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「江戸の歴史は隠れキリシタンによって作られた」のご紹介

「江戸の歴史は隠れキリシタンによって作られた」は、これまでの史実にはなかった、キーワードが沢山出てきましたのでご紹介したいと思います。
著者は元放送作家の古川愛哲さん。
▶「ミサと茶道」は「濃茶と聖杯の飲みまわし」がよく似ている
▶「歌舞伎図巻の出雲阿国」は首から十字架を下げ「十字架にかかったイエスの姿」に似ている
▶高山右近は「我々はわずかな財物と宝のために殺し合っている。これこそ悪魔の仕業というものではあるまいか」と入信した
▶草津温泉の湯治の効能は素晴らしく、近くに天主堂が作られた。
▶京都・北野神社の境内はキリスト教会があった場所
▶出雲阿国の名前の由来は「出雲州(デウス)」から?
▶南蛮寺には背の高いシュロがあった
▶秀吉はベッドで寝て靴を履く洋風の生活をしていた
▶秀吉は側室たちを「マリア」「カテリーナ」と呼んでいた
▶戦国乱世においてのキリスト教は人間の霊魂(スピリッツ)を目覚めさせた
▶「伴天連追放令」は大地震が「神罰・仏罰」であるとする反キリシタン勢力からの圧力により秀吉によって出された
▶京都・だいうす町は教会の跡地
▶イエズス会フランシスコ・ヴィレラは三か月で禅僧・仏僧を含む100人の信者を得た
▶二代将軍秀忠の時代の京都浄土宗の筆頭は伏見の光照寺だった
▶キリシタン禁令下、棄教しなかった京都と大阪のキリシタンは津軽に送られた
▶石見銀山には仏像や仏塔の胎内に十字架が隠されているものがある
▶四条河原刑場には聖数である27本の十字架が立てられた
▶「空を飛んでやってきた京の商人」
▶平田篤胤による国学は、外国からもたらされた価値観を否定し、純粋な日本文化の復活を主張することで幕末の志士たちを鼓舞した
▶一方で、平田篤胤による国学は、国粋思想のみが肥大化し、キリシタンの悲劇につながった
▶「大坂夏の陣図屏風」から見て取れるのは、武士の暴行や乱取の姿
▶教養と芸事に秀でいた太夫はかつて上臈(身分の高い女性)の可能性
▶京都・花街「島原」の語源は、捕らえられた「島原のキリシタン女性」の可能性
▶初期の東京・吉原の太夫もまた、豊臣方の御殿女中だった可能性
▶江戸時代に寺が増えたのは、檀家制度・寺受け制度の確立により、日本人全員がどこかの寺を菩提寺にし、檀家の関係を持たねばならなくなったから
▶1601年から1700年までの100年間に各宗派の寺院の82%が開創された
▶また寺は、葬儀だけでは生活が維持できないことから、1周忌に始まる法要が作られた
▶一般庶民は困窮していても、「キリシタンのレッテル」を恐れ、檀家制度・寺受け制度に従わざるを得ず、文句はいえなかった
▶このような中、キリシタン間の暗号が用いられるようになっていった
▶「IHS」は、イエスキリストの略
▶「INRI」は、ユダヤ人の王、ナザレのイエス」の略
▶「天神様」の天を訓読みすると「アメ」なので、「天神様」を「アーメンの神様」と呼んで礼拝した
▶北野天満宮の天神様の背中には十字架が彫られている
▶神社の「撫で牛」は、「汝デウス」からきている
▶カッパ橋の由来は、頭頂部を剃り、外套を纏った隠れキリシタンたちが深夜に土手を工事するの姿から
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そういえば、京都・伏見には「カッパ」をキャラクターにした酒造がありますが、ひょっとして隠れキリシタンと何か関連があったりして??
いずれにしましても、「江戸の歴史は隠れキリシタンによって作られた」は、とても読み応えのある内容でした。
詳しく知りたい方はぜひご購入されて読んでみてください。
ちなみに、貴重な資料がたくさんだった京都「キリスト教文化資料館」は無くなってしまったようで残念です...😢

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