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二条城は二條家の屋敷(洋館)だった?!

同志社女子大前を歩いていたら『二條家邸跡』という石碑が目に留まりました。

『二條家邸跡』という石碑

『二條家』とは、筆頭『五摂家(ごせっけ)』として朝廷内では格式の高い家柄だったようです。

※『五摂家』とは藤原北家の主流で、摂政・関白となる5家。
(近衛家・一条家・九条家・鷹司家・二条家)

そんな同志社女子大学では、2014年に行われた『発掘調査』で、江戸時代中頃の石組の『地下通路』が確認されたとありました。

説明版

こちらは、屋敷図等では『下々道(しもじもみち)』と記載されるもので、遺構上部には『渡り廊下』が設置され、複数の建物が渡り廊下で接続されていたと推測されているようです。

さらにこの時の調査では、深さ約2.5メートルの井戸も検出されたようです。

説明版

そして、幕末期の『二條家』当主である二條斉敬(1816-1878)は、孝明天皇の関白、明治天皇の摂政となり、朝廷での重要なかじ取りを担い、会津藩主松平容保をはじめ、将軍・諸大名が数多くこちらへ通っていたようです。

そんな『二條家』で思い出されるのは『二条城』との関連です。
さっそく『二条城』の名前の由来を調べてみますと、予想通り『二條家の屋敷』からとありました!!

さらに『二条城』は『平城(ひらじろ、ひらじょう)』であり、近代においては『離宮』の役割を担い、正式名称は『元離宮二条城』とありました。

※『二条城』は、足利氏・織田氏・豊臣氏・徳川氏によるものがあり、現存するものは徳川氏によるものとあります。

ここで気になったのは江戸時代の『平城』という説明文です。
『平城』は、平地に築かれた城のことで、江戸時代の軍学者により分類された地勢による城郭分類法の一つとありました。

そして、戦国時代以前は『山城』が中心で、適当な山がない場合は平地に築くこともあったものの、『平城』はほとんど築かれなかったと言われています。

また、『平城』は、平地に土塁と堀で囲った鎌倉時代初期から南北朝時代にかけての武士の住まいである『方形館(ほうけいやかた)』、後の室町・戦国時代にかけての守護の居館である守護所などの『館・舘(たて)』が起源となったともありました。

...ということは『二条城』は『二條家』の屋敷がスライドした可能性も?!

そこで思い出されるのは、『大礼記念京都大博覧会(昭和3(1928)年)』と言うイベントの際に描かれた『会場図』です。

大礼記念京都大博覧会会場図

こちらの『二条城』敷地内に描かれていたのは複数の洋館だったんですよね...

さらに『二条離宮』で開かれたという『御大礼記念 二条城内豊楽殿大饗宴之御盛儀』の絵を見ますと、会場は、洋装での着席スタイルが似合う天井の高い洋館のようにも見えます...

御大礼記念 二条城内豊楽殿大饗宴之御盛儀

いずれにしましても『平城』は『城』ではなく『武家屋敷』であった可能性があることがわかりました。(しかも煉瓦の洋館の可能性も!)

あとは『下々道(しもじもみち)』がどこからどこまでつながっているのか気になる今日この頃です...

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