰かを待望していたからではないだろうか。
宮本浩次の「異邦人」誕生である。

それはまたソロという新しい世界に身をおき、新しい環境での摩擦を愛にかえてみずみずしい声を疾走させる宮本浩次自身の姿にも重なり、新曲「stranger」も同様の文脈でとらえられるのではないかと私は思っている。
目まぐるしく表情を変えながら絶えず現れるstrangerの「君」は、俺の内なる"異邦人"の擬人化、"異邦人"であるからこそ抱く恐れや不安、孤独の擬人化である。
母の胸に抱かれて小さな自我が芽生えはじめる幼き頃からすでに見えていた、生きることの孤独は、親愛なる天使のように寄り添ってくれる一方、ときに絶望の淵にまで人を追いやる悪魔でもある。
うっとりするような甘美な瞬間と強烈に醒めた瞬間が裏腹に重なり合い、入れ替わり立ち替わり迫ってくる日々を生きていくということが、極北を生きるということでなくて何だろうか。
生きていく衝動、「俺が生きてる証」がすみずみまで表現された曲だと思う。

全国ツアーの初日埼玉公演のセットリストに「stranger」と「異邦人」が順番に並んでいるらしいのを見ながら、今までぼんやりと思い描いていた2曲の印象をよりくっきりと現像できたような気がしている。
47都道府県の公演を重ねていくうちにセットリストも少しずつ変わっていくかもしれないが、それも含めて、曲に対する宮本浩次の感じ方、考え方の変遷を見つめていくのもまた、わたしのひそやかな愉悦である。

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