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食卓と沈黙

 昔から、決まって家庭の不和は食卓で起こっていた。

例えば、ほうれん草のスープを啜った時に音が出れば叱られた。

幼い私は、テーブルマナー通りにも、はたまた『斜陽』冒頭のお母さまのような「ひらりと一さじ」口に運ぶようにも、スプーンを扱えなかった。

お皿に擦らせた銀食器の音や液体と粘膜の触れ合う奇妙な低い音は、確かに心地の悪いものだったが、どうすることもできなかった。

叱られながら、それでも子供には大きすぎるスプーンで食事を続けることは苦痛だった。

食べることを放棄するとき、「そのままだと食べられないって言うからスープにまでしたのに」と横で泣かれるのは、叱られるより辛い。

 そしてその後、母親が黙りこくって食事を終えるのは、もっと苦しかったように覚えている。

 綺麗な母親が、綺麗に盛り付けた食事を、しっかりと食べきられることが出来たのは小学校に上がってからのことだった。

その頃には、母親はもう私をテーブルマナーで叱らなくなっていた。

私の所作はぎこちないままだったが、恐らく多分もうそれ以上の成長を期待されていなかった。



────沈黙。

沈黙は、まるで夏の扇風機から吹かれたぬるい風が持つ、体を侵食しそうな不可解な重さにも似ている。

食卓には、いつも沈黙だけがあった。

 上京から約一年弱、親から帰省に関しての連絡がきた。

遅れに遅れた成人式の前撮りと、マイナンバーカードの作成と、いろいろな方面への挨拶回り。後は母親の話し相手などをしてほしいとのことだった。

渋々乗った新幹線の車内は案外快適で、適当な映画をパソコンで流しながら微睡んでいた。

 しかし、東京から着いた先は実家とは程遠い仙台駅だった。

成人してもなお、まともに新幹線にも乗られないという事実を目の前にして、しばらくホームで電子タバコを吸っていた。

生気のない目をした車掌さんが、何人か横を通り過ぎて行ったけれど、咎められることはなかった。

やっと重い腰を上げて、改札の駅員さんに声をかけた。

五十も後半といった具合の男の人が、快く対応してくれた。
東北の訛りを聞くのはあまりにも久しぶりのことだった。
「懐かしい」という感情が湧くのを、どこかメタ的に感じていた。石川啄木が「ふるさとの訛懐かし停車場にそを聴きにゆく」と詠んだ時、かのような心持であったのかもしれない、など。

「東北は初めてなのか」といったようなことを聞かれたが、訛りがきつくてあまりわからなかった。ただただ微笑むことしかできなかった。
彼はにこりと笑いながら「誤乗」というスタンプを切符に押してくれた。新幹線の切符で、実家まで向かう電車に乗られるとのことだった。


 山中を移動する車窓には、豪雪によるモノクロの映像がただただ流れて行く。仙台で感じたような懐かしさを覚えてもいいはずなのに、何処か他人行儀に座ってしまっていた。

駅に迎えにきた父親とは、形式通りの挨拶にとどまってしまった。車内に漂う空気は、経験したこともない車酔いを想起させるようなものだった。

帰宅すると、母親は飛ぶように喜んでくれたが、それも束の間に、些細なことで父親と喧嘩を始めてしまった。

 夫婦喧嘩において、父も母も決まったように私の加勢を欲しがった。どちらかの肩を持てば、どちらかが酷く気分を害してしまうので、これを対処するのには骨を折っていた。

一頻りに喧嘩をした後で、家族で夕食をとることになった。

 家族で食事を取っているとき、私が話すことのできる会話の内容は、父にとって全くの興味を引かず、そして苛立ちすら与えてしまう。

上京後の生活や、自分の住む街の話といったありきたりな話が底をついてしまうと、私に話せることは最近読んだ本や授業に関することしか残っていなかった。

沈黙を避けるように「会話」ではない、いわば「スピーチ」のような話を続けていた矢先、父親が口を開いた。


「お前は俺の知らない歴史だか何だかの話をして、俺を試したいのか?」


仕事柄かアルコール中毒に近しい父親は、食卓において常に不機嫌だった。

 席に着いたその瞬間から、彼は彼を苛立たせるものを探していた。
「子ども」である私が発する嫌味にも取られるような言葉は、彼にとっての恰好の餌食となったに違いない。

私の言葉が誰に咀嚼されることもなく浮遊する食卓。

それを前にして、私は人と食事をすることに不安を抱くようになっていた。


家族との久しぶりの食卓は、一人暮らしや、友人や恋人との食事の中で薄れつつあったその不安を強く蘇らせた。

 父親の怒号が飛ばされた後、私はただ、沈黙を小綺麗にナイフとフォークで切り取って、口に運ぶことしか出来なかった。


 愛のない夫婦のための愛玩道具になるだけの愛情は、私にはなかったし、彼らの関係性を繋ぎ止めるだけの能力もなかった。

その事実は、確かで疑いようのないこととして目の前に現れた。

彼等が望んだ「子ども」としての役目は果たしたはずだが、彼等が望むような「後継」にはなれやしないだろう。

ここまでのレールを作ってくれた親には申し訳ないという気持ちがないわけではないが、私は気持ちよく彼らに接するには物理的な距離感が不可欠なようだった。金銭的な援助くらいでしか、彼らに手を差し伸べることはできない

普通とは、きっと手が届きそうで届かない、皆の理想。

または、集合知に近い、机上の空論のようなものかもしれない。

 普通の暮らしだと思っていた私の生活は、ある人が見れば酷く裕福で、また他のある人からしたら、酷く質素なものに映るだろう。
それは、私と対峙する人間が、何に重きを置くのかによって違ってくる。

 家庭内において、私の座る椅子が常時空けられているという状態が、私は幸せだと思っている。

 家庭とは、社会的な空間であるから。


それでも、育ってきた生活水準というものは恐ろしく体に染みつくものであって、恐らくそれだけでは事足りないかもしれない。 

 しかし、何を頭に思い浮かべても、恐らく自分一人でも手に入れられるようなものばかりであるのは確かだ。資本的な豊かさは、若さと、現状の学歴やある程度の胆力で賄えるということは東京で痛いほど知ってしまった。

 この帰省中に、一つの裏付けを持って、私の座る椅子という色褪せることのない幸福が不意に約束されたとき、私は自分の過去から急に解放された気がした。

 ここ数日、懐かしさで私の胸を打ったのは、仙台駅の駅員さんの訛りの混じった声だけだったことに、何となく気がついていた。
手にとるような渇きを目の前にしていた私にその言葉は容易に浸透した。

恐らく私にとって、帰省したこの街は「正しい街」ではなかったのだろう。
衝動的に、尚且つきちんと飛び出してしまったことに、後悔は全くない。

 決別はまだ着けるつもりはないけれど、いずれにしても帰らなくなる日が来るのだろう。

そのときに、残してしまったものを追うことがないように、今は少し向き合ってみようと思っている。

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