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#180 生徒を「真似ぶ」から脱却させるために必要なこと

生成AIの教育場面での活用において、
必ず課題としてあがるのは、
学習機会の損失です。

生成AIは、レポートや考察課題に
対処できる能力を持っているため、
何も考えずにこの能力に頼り切ってしまうと、
情報整理や構造化といった、
その課題で習得すべきスキルの
学習機会が損なわれます。

でもこれは、
昔から教育現場が抱えている問題なのです。

AIも教員も、生徒のサポート役を担う一面がありますから、
どこまで学習を支援し、
どこから見守るかという線引きが難しい。

「学ぶ」という言葉の語源は、
「真似ぶ」にあるという一説が示す通り、
学習の初期段階では、
指導者が適切な例示を行い、
その中身を模倣させるプロセスは必要です。

しかし、例を出すと、
どうしてもそれを真似するにとどまり、
自分の頭で考えて、
オリジナリティを出そうという姿勢を
放棄する生徒が出てしまいます。

先日行った古典作品のリメイク作品を創作する授業や、
今年度の抱負を3分間でスピーチする授業でも、
僕が示した例に引っ張られてしまう生徒が出ました。

生成AIの教育への活用に関しても、
あくまでも自身の活動の導入や、
支援目的で使わせることに留意しないと、
生成AIに「使われる」事態に陥る心配があります。

言い方が適切かどうかわかりませんが、
生徒には、教員や生成AIを、
「ツール」として活用してもらいたいのです。

目で、耳で、頭で、
その知識や技術を能動的に盗んで欲しい。
そして活用して欲しい。

だからこそ、僕たち教員は、
授業内外を問わず、
日常生活全般で、生徒の視線を意識し、
学びの対象となり得ることを実践せねばなりません。

教員が「授業だから」とか、
「例示の段階だから」という、
限定した場面を意識しているからこそ、
生徒にも、日常生活全てにおいて、
学びの機会は広く展開されていて、
能動的に学ぼうという意識が育たないのではないでしょうか。

生徒に授業で教えようとしていることは、
教員が日常生活で実践していなければ嘘なのです。

生徒が卒業したあと、
社会で生きていく上で必要な能力を教えているわけですから、
それをまず教員が生活の中で実践できていなければ、
説得力がないですよね。

生成AIの教育活動への導入に当たっては、
表面的に起こり得る課題への対処方法を考えるだけでなく、
教員、生徒双方が、
もう一度「学び」への向き合い方を、
考え直す必要があります。

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