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遺産ってなんだ?!

 遺産相続雑感。

 遺産相続で揉めている連中が多い。実は身近にも、骨肉の争いに近いような醜悪な事例も見ている。実話かどうかは分からないが、youtubeにもいろんな動画がアップされていて、兄弟・姉妹間他の卑近な争いには思わず、バカとしか言いようがない。まあ、財産というのは人を狂わせるとしみじみと感じさせる。財産を持っているなら、死ぬ前に相続人を集めて法律に則った遺言(公正証書)を残すのはある意味持つ者の義務であり、そこで不平不満を言うのがいれば、人間の本性も見えて、遺留分以外の部分(法定相続分)は相続させないなど(協議に加えない)、いろいろなことが決められるので、必ずやっておくべきことだと思うが、それ(所謂遺言)がないために協議が成立せずに裁判沙汰になる例が数多あるわけである。法律的なことは僕には難しいことがあり、以下ではその部分についてではなく、個人の経験から遺産で揉めないには、どうしたのかということをちょっと書いてみたい。

 先ずは、父の話しから。父は長男で、弟と妹二人の4人兄弟であった。本家は名古屋でも結構有名な和菓子屋であったが、本人は勉強が好きで豪放な性格でもあったことから、名古屋高等工業(今の名工大)から旧制名古屋帝大理学部数学科に進学し、親の言うことを聞かないという理由で、親から縁を切られたらしい。バイトもしながら、本来は実家から通えるところを、うどん屋の2階に下宿して学生生活を謳歌、おまけに在学中に高等女学校を卒業して名古屋大学の事務員だった母と知り合い、卒業して就職先の岡山大学の助手として赴任するときに、友人たちとささやかなすき焼きパーティーを開いて、結婚したと聞いている。岡山には正確にいつ行って、どのくらいいたのか分かっていないのだが、その後僕がお腹の中にいるときに、名古屋の中京短期大学開学のメンバーとして(現在の中京大の前進)転職が決まり、僕が生まれた1953年の翌年に開学を迎えるまでは中京商業高校の教諭もしながら、縁を切られた実家には戻らず、母の実家に僕も含め居候していたらしい。しばらくして中京短期大学開学後は大学の中にある小さな借家に移り(ここは僕も覚えている)、その後中京大学が開学し、商学部の助教授から教授(経営数学)へとなったのが昭和33年であったと聞いている。しかし、当時の大学の先生は貧乏なものであり、そのボロ借家には僕が中学1年になるまで住んでいた。

 さて、「遺留分放棄」の話しになるが、本家の菓子屋のほうは弟が修行して後を継ぎ、祖父も弟に任せて引退生活を送っていたが、問題は遺産相続である。和菓子屋として存続するには、弟に本家を継がせるしかないわけで、兄弟他を含め協議が行われていたようだが、結論は弟以外の兄弟は遺留分放棄せよとのことであった。妹二人(それぞれしっかりしたところに嫁いでいて、とくに姉のほうはこれも老舗の蕎麦屋の女将になっていた)からは若干の異議も出たようだが、父はなんの異論も挟まず快諾したようだった(小さいときは知らなかったが、後で母から聞いた)。すると文書屋(行政書士か司法書士だろう)がきちんとして手続きの書類を準備して、家庭裁判所に申請することになるのだが、聞いていたのは、裁判所から兄弟個別に呼び出されて「脅されていないかどうか」など、結構際どい尋問があったようだ!結局申請は受理され、父にはわずかばかりの「はんこ代」が増られたそうだが、父はそれさえも固辞して受け取らなかったようだった!
 余談:僕が生まれてから、祖父(本家のほうの)は縁を切った手前一度も初孫に会ったことがなかったらしかったが、これは母の回想だけど、僕が3歳になって、初節句のときに、借家の外で家事をしていたところ、遠くから見覚えがある(その理由もすごいので後述する:下に註)お年寄りが来るではないか、手にどうも5月人形らしきものを持っていて、近づいてきて、誰だか分かると怖くて、腰が抜けそうになったとのことで、これを境に勘当は解けて、本家に遊びに行くようにもなり、僕が小学校に入ったあとは、僕がよく菓子屋に行くと、作業の手伝いをしたり、店のガラスケースの中の好きなお菓子を食べていいよと言った感じで、上手く僕が緩衝材になったような感じだった。それに僕もあまり勉強せず遊んでばかりいたし、菓子作り(その頃は洋菓子もやっていて、星が丘の三越にも店を出していた)に才能があったようで、後日高校生になったころ、父の弟(僕にとって叔父さん)は娘二人の子供に恵まれたが、男の子がいないので、僕に養子になって菓子屋を継がないかという話しまで出たのであった。その時、それもいいねと言っていたら(父は子供の意志を邪魔するような人間ではなかった)、どうなっていただろうか!

註:母が一度だけ義父にあったことがあるのは、大学に入学した後、祖父は父に結婚相手を探して、本家を継がせようと画策したことがあったらしく、当時は競輪場の貴賓席なんかが見合いの場所に使われ、そこに相手の女性を連れて祖父は来ていたらしい。父には、見合いと分かると来ないと思い、競輪場で遊ばないか程度の話しで誘ったらしく、父は小遣いが貰えて、美味しいものが食べれて、遊べると思い、当時の母(彼女である)を連れて行ってしまったのである!どうも、これが原因で縁を切られたということらしい!母はその後僕の初節句に乱入した義父に会うまでは、一度も本家の人間に会ったことがないと言っていた!

 さて、僕の話しであるが、ちょっとだけ英語ができたのと、マークシートの指運がよかったのか、上智大学に入学して以降、名古屋には、お盆や正月に帰省して、しばらくのんびりする以外には帰ることがなかった。その後大学院博士課程修了後の浪人時代も含め東京に14年間、最初の赴任地である佐世保(長崎県立大がある)3年間、その後福岡で今に至るのである。その間、父は昭和62年にガンの予後が悪く逝去し、今も母は存命であり、間もなく94歳になる。その間50余年、僕は父や母の面倒や世話をほとんどしたことがなく、今母の住んでいるマンションの近くに嫁いでいる妹(他に兄弟はいない)が全部面倒をみてくれているのである。母は結婚して名古屋大の事務員を辞めたあとは、永遠の専業主婦で、55歳で父に先立たれたあとも、ずっと年金生活である。(共済年金に遺族年金の仕組みがあってよかったなあと本当に思う)さて、そんな母が90歳になる前あたりに、そろそろけじめをつけておこうと思い、妹にも話しをして、僕は遺留分放棄をすることにした。母の遺産は1億はないと思うが、父の退職金やマンション、有価証券などで5千万は超えると思う。もし、母が亡くなっても、一切遺産をもらうつもりはなかったが、それでもけじめという意味での提案であった。50余年間一切実家の面倒をみず、父の病気中の看病、未だ認知症の兆しはないがこのあとどうなるか分からない母の介護(足が弱くなって、買い物や病院に連れて行くのは妹やその旦那が全部やってくれる)などを考えれば、今更、遺留分をくれなんて言えるはずがない。なので、過日名古屋に行き、しかるべき書類に署名・捺印して、家庭裁判所に届け、すっきりさせたことで、今に至っている。あとは、僕も70歳になり、逆縁をしないようにすることだけが、妹からも厳命されている。
 追記:父は「はんこ代」を受け取らなかったが、僕は贈与税がかからない範囲で、いくばくかの「はんこ代」をいただいた。母からも、これくらいは貰っておきなさいと言われ、それではとありがたく頂いた。

 世の中が、こんな風に、家の事情、それまでの役割分担や貢献といったものをきちんと慮った方向で、本来自分が築いたものではない遺産相続に向き合えればなあと思う僕は、理想主義者なんだろうなあ!でも、世の中そうあって欲しいと願うばかりだ!

続く
 

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