解離の対処法の話

*この文章は以前公開した記事の一部を抜粋し、書き足したり、再編成したりしたものです。

はじめて解離症状を経験したのは2019年の11月の半ばで、そのときから、日常生活でもわりと頻繁に解離を引き起こすようになった。解離の症状は人によって異なるが、自分の場合は別の人格になるわけでもなく、身に覚えのないことをしているわけでもなく、ただ現実感を喪失し、世界と自分が切り離されているように感じるようになる。自分の観ている世界そのものでなく、そう感じている自分の感覚の方が狂っていることもわかっているので、なおのことたちが悪い。

精神疾患のめんどうなところは、明確な対処法が存在しないことだ。解離のときの対処法はもちろん存在するが、それをしたところで、症状が改善されるという保証はどこにもない。解離してしまったときは、まずその対処法を試すけれど、それがうまくいかなくて、思うように現実に戻ってこれなかったときの絶望感はなかなかに大きい。

とはいうものの、解離していない状態のときから、対処法を色々考えているおかげでなんとか現実に戻ってこれることもちょっとずつ増えてきた。現実に戻って来れなくても、解離状態のときをうまくやり過ごすコツもちょっとずつ掴んできた。

例えば、解離していない状態のときに、自分が落ち着くと感じる匂いや味覚をノートにメモしておき、解離してるなと感じる時はその匂いや味を体験できる場所に行くと、現実に戻ってこれることが多い。また、自分のなかで「落ち着く」と位置付けているものが体感できる場所に行く、というのがある。私の場合、それは神社と京都だ。神社と京都は自分にとって日本らしさの象徴なので、今自分は日本にいるんだという感覚を取り戻せることがある。

解離のときは、頭の中で冷静な思考ができないことが多い。あるいは、できたとしてもそれを自分の感覚を結びつけるのが難しくなる。だから、頭では「ここは日本だ」とわかっていても、その感覚を失っているから日本にいると信じることができない。では自分はどこにいるのだろうと考えてしまい、どこにもいない、しかし物理的に存在はしている自分を感じたときに、たとえようのない、半端じゃない恐怖が襲ってくる。

もちろん、この方法を試しても、現実に戻ってこれないときもある。そういう時は「うまくやり過ごす」しかないのだが、自分にとっては、その方法の一つがハングルを見る・読むこと、韓国語を聞くこと、もしくはカタカナを見ることなのだと偶然気づいたのはたしか今年の2月だったと思う。

「カタカナとハングルはどこか似ている。カタカナは自分にとっては記号のように見えて、ひらがなや漢字と違って、見てもなにかの感情が起こることはない。」
里親さんの家に遊びに行ったとき、そう里父さんに話したら、「カタカムナ」というものを教えてもらった。これは、量子力学の分野では知る人ぞ知る七五調の首(うたい)のようなもので、唱えると精神が安定するらしい。実際やってみたら、なぜかはわからないが、心が落ち着いた。このメカニズムについては、難しい本があるので、興味のある方は、そちらを読んでいただけたらと思う。

解離症状は、うつと同じで、一度スイッチが入ってそうなってしまった以上、そう簡単には元に戻らないと思っている。もしかしたら、解離を経験する前の感覚や認知の状態がずっと続くということはもう二度とないのかもしれない。そう気づいたとき、長い戦いに挑むことになったなと覚悟を決めた。何度か解離を経て、自分はどんな人間なのか、これまでどう生きていたのか、自分でもわからないことだらけで、日々試行錯誤の連続だし、うまくいかなくて落ち込むこともたくさんある。でも、なんやかんやで、成果を出さなくても、前に進めていればそれでいいかと今は思っている。


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