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マシュマロお返事「「オタク」の定義とはなんですか?」(あるいは「誰かのオタク」の前に「自分」でいることの大事さ)

こんばんは。いぬさんのツイートいつも楽しくみさせてもらっています。 突然ですが、いぬさんの「オタク」の定義とはなんですか? 私は、どうも自分を「オタク」と呼ぶのが似合わない気がしています。推しに対して知識が豊富なわけでも、CDやグッズを大量に買うわけでも、現場"命"なわけでもありません。推しは大大好きですが、その気持ちは誰にも負けない!と言えるほどの強さはありません。MOAでもオタクでもなく"ただTXT好きな人"でいたいという気持ちが強いというのがあるかもしれませんが。 いぬさんは、自分のどういう部分を「オタク」と認識して自称していますか?

ツイッターで普通に回答しようとしていたら長くなってきたので、ツイートみたいなゆるテンションでこちらで回答しようかなと思います。

「オタク」の定義とはなんですか?という質問ですが、まず結論から言うと「正直よくわからない」でも「自分のどういう部分を「オタク」と認識して自称していますか?」については「キモいところ」です。何だそれって感じと思いますが、後々詳しく記述します。

マロを送ってきてくださった方は

・自分を「オタク」と呼ぶのが似合わない気がする
・推しに対して知識が豊富なわけでもない
・CDやグッズを大量に買うわけでもない
・現場"命"なわけでもない
・推しは大大好きだけど、その気持ちは誰にも負けない!と言えるほどの強さはない
・MOAでもオタクでもなく"ただTXT好きな人"でいたいという気持ちが強い

とご自身のことを説明しています。読んでいてわたしのことかと思いました。お前はソウルだけじゃなくバンコクとか台北も行ってたしどう考えても現場命だろ、と言われたらそれまでなんですけど、ここ半年くらいでスタンスがすごく変化して、別に現場行かなくてもいいかな、みたいになりつつあるので今の自分のオタク活動に対するスタンスはかなりこのマロ主に近しく、ちょっとしたシンパシーを感じました。

Ⅰ. 長いイントロダクション(昔話)

そもそも「オタク」とは?

1980年代初頭の同人誌即売会や漫画専門店にたむろする常連達が二人称に好んで使った「お宅は?」 からヒントを得て、その頃、若者の間で広まっていたサブカルチャーに没頭する人々を示すために蔑称として定義された造語である。

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「オタク」とは、ある意味”広義的”な言葉です。語源は1980年代初期の秋葉原やイベント会場で、アニメやマンガ好きの人が相手に対して「お宅は~」を多用していたためだと言われています。そのため、以前はアニメやマンガ好きな人などを「オタク」に分類していましたが、いつしか「鉄道オタク」や「アイドルオタク」のように裾野が広がり、今では”特定のものごとに熱狂的する人”を「オタク」と呼ぶようになりました。

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基本的には何かに対して熱狂、没頭している人をオタクと呼ぶみたいですが、興味深いのは今では当たり前に、むしろ昨今においてはポジティブな意味合いとしても使われることも多くなった「オタク」は80年代では蔑称として定義されてきた言葉でもあったんですね。最初に引用した論文が書かれたのは2006年でわたしはその頃は小学生とかだったのですが、クラスの陰(いん)の者たちは性別を問わずひどい同級生から「オタク野郎」「オタクのくせに調子に乗るな」「新しいクラスはオタクばっかりで最悪」など理不尽にけなされていた記憶があります。

古(いにしえ)のオタクのうしろめたさ

わたしが「アイドルのオタク」の自我を生まれて初めて得たのは2016年末くらいで、当時はジャニーズ界隈にいたのですが、アニメや漫画が好きでおとなしい性質を持った人間であるだけで「オタク」とけなされていた頃と比べると、「オタク」はかなり市民権を得ていた実感がありました。
それでも今ほど開かれたようなものではなく、そしてどちらかというとネガティブな属性だったり、世間的に見て異物であることは変わっていませんでした。おそらくそのネガティブさの根底には、時間とお金をかけて好きな対象を追っていくことに対してのうっすらとしたうしろめたさや自嘲があったんじゃないか、そんなことを思います。
当時は好きなものに情熱を燃やす行為に「推し活」というキャッチーな名称がついていなかったり、現在と比べて恋愛や結婚がすべきものと扱われていたこともあり、大学生のオタクは「せっかくの恋愛できるチャンスを放棄して届きもしないアイドルを追いかけている人」独身の社会人は「大人としての社会的役割(結婚、出産など)を放棄している幼稚な人」などと思われやすかったこともオタクに対する/そしてオタク(ファン)自身が自らの属性に感じていたネガティブ感の一因なのではないかと考えます。長くなりましたが、わたしにとっては確かにこの頃の雰囲気が現在の自分のオタク観のベースになっていると感じます。
 

Ⅱ. オタクを定義したいけど、「オタク」がわからなくなっている

反転した「オタク」の意味合い

元々わたしが思う「オタク」は引用元のように「何かに対して情熱を注ぎたくなる気質のある人」でした。その気質の中には加えて押しつけられがちな社会的役割から背を背け、自分の時間や金銭を犠牲にし、好きなもののためにひた走る、どこか過剰で破滅的な側面もありました(振り返ってみるとそのイメージもすごく偏っているのですが)。
12人のオタクに”推し活”とは何かをインタビューを行うことで推し活ブームは何か問う本『推し問答!』を上梓したライターの藤谷千明さんは「推し活」の移り変わりについてこう話しています。

(…)2022年あたりから、Twitter(現X)で「推し活」という言葉の解釈をめぐる議論が目につくようになりました。「もともとはちょっと頑張りすぎてしまうオタクが自嘲的に使っていたものでは」という人もいれば、「推し活ハッピー!」みたいな人もいる。あるいは「その程度では“推し活”といえない」といった話が出てきたりもして。当たり前ですけど、正解はないじゃないですか。だからいろんな人に、それぞれの推し・推し活像を聞いてみたいと思ったのが発端です。
(…)それで2023年1月から連載を始めたんですが、その頃にはいよいよ世の中で「推し活は良いことです」という風潮が強まっていた。「推しを見すぎて目が疲れたらこの目薬」とか「推し活に適した機能を搭載した全録レコーダー!」といった広告類も増えて、消費行動と推し活を直接的につなげる動きも前面化してきていました。これはいよいよブームとして水位が上がりきったな、と連載中に感じていました。

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「オタク」「推し活」ともにずいぶんカジュアルでポジティブに使われるようになったと自分もすごく感じます。わたしは前述した2016〜2019あたりのネガティブ感が残っている時からうまくアップデートされていないので、最近のキラキラオタクや華やかな推し活ブームがメインとなった「オタク」のフィールドは、もう完全に自分の居場所ではなくなってしまったのだな……と感じます。

「アイドルが好き」なあらゆる人をひとくくりにすること

話を戻しましょう。マロ主はわたしの「オタク」の定義を聞きたいと言ってくださって、ここ何週間かずっと考えていたんですけど、個人的にはすごく難しい、よくわからない、というのが現状です。
かつてはたくさん現場に行ったら、たくさんCDを積みまくったら、とか結構わかりやすい指標があったように思うんですが、とりあえずK-POPに関しては家にいながらにしても追えるコンテンツがたくさんあります。この章の最初で前述したような、自分の時間や金銭を犠牲にしてとにかく現場に入りまくるような人もいれば暇な時間にのんびりコンテンツを見るだけの人もいます。自分のようにアイドルに不可抗力的に夢中になってしまうような人もいれば、生活に潤いをもたらしてもらうのが目的で自分から推しを見つけようとしていま応援している人もいます。みんな「アイドルが好き」という共通点はあると思うのですが、それだけで「オタク」としてひとくくりにしたり定義するのは自分の知力ではまったく不可能な気がしてきています。

令和のオタクは多様性の象徴なのか?

ただかつての、わたしがいまだに取り残されてる2016〜2019年ごろの感じと比べたら、オタク社会だけでなく一般的にも恋愛よりも推し活・趣味を大事にしてもいい!みたいな雰囲気になってきたのは人生の多様性(この『多様性』も変な使い方で擦られまくってもはや好きじゃないんですけど、便宜上使う)がようやく認められてきているみたいで、すごくいいことだと思っています。推し活ビジネスは正直くそウザいなと感じずにいられませんが、かつては後ろ指をさされがちだったオタク、推し活に焦点が当たったことで人生=恋愛・結婚ではないことをどんどん世間に示してくれているのは、とても嬉しく感じます。
 

Ⅲ. それでもなぜ自分は「オタク」だと思うのか

アイドルという他人の人生を追ってる自分に対してのキモさ

「オタク」がよくわからない、と言いつつわたしは自分のことを「オタク」と認識しており、自分をオタクたらしめるものは何か考えた時に真っ先に思い浮かぶのは「キモいところ」です。
前述したように自分のオタク像はほとんどアップデートされておらず、昔のように「オタク=好きなものに異常に執着し続けているやばい人間」みたいな負のイメージが自分の心にいまだに根強く残っています。ポジティブでラブリーでクリーンなオタク像が広告やフィクションなどでこんなに街に溢れていて、わたしの周りの人もそんな素敵なひとばかりなのにもかかわらず。
これは自分に対して思うことで同じようにアイドルが好きな他人には特に何も感じないんですが、わたしは自らの人生がままならないのを一時的にでも忘却するためにアイドルを追いかけている、そんな実感がいつからかずっと拭えずにいます。そしてこんな自分に対してキモいなと強く思っています。
ここで「オタク=好きなものに異常に執着し続けているやばい人間」のイメージと自分自身に感じる「アイドルという他人の人生を追ってる自分に対してのキモさ」がなんかうまい具合に噛み合い、「アイドルという他人の人生に異常に執着しているやばくてキモすぎるオタクの自分」という最悪の自己イメージが生まれてしまってるんですね。アイドルを人生の鎮痛剤として利用してる自分もキモいし、言ってみればアイドルなんか赤の他人でしかないのに、追いかけ続けてる自分もキモい……

「キモいオタク」の「キモさ」に安住する自分

そんな自己否定を重ねるくらいならアイドルを追うのをやめればいいのでは……とか自分に対してたまに思うんですが、なんだかんだ「キモいオタク」の「キモさ」に居心地のよさを見出してる自分もいます。自己肯定感が低いのに怠惰なので「キモい」という言葉に甘え、自己変革を行わないままだらだらと「キモさ」にぶらさがってる自覚もある。この事実が一番キモいかもしれませんね。そんなんだからお前の人生はつらいんだよと言われそうだ。はあ、人生よくなるように頑張ります。
 

Ⅳ. 華やかにラッピングされた「オタク」に抗いながら誰かのファンをやること

ここでマロを送ってくれた方の情報をおさらいしましょう。

・自分を「オタク」と呼ぶのが似合わない気がする
・推しに対して知識が豊富なわけでもない
・CDやグッズを大量に買うわけでもない
・現場"命"なわけでもない
・推しは大大好きだけど、その気持ちは誰にも負けない!と言えるほどの強さはない
・MOAでもオタクでもなく"ただTXT好きな人"でいたいという気持ちが強い

「誰かのオタク」の前に「自分」でいることの大事さ

いただいたマロは、推し活がカジュアル化してオタク人口が爆増えしたこと、そしてSNSで遠征したり、知識な豊富な人、グッズを買いまくってる人などを見かけやすくなったことによる影響があるのかなと思いました。
時は総推し活時代……と言っても過言ではないくらいの社会現象と化し、メディアは「推し活、何かのオタクであること、何かに夢中になることはとても良いことです」と煽ってきます。そんな中で「MOAでもオタクでもなく"ただTXT好きな人"でいたいという気持ちが強い」マロ主の姿勢はすごく健全で素敵だなと感じました。
自分自身アイドルにハマってからは「自分自身」であることよりも「誰かのオタク」でいることを優先していました。それをもうやめようと思って通いまくってた現場から離れてみて、現在はマイペースにTXTを眺めています。
わたしもマロ主みたいにグッズは買わないし、CDもたいして買わないし(イル活は少ない数で勝ちを掴みに行く運ゲーだと思っている)、スビンのことは好きだけど、誰にも負けない!というほどの熱量はまったくありません。オタ活特集のテレビで流れてくる人やSNSに流れてくる他のMOAちゃん、オタクを題材にしたフィクションの登場人物とはわたしもマロ主もずいぶんかけ離れているのかもしれません。でもそれでもありなんじゃないかって思います。綺麗にラッピングされた「オタク」になるよりも、自分自身のまま、自分の居心地を一番優先して好きなアイドルを好きでいるほうが健やかだし楽しいと思います。

あとこれは蛇足なんですが「私が考えたMOAちゃん♡」みたいな、例えばスビンのオタクはこういう服で、ヨンジュンのオタクはこういう髪型で…みたいなラブリーなイラストや写真が流れてくる時があって、すべて自分とあまりにもかけ離れているので、描いた人はおれのことも視界に入れてくれないか!?となる時がたまにあったりもします。ああいうイラストを見るたびに世の中の女はかわいくなければならないみたい、みたいな呪いをかけられてしまうのでそこから外れまくってる自分にけっこう落ち込むんですが、本来はわたしみたいなこんな変なオタクもいて全然いいんだよな……と思う。
というわけでみんな好きなふうに好きなアイドル応援しようね。おしまい。