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ギャンブル(博打)雑感 1

多分、老後の楽しみとして、noteにあれこれ書く内容は、スペインと日本の音楽状況と個人的嗜好、スペインとスペイン語とスペイン文化(とくにアンダルシアに関することとフラメンコのカンテホンド)、酒(とくにワイン)、それにギャンブル(以下博打と言う)などだが、まだ記事を音楽についてだけ二つしか書いてなく、残りのテーマはおいおい発表させてもらうつもりである。

そんな中で、博打は、前の記事にも書いたように、周りから本業じゃないかと言われ、大学教授は副業だろと揶揄されている通り、僕の人生からは切っても切れないものだろう。今でも週末の中央競馬は欠かせないもので(たまに地方もやる)、昨年は収支で回収率(下のApatの画像の数字:金額は申し訳ないが非公開)107%(的中率34%)とプラスで大満足だった(今年はちょっと調子が悪い)。僕と同業で数学者の父から手ほどきを受けた麻雀(多分小学校4年生くらい)、花札(六百間)、囲碁(勝敗後の目数を賭ける目碁)、バックギャモンなどで、家族で帳面を付けて、お小遣いで清算なんてことを平気でやっていて、お正月のお年玉が入ると、当時子供にとって相当レートの高い麻雀(多分1000点50円くらい)を親戚のおじさん連中と徹夜でなんてこともあった。

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さて、博打について書けと言われれば、他のテーマも同様であるが、これは限りなく話題があって、何から書こうか、と本当に迷うところであるが、先ずは、博打哲学(大袈裟か?)から書いてみようと思う。

高校1年の時、パチンコ屋で出していたら、日本史の先生に見つかり、見逃す替わりに球を取られそうになった時、ふと思った!「補導してもいいけど、球は取るな」、「博打は自分の金でやれ」...結局「博打の負けを払えないような奴は人間の屑」と!高校2年の時には、麻雀の負けを期限までに払わない上級生の教室に怒鳴りこんだら、その上級生が放課後パチンコ屋で必死になって打って、タバコ(換金はレートが不利だった)で返しに来たのは、今でもよく覚えている。こんなことを書くと、守銭奴かクリスマスキャロルのスクルージみたいな奴だと思われるかもしれないが(実際に大学生のとき寮に入り浸って麻雀をしていた相手数名からそう呼ばれていたらしい)、その当時は、今となってはしたくてもできない理想の生活である「宵越しの金は持ちたくない」タイプの人間だったので、それは当て嵌まらない。ただ単に博打の負けを払わない奴が許せないだけだったのである。何故か。簡単である。博打の借金も返せないようでは、他の何をやっても成功しないという持論(哲学)を高校生時代から持つようになったからだ。これは実名はまずいので、伏字にするが、大学生時代に僕から博打の借金を踏み倒した奴の一人にMという有名人(作詞家)がいるが、彼が今一つブレイクしないのは、僕の呪いがかかっていると思われる(才能がないという説も勿論ある)。そして、学生時代に同じ音楽が趣味だったり、競馬に行っていた友人とは、今でも会えば仲良く酒を酌み交わしたり、旅行に行ったりするのは、真面目に僕に負けを払っていた連中や、博打をしない奴でも、僕の考えに共感したかもしれない連中である。そして、そいつらとの友情は簡単には壊れないのである、と思っている。

さて、ここから少し話が逸れるが、僕には高校生時代にもう一つ信条を持っていた。それは、若気の至りでちょっと恥ずかしいが、高校生になって読んだ本(か何かの記事)にあった、ウラジミール・レーニンの兄アレクサンドル・ウリヤノフの(正確ではないが)「決闘のときに先に銃を撃っておいて、相手に撃たないでくれと頼めますか」という言葉。ロシア皇帝アレクサンドル三世の暗殺計画に加担していないと証言しなさいと、母親が牢獄にいる息子を説得したときの返事として言ったとされる言葉で、そのあとウリヤノフは潔く処刑されるのである。当時は、ある左向きの考えに染まっていたので、この言葉に感銘を受け、同じ左向きでも別のセクトの連中相手に論争を挑んでいたのであるが、今でもその言葉に敬意を表する気持ちは変わらない。その、高校生のときのもう一つの信条は、今までも、博打をする僕の中から永久に消えないからだ。博打をする以上、勝ちか負けかのどちらかに決まっている。なのに、負けたときは「ごめんなさい、しばらく待って」では、済むはずがない。相手はすでに拳銃を構えているのと同じなのだ。大学生の頃、原宿あたりのフリー雀荘でそのほうの人とやって負けて払えないので、ダッシュで逃げた同級生もいたが、それはそれで撃たれずに済み、ある意味根性が据わっていたが、その後は別のほうで(🚺)身を滅ぼしたと聞いている。

さて、さらに話は逸れるが、「大人が日本をめちゃめちゃにした責任を僕らに押し付けるから、僕らの未来は暗澹たるものだ」という考えている若者が多いと思われる。年金制度への不信、非正規雇用の増大と雇用不安、一部の大企業への利益の集中。若者にとって暗いニュースばかりだ。それに、束の間でもバブルを味わった我々(歌舞伎町で飲んで、新宿から江戸川区のアパートまでのタクシー代を何とも思わなかったくらい塾なんかのバイトの時給は急上昇していた)と違い、就職難でもがき苦しんでいる若者たちの言葉とすれば、反論のしようもないし、大人の一人として「申し訳ない」という気持ちになってしまう。

こんな日本になったのは何故か。本当にいろんな要因が考えられるので、何が(誰が)悪かったのかなんて一概に言えないし、この話しを始めたら、それこそ某局のくだらない討論番組と同じになってしまうのだが、僕個人は、非常に抽象的であるが、誰かが「博打の借金を払わず」、誰かが「先に銃を撃っておいて、猛ダッシュで逃げた」と思えるのだ。僕もその犯人の一人だろうけど、まあ、自分の責任は棚に上げて、政治家の体たらくも当然計りしれないくらい大きな理由であり、それを選んだ有権者の意識の低さも糾弾されなければならないし、その他いろいろある中で、僕が大きな原因の一つと思っているのが、大学入学共通テスト(ころころ名前が変わったが、創設当時1979年は共通一次テストと呼ばれた)を作って、知らん顔をしたり、褒め称えた奴らだ。(首謀者は1976年から1977年の福田内閣で文部大臣だった某氏(若干個人的に知っていた)だが、共同正犯は受験戦争の正常化に誤った道筋をつけようとした、それまでの官僚や審議機関のメンバーであろう)。

僕は、すでに書いたように、ある大学でスペイン語を専攻することになったのだが、はっきり言って数学はからっきしだめで、英語が好きだったからその大学に合格したようなものだった。だが、某国立大学に入学するという野望も持っていた。と言うのは、一年先輩でその大学の法学部に入学した(別の高校からだが)A君は、数学を完全に捨てて(実話である)合格したからだ。僕もそれならと挑戦したが、残念ながら惜敗(と言っておく)したのである。また、ある私立大学の世界史で「ミトリダデス三世(註:今となってはどんな問題かは不明)が答えになる問題があったのだが、さっぱり分からず名古屋に帰ってきて、世界史得意のI君(今はなぜかある大学の英語の先生)に尋ねたところ、「それは~~王国の……」とすかっと答え、「~~の参考書の~~頁の註にある」(~~は今は不明だが、参考書は山川だったかな?)とさらっとのたまうではないか。

★当時一発勝負だった某大学の入試(2日間かかる)の合計点は900点満点で、英・数・国(古文・漢文も含め)200点ずつ、社会2科目各100点、理科1科目100点で、科目ごとの足切りはなく、マニアックな問題が多いせいで、合計900点のうち500点くらいで合格だった。なので、数学の200点と理科100点はほとんどできなくても、他が優秀なら合格できた。

その時は、そんなことまで知っていてどうなるの、という感じだったのであるが、その後僕が大学院(言語学専攻)でチョムスキーの生成文法を専攻し始めて、他の大学院生たちが、詳しい書名は省くが、聖典ともいうべき「アスペクツ」や「SS」と呼ばれる本の「~~頁の~~行目」とか「注の~~番」とか言っているのを聞いて、I君をちょっと蔑んだ自分が間違っていたことがはっきりとわかったのだ。

時は経ち、大学で教鞭をとるようになったあとも、母校の大学院生たちと接する機会があるが、感じるのは、確かに外国語はできるが、学問的な深さや想像(創造)力は僕らの頃のほうが絶対に上だということだ。共通一次試験が始まった一九七九年に僕は修士を修了している。

ある科目ばっかりやっていて、そこそこの大学にしか入れなくてもいいじゃないか!そのあと結果はついてくるのである。ところが、今の大学入学共通テストはその芽さえも摘み取ってしまうように思えてならない。受験地獄という賭場に当時共通一次テストというサイコロを振ったら裏目に出たけど、ゆとり教育と言う大きな借金までして、サイコロを振り続けた結果、今更「脱ゆとり教育」などといういかさま技を使って「ちゃら」にできるほど甘くはないと思う。まさか、刑法一八五条の「一時の娯楽に供する」などという気持で、罰金は払うつもりがなくて導入したんじゃないだろうね。多分、いい加減もう負けを返せなくなっていると思うけどね。

話しが逸れましたが、博打とはこんなもんだという雑感まで。

(続く)






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