オッペンハイマー感想・走り書き追記有り
こんばんは。日本で上映されていないので、思い立って8/4に台湾でオッペンハイマーを観てきました。まだ観ていない人にストーリーが完全にバレないようにする為に軽く感想と主観のみとしています。部分的なストーリーは分かってしまうと思うので、心配な方は読まれないことをおすすめします。
9月以降には完全ネタバレ込みでもう少しちゃんとした文章を載せます……
冒頭には、今はパリに所属されているピカソ《Woman sitting with crossed arms》をオッペンハイマーが眺めているシーンがある。この絵は、ピカソがマリー=テレーズ・ウォルターを描いた絵であるが、何故ここでピカソなのか。そして何故この絵が選ばれたのか。
ここには恐らくもっと意図されたものだと思うが今分かるだけでも3つの意味があるだろう。
1つ目に、このピカソの画法がピカソによる女性への暴力願望を表しているという昨今の批評を受けて、オッペンハイマーが後に達成する人類史上最悪の破壊装置を示唆させ、彼の内的な暴力性を表象しているということ。
2つ目に、ピカソの女性関係の奔放さと、オッペンハイマーのそれを重ねていること。今回、オッペンハイマーは女性である私から見てもかなり残念な色男に演出されていたし、何度も女をやり捨てとも言えるような扱いをしている。セックスシーンも多く、親と観るには不適切である。そもそも国内で配給されていないので不可能な話であるが。
そして、キュビスムが美術の世界における量子力学の相関物だとする議論からの、美術と物理学の架け橋としてのピカソの登場だ。
アインシュタインによる美意識が相対性理論を生み出し、当時最先端の科学技術がピカソにキュビスムをもたらしたと書いたアーサー・ミラーによる言説が有名である。
知らない人に掻い摘んで説明すると、これは1904年にポアンカレ「科学と仮説」のドイツ語版をアインシュタインが読み、1905年にピカソがモーリス・プランセからこの本の話を聴き、この年、アインシュタインとピカソは別々に、そして示し合わせたかの如く時間と空間に関する新たな概念を作り出すというものだ。
今回「原子爆弾の父」を扱うノーランの意識が読み取れそうなものだとも思う。中盤……中盤は、何故日本で公開しないか理解出来てしまうほどに胸糞悪かった。ただ、物語の筋として仕方ない部分もあるだろうとは思う。日本、ドイツ、インド、ニューメキシコ州の人間には明確に気分を害するものが集約されている。日本とドイツに限っては終盤まで続くが。
例えば「京都は俺がハネムーンで行ったから爆心地にしたくないな」何て聴いた時には酷過ぎて苦笑いしてしまうほどだった。ただ、途中のジーン・タトロックの自死のシーンには少し引っかかりを覚えた。彼女はオッペンハイマーから2度のプロポーズを受けるも、オッペンハイマー自身は別の女性であるキティと結婚する。
ジーンは鬱病で、ODで亡くなったとされるが、彼女の自死のシーンは風呂場で、浴槽の水を飲んで亡くなるのだ。
これは、ヒロシマの原爆の被爆者が川の水を一口飲み生き絶えたという話や、水を求めて川に身を投げた人で川が埋まっていたという話を想起させる。
実際、オッペンハイマーによる初めての核実験の名称にはジーンが関わっており、あの「トリニティ実験」という名前はジーンがオッペンハイマーに教えたジョン・ダンの詩から引用したものだということだ。
ちなみに、ジョン・ダンの名前は知らなくても、これは聞いたことがあるだろう。
『誰がために鐘は鳴る』、ヘミングウェイによるこの本のタイトルは彼による説法からの引用である。物語も半ば、オッペンハイマーは、自分の功績が周りに賞賛される度に、原爆投下後の犠牲者の惨状を模した様な幻覚を見る。例えば広島平和記念資料館にあるような絵を想像して頂ければ分かりやすいだろう。ただ、それを限りなくオブラートに包み、IMAXで観たところでエンタメの枠を超えない形で表した幻覚でしかない。
その幻覚の中でただ1つ、明らかにヒロシマ・ナガサキの投下後を正面から受けたと言えるショットがある。顔から肉片が剥がれ落ちた一人の若い女性だ。
この女性は、ノーラン監督の娘フローラが演じている。実際に、ノーランのインタビューでは「究極の破壊力を生み出してしまったら、それは側にいる大切な人までも破壊することになるのだ。これ(娘のキャスティング)は私にとって、それを可能な限り最も強い言葉で表現した方法だと思う」と答えている。劇中音楽で気になった点は、一切のドラム音が聞こえないところだった。恐らく、ストーリーやオッペンハイマーのキャラクターを鑑みると、ドラムの音が軍事的イメージを彷彿とさせるが故の判断だと思う。この音が無かっただけで、軍人とはかけ離れた、言い換えれば政治的な争いが不得意なオッペンハイマーと、政界や軍人に近づいていったエドワード・ハイマーとの対比を色濃くさせることに成功している。
タイム誌にオッペンハイマーが表紙として取り上げられた後のシーンでのやり取りにこんなものがあった。オッペンハイマーによる「大統領……私は自分の手が血で汚れていると感じてならないのです」との言葉にトルーマンは「(……)お前の手は私の半分ほども血で汚れてないだろう?」と返す。
このやり取りは劇場でも笑いが起きていたが、日本人である私にとっては、良心の呵責を覚えたオッペンハイマーを周囲が嗜め、より「破壊者」(この単語もインドで問題視されている)足らしめている様であると思ってしまった。
史実には、ここでトルーマンは激怒して部屋を出たとのことである。オッペンハイマーの服装が、70年代〜のデヴィッド・ボウイから影響を受けたとしか考えられないほど似ている。
理由は分からないが、何故かこのスタイルのマーフィーはオッペンハイマー自身を彼以上に想起させていた。
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