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禍話リライト 忌魅恐『開かずになった自習室の話』

提供者である、鈴木さん(仮名、女性)
彼女が、某大学の院生だった頃の話。


大学院生ともなると、論文執筆の際に参照する書籍の量が膨大になる。
それらを持って大学と自宅を行き来するのも、かなりの重労働である。
それ故、ほとんどの大学でそうであるように、鈴木さんは学部から割り振られた自分の部屋、研究室に、書籍や資料を置いていた。


鈴木さんの通う大学は、学部生と院生で使用する建物が分かれていた。
院生用の棟は、表向きは夜間は閉鎖されることになっているが、実際は個々人に入り口の鍵が渡されており、二十四時間、出入りが可能となっていた。
また、名目上は休憩室となっているものの、横になるスペースやタオルケットなどが用意された仮眠室もあり、研究に没頭しがちな真面目な院生にとってはありがたい環境となっていた。

鈴木さんもまた真面目な院生だったため、それらをありがたく感じていた。
が、不満がないわけでもなかった。

この大学では、個人用の研究室にはパソコンが設置されていないため、調べ物等の際には共用のパソコンのある自習室へ行かなくてはならない。
自習室自体も決して広くはないため、あまり大量の資料を持ち込むことができない。

つまり。
必要な資料があれば、その都度、自習室と研究室を行き来しなくてはならないわけだ。

他と比べれば些細なことだ、とも言えるが。
至れり尽くせりの環境下で学問に励む鈴木さんにとって、その煩わしさが唯一の不満であった。

とはいえ。
それなりに歴史のある大学である。
まだまだIT化に対応しきれていない、と考えれば。その当時としては、仕方のないことと言えるだろう。

(……まあ、それくらいの不自由はしょうがないか)

そう思い、鈴木さんは毎日、院の研究に勤しんでいた。


──そんな、ある日のことだった。

その日。
鈴木さんは、自習室で作業をしていた。
ようやく作業が一段落つき、疲れた両目に手を当て、そして大きく伸びをした。

そうして凝り固まった身体をほぐそうと、左右に身体を捻った時。

視界に入ったことで。
今まで気がつかなかった『あること』に、初めて気づいた。


自習室の隅の壁。
そこだけが、何か違和感がある。


パーテーションで急遽、壁を作り。
そうやって仕切ってあるような。
そんな、何やら不自然な感じがする。


(……なんだろう?)
しょっちゅう利用しているが、この部屋にそんなものがあるとは今まで気づかなかった。
そこで、ちょうど一息つこうと考えていたこともあり、確認してみようと鈴木さんは部屋の隅へ近づいていった。

近くで見てみると、やはりそれは建物本来の壁ではない。仕切り、パーテーションだった。
天井や床との間にほとんど隙間がなく、ドアや窓の類もないので、その向こう側に何があるか、覗くことはできない。
動かそうとすれば、できないこともないだろうが。下手に仕切りを動かして、それが原因で後々注意を受けることになっても、それはそれで馬鹿らしい話だ。
そう思い、触れないことにした。

……ただ。
そうして仕切られている、区画の広さを考えると。
仕切りの内側には、この部屋の他のものと同様に、パソコンとデスクが、少なくとも一セットはあるのだろう。
鈴木さんは、何となくそう思った。

(なんで私、こんなこと調べてるんだろう。無駄だなあ……)

そのように感じ。
その時はそれ以上の詮索はせず、作業を終え、彼女は自習室を後にした。
「……ま、いいか」


──それからしばらくした、ある日のこと。
自習室での作業中、数個隣のパソコンを使っていた他学科の院生が困っているのを、鈴木さんは見かけた。
たまたまそれが対処できるものだったので、彼女が助けてやった。

それがきっかけで。
鈴木さんから見て一年先輩に当たる、その男子学生(仮にBとする)
彼と、休憩中に会話を交わしたり、互いにお菓子や飲み物を差し入れたり、そのくらいに仲良くなった。



──その日も、鈴木さんは自習室で作業をしていた。
数個隣の席では、Bも同じく自分の作業をしている。
その内に、この辺で一息つこうか、という空気になった。
「あ。俺、自販機行ってくるけど、何か要る?」
「あ、じゃあ……」

そうして、Bに買ってきてもらった缶ジュースを飲みながら休憩している時。
ふと、自習室の隅のパーテーションのことを思い出し、鈴木さんはBに訊いてみることにした。

「そういえば。奥のアレ、何なんですかね?」

一年先輩なのだから、もしかしたらBが何か知っているかもしれないと思ったわけだ。
鈴木さんの質問に、Bは缶コーヒーを飲みながら、冗談めかして答えた。


「……ああ、アレ。アレねぇ。
『開かず』
なんだよ」


「……『開かず』?  開かずって、何ですか?」
Bの言葉の意味がわからず、鈴木さんが再度質問する。

「……いや、ほら。『開かずの間』みたいなもんだよ、言ってみれば」
「ん? どういうことですか?」
よくわからない様子の鈴木さんに、Bは詳しいことを教えてくれた。


「……いや、そのね。大学院ってさ。社会人で来る人がいるじゃない」

「……ああ。そうですね。いらっしゃいますね」

「うん。例えば、結構いい歳になってから、子供が大学生とかになって。それで時間が出来た人が大学に来る、みたいなこともあるじゃん。そういう年代の人が、学び直し、ってことで来ることもあるわけじゃん」

「あー、ありますねえ」

「……つまり。以前、そういう人が来たんだよ。
俺も、その人と一緒の授業を何度か受けたことがあるんだけどさ。
……こう言っちゃ悪いけど。頭でっかち、って言うのかなあ。自分で『こうだ!』って決めたら、もうそこから動かない人なのよ。
教授とかまで行って地位が固まったら、それでもいいのかもしれないけど。つまり、自分の研究分野の勉強とか、情報の整理とか、全然できてないわけだよね。
まあ、そういう人が来ることって、大学って結構あるんだよねえ……」

「……まあ、そうですよねえ」
鈴木さんの、そんな言葉に対し。
Bは陰鬱な表情で頷き、話を続ける。

「……そういう人ってだ、ってさ。担当教授もわかってるわけだからさ。
修士論文くらいなら、学内で通るから。いい気持ちでサッサと卒業してもらおうって、そう思ったわけだよ。
大学はそれで一つ仕事が終わるし、本人は修士論文が通って、お互い満足してウィンウィン、みたいになるわけだけど……。
……その人、博士課程まで行こうとしたらしくてさ」

「ああ、博士となるとそうはいきませんね。博士課程だと外部の審査も入るから、いい加減な人だとあげられませんもんね」

「……そうなんだよ。
で、修士論文はそういう風に通ったんだけどね。外部の人を入れて博士課程の審査、ってなると、そうはいかなくなっちゃって。
教授が直接注意するのもアレだし、ってことでゼミの人に代わりに指摘してもらったんだけど。全然効果がなくてね。
元々『こうだ!』って決めたら、もう話を聞かない人だからさ。
論文の内容が完全に間違ってるから直してこいって、そう言われても、『言われたことを私なりに咀嚼して直してきました』とか言ってね。
『いや、自分なりに咀嚼するなよ!』って話でさ。もう、全然直ってないんだよ。
で、教授も。『これじゃ外部の人に見せられないよ』ってなって。
それで、その人。その年は卒業できなかったんだよ。論文浪人みたいな形になっちゃってね」


「……それで、その人。どんどんおかしくなっていったんだ」

フッと息を吐いてから、Bは話を続ける。


「……ほら、この自習室ってさ。どの席を使ってもいいわけじゃない?
そりゃあ、自然と毎回、同じ席を選ぶってことはあるけど。絶対にその席が自分のものだ、ってことはないわけだよ。時期によって、使う人が増えたり入れ替わったり、ってのもあるし。

……だけど、その人。一つの席を完全に占領しちゃってね。
ここってさ、スペースが狭いから、あんまり資料とか持ち込めないじゃない?

なのに、その人。
一つの席に陣取って、大量の資料を持ち込んで、そのパソコンに勝手に付箋まで貼るようになっちゃってね。

……俺も、一度気になってさ。
その付箋に何を書いてんだろうって、そう思って、見てみたんだよ。
本人は、一生懸命やってたんだろうけどさ。
申し訳ないけど、付箋に書いてある中身を見る限りはさ。
『論文書いてるごっこ』みたいなもんだったよ。全然できてないんだよ。ハッキリ言って、ね。

……で、さ。
ある時から『論文書いてるごっこ』じゃなくなっちゃったんだよ。
自分が論文を書けないのは自分のせいじゃない。って。その人、そんな考えになっちゃったんだ。
その頃になると、確か後は論文だけ提出して、っていう感じだったのかな。
だから、例えば前期は休学して後期だけ出席して……、って。
そういう感じでもよかったんだ。

……でも、結局。審査は通らなくて。二年目とかになっちゃって。

それで、その人。精神がおかしくなっちゃったんだろうね。
その頃の俺たちもさ。ちょっとふざけてたけど、その人のことを『お姉さん』って呼んでてね。『あのお姉さん、なかなか卒業できないねえ』って、そんな風に話してたんだ」

神妙な面持ちで話を聞いている鈴木さんに向け、さらにBは話を続ける。

「……例えば、さ?
極端な話、論文を出さないまま一旦卒業、ってのも。まあ一応、できるわけじゃん。
そうしたら、何年か経ってから、いくらか払って博士課程の論文だけ審査してもらって、ってのもできるわけじゃん。
……でも、それはできなかったんだろうね。たぶん、周囲に『私はできる!』って。そう言ってたんだろうね」

長年、大学にいる自分と、その女性を重ね合わせたのかもしれない。
Bは自嘲するような表情を浮かべ、間を置いて語り始める。


「……ある時。俺、またそのパソコンに貼られた付箋を見てみたんだよ。
それまでは、例えば『あの本の何ページまで読んだ』みたいなことを書いてたんだけど……。


『誰かが自分が保存した後に、論文を勝手にいじってる』


……みたいなことを書いてたんだよ。
そんなの、映画に出てくる凄腕のハッカーみたいなやつしか、できないでしょ? USBとかあるんだから、毎回、書いたものを自宅に持ち帰ってるわけだし。
『私の論文が盗用されてる、盗用しようとしてる連中がいる』とか、確かそんな風に書いてあったかな。

(うわぁ……)
って、それ見て、そう思ってさ。

その内に、その人、ね。
自分の研究室の扉にも、
『同じ研究分野の◯◯さんと●●さんが私の論文を盗んで使ったことはわかってます』
とか、書いて貼り出すようになっちゃってさ。

……ぶっちゃけ、俺も、長く大学にいるからさ?
世間には、そんな論文とかを盗用をする人がいる、ってのは知ってるけど。
でも、そんな風に貼り出したりしてアピールし始めるのは、初めてだったから。どうするのかなあ、って思ってたんだけど、ねえ……」


そこまで言って、Bが黙り込んでしまった。
当然、その後が気になったため、鈴木さんは話の先を促す。

「……え。それで、どうなったんですか?」

「……まあ、ね。『あそこまでする』ってことは。だいたい、何となく、わかるでしょ?」

そこでBはチラリと、例のパーテーションの方へ、嫌そうに目を向けた。
それから缶コーヒーを少し飲み、一呼吸おいてから口を開いた。


「……亡くなったんだよ」


「……え、亡くなったんですか?」

「……うん。そういう状況だから。結局、何日も泊まって論文を書くようなことになってね。その結果、そこの『開かず』になってるところで、机に突っ伏して亡くなってた、っていうか……」

「ええ……」

「ほら、変な栄養ドリンクとかあるじゃん? ああいうのを、バンバン飲んでてさ……」


──現代でも。エナジードリンクを日常的に飲んでいた人がカフェイン中毒により死亡した事例。それらは多く報告されている。
カフェインとアルコールの同時接種、それが危険なことは今ではよく知られているが、かつては缶酎ハイ並のアルコールが含まれた栄養ドリンクも市販されていた。
そうしたものを、普段から飲み慣れていない人が。
それも心身共に疲弊した状態で、大量に飲めば……。


「……で、まあ。あそこで机に突っ伏す感じで亡くなってて。学生側も気分悪いし、かと言って大学側もどうしようもないし、だからあんな感じにしてるんだよ」
「そうなんですか……」

そこまで話を聞き、話の流れで何となく鈴木さんは質問をした。
「……ちなみに。その人って、専攻は何だったんですか?」


Bからの答えを聞き、
(訊くんじゃなかった……)
と、彼女は心底後悔した。


亡くなったその女性の専攻は、鈴木さんと同じ分野だったのだ。


鈴木さんの顔色が変わったのを見て、心中を察したのだろう。Bが慌ててフォローを入れる。
「あ……。いや、まあ、気にすることはないよ。ちょっと前の話だし」
「ああ、はい……」
その日はもう作業する気になれず、鈴木さんは早々に大学から引き上げた。


──それから数日後の夜のこと。
例によって鈴木さんは自習室で、遅くまで作業をしていた。
ただ、この日はBはおらず、室内には彼女一人だけだった。
すると……。


『はあああぁぁぁ〜……』


「……⁉︎」
突然、ため息のような声が聞こえてきた。


周囲を見回すが、室内には自分以外、誰もいない。
(きっと、空調の音の聞き間違いだよね……)
そう考えようとするのだが、先日Bから聞かされた話を思い出してしまい、何だか怖くなってきてしまった。
しょうがない。ということで、警備員に見つかると小言を言われるのだが、室内の使っていないスペースまで全部の電灯を点けておくことにした。
しかし……。


『はあああぁぁぁ〜……』


(……また聞こえた!)
思わず、ビクッとしてしまった。
だが、そのため息のような音は、定期的に、一定間隔で聞こえてくることに彼女は気づいた。
ということは、やはり空調の音がそんな風に聞こえるだけ、なのかもしれない。
(きっとそうだよね……)


鈴木さんはそう考えることにしたのだが。
後になって考えてみれば、それが異変の始まりだったのだという。


──異変は、彼女の自宅でも起き始めた。
鈴木さんは、実家から大学へと通っていた。
忙しい院の生活の中、実家の自室でぐっすり眠るのが何よりの癒しだったのだが、何故か急によく眠れないようになってしまった。
思い当たる節がなく、最初の内はストレスか何かのせいだろうかと思っていたのだが、ある朝、ようやくその理由が判明した。
その日、目覚めた瞬間、夢の内容を覚えていたことからわかったのだが、彼女は毎晩、悪夢にうなされていたのだ。


──夢の中。
彼女は、大学院の建物の中を、何者かに追われ、逃げ回っていた。
追われているのだから走ればいいのだが、何故か彼女は歩いて逃げようとしている。
そうして逃げながら、
「やめてくださいよ、やめてくださいよ」
そんな風に懇願していた。

背後からは、何者かが、
『はあああぁぁぁ〜……』
と、そんな声と共に追ってくる。

三階建ての棟内を逃げ回る内、階段を降りて一階へ来た。
一階には出入り口が複数ある。
建物内にいるのだから普通に鍵を開けられるし、そもそも先述したように鍵を渡されているのだから、普通にそこから出られるはずだ。

なのに、夢の中の彼女は外に出ようとしない。
出入り口の前を通りかかり、何度も脱出する機会があった。
なのに、その前を素通りしていく。

そうして時折、
「やめてくださいよ、やめてくださいよ」
と、背後に向かって懇願している。

そして背後からは定期的に、
『はあああぁぁぁ〜……』
という声が聞こえてくる……。

鈴木さんが覚えているのは、そんな内容の夢だった。
(何だろう、気持ち悪い。それに、あの声って、自習室で聞こえた空調の音じゃん……)


毎夜うなされ、寝不足であることから来る体調不良と、夢の内容の気持ち悪さ。
それらでフラフラになりながらも、鈴木さんはその日も大学へ行った。

作業のため自習室へ向かうと、途中でBと鉢合わせた。
彼はちょうど自分の作業が一段落して、一旦休憩に出たところだったらしい。
「あ、お疲れー。……って、大丈夫⁉︎」
「……え、何がですか?」
「いや、目の下、すごいクマになってるよ。大丈夫?」
「あー、最近変な夢見てるせいですかねえ」
「えー、ダメだよ? 俺みたいなやつが言うのも何だけど、院が全てじゃないんだから。趣味とか、他の選択肢とか、待っといた方がいいよ?」
「ああ、はい……」

そこでフッと思い出し、鈴木さんは自習室の空調について、Bに訊ねてみた。
「……ところで。この部屋の空調、なんかおかしくないですか?」
「……え、空調? 何が?」
「いや、なんか。ため息みたいな音が聞こえません?」
「……ため息⁉︎ ……いや、そんな音しないけど、怖いこと言うなあ……」
Bのその反応が妙に感じられ、どうにも気になったため、鈴木さんはもっと突っ込んで訊いてみることにした。
「……え? 怖いことって、なんですか?」
その問いに表情を曇らせ、Bが答える。


「……いや、前は話してなかったんだけどさ。
ほら、例の女の人。その人、ため息をつくクセがあったんだ。
最後の方はもう、他人にわざと聞かせるような感じでずっとため息をついててさ。
だから、みんな怖がって、自習室を使わなくなっちゃったんだよ。
それを思い出しちゃってさ……」


嫌な話を聞かされ、鈴木さんはゾッとした。


「……じゃ、お疲れ」
「あ、お疲れ様です……」
それからしばらくして、Bは引き上げてしまい、鈴木さんは一人、自習室で作業を開始した。


──だが。
それから十分もしない内に、突然、猛烈な眠気が襲いかかってきた。
(どうしたんだろう、やっぱり寝不足なのかな?)
そのままパソコンの前でうつらうつらし始めたため、何とか意識を覚醒させようとする。
(あー、ダメだ。ここで眠っちゃ。寝るんなら仮眠室に行かなきゃ……)
しかし、その努力も虚しく、鈴木さんはそのまま眠りに落ちてしまったのだった。


──そして鈴木さんは夢を見た。

気がつくと、どこか暗い部屋にいた。
鈴木さんは、床にへたり込むように座っていた。

その目の前に、誰かが立っている。
その相手へ、
「やめてくださいよ、やめてくださいよ」
と、彼女は繰り返し懇願していた。

目の前に立つ誰かは、手に刃物を持っていた。
それを振りかざし、鈴木さんに切りつけようとする。

だが、その動きは、異様なほどに緩慢だった。
さほど大きな刃物ではないのに。
それが、とても大きくて重いものであるかのように。
ゆっくりと持ち上げ、そして振り下ろす。

何となく、やる気のない感じの動きなのだが。
しかし、刃物を振り回していることには違いない。
「やめてくださいよ、やめてくださいよ」
鈴木さんは、両腕で顔を庇いながら懇願し続ける。
しかし相手は、
『うああぁ〜……』
と、不機嫌そうに唸りながら刃物を振り続ける。


……奇妙なことに。
現実世界では、そんな季節ではないのに。
夢の中の鈴木さんは、冬物の厚手のコートを着ていた。

そのおかげで、刃物が身体や腕を掠めても、コートの表面が傷つくくらいで、怪我をするまでには至らない。
だが、コートから出ている手はそうはいかない。
ゆっくり振り下ろされる刃が、時折り、手の甲や掌を掠める。
そしてとうとう手を切りつけられ、怪我をしてしまった。傷口から、血が滲む。
「……イタッ! やめてくださいよ! シャレにならないじゃないですか!」
そう叫び、鈴木さんは相手を睨みつける。
が、そんな彼女に対し、相手はよくわからないことを言う。


『本気で振り回してるわけじゃないんだから、そんな命に直結するようなことになるわけないじゃない』


本気であろうがなかろうが、刃物なのだから当たりどころが悪ければ命に関わる事態になりかねない。無茶苦茶な言い分である。


「やめてくださいよ、やめてくださいよ。なんでなんですか」

『そっちが認めないからいけないんでしょ』


鈴木さんの言葉に聞く耳を持たず、相手は刃物を振り回し続ける。
相手が同じような軌道で刃物を振り続け、鈴木さんも同じような防御姿勢を取り続ける。
そのため、刃は何度も同じ場所を掠めることになる。
その内に、何度も刃が当たったことで、ついに鈴木さんの手から血が流れ始めた。

「イタッ! 血が出てるじゃないですか! もうやめてくださいよ!」


その時。
何故か急に、
(……この人は何を振り回してるんだろう?)
という疑問が、ふと頭に浮かんだ。


見てみると、相手が持っているのはペーパーナイフである。

(え⁉︎ なんで、ペーパーナイフ⁉︎)


そこで相手の凶器に疑問を抱いたからだろうか。少しだけ冷静になり、相手や周囲を観察する余裕が鈴木さんの内に生じた。
ペーパーナイフを手に襲いかかってきているのは、全く見覚えのない女性だった。
歳の頃は四、五十代くらいだろうか。

そして、鈴木さんと中年女性の周りには、パソコンを置いたデスクがたくさん並んでいた。
どうやら、ここは自習室らしい。
つまり、大学の建物の中で、相手はこのような凶行に及んでいるわけだ。

「ちょっと! こんな公共の場所で何やってるんですか! 大声出しますよ! 人呼びますよ!」

鈴木さんがそう叫んだが、相手はそれを気にする様子もない。

『いや、もうそんなこと、どうでもいいから〜……』

そうして再び、ペーパーナイフを振り下ろす。
今度はかなり深く切りつけられてしまい、鈴木さんの手に開いた傷口からポタポタと血が滴り落ちた。

「イタッ! ちょっと! もうこれ、完全に事件ですよ! 私もう、警察呼びますからね!」

傍らにあった自分の鞄に手を伸ばし、携帯電話を取り出そうとして警察へ連絡しようとした。
しかし、やはり女は気にする様子もない。


『……そっちが認めないからいけないんでしょ』

そう呟きながら。
ペーパーナイフを片手に、鈴木さんを見下ろしている。

『……そっちが認めないからいけないんでしょ』

そうして。
女が、またナイフを振りかざした。
その動きが、今までと違った。
そこから振り下ろすと、確実にナイフが顔面に突き刺さる。
そういう動作だ。

「えっ、ちょっと⁉︎ やめてくださいよ!」

『……そっちが、認めないからでしょうがッ!』

女が、ナイフを振り下ろす。

「……ウワアッ!」



──そこで、夢から目覚めた。
目覚めてすぐ、鈴木さんは自分がどこか狭くて暗い場所にいることに気づいた。

(えっ、あれっ⁉︎ 自習室にいたはずなのに……)

周囲をよく見てみると、確かに彼女の目の前には、パソコンがある。しかし、たった一台だけしか置かれていない。
次の瞬間、彼女は理解した。


自分は今、パーテーションで仕切られた、開かずの間。
その内側にいる。


後で知ったのだが、自習室のあのパーテーションには、ちゃんと入り口があったそうだ。
もっとも、施錠はされていなかったらしいのだが。

鈴木さんは、そのパーテーションの中に置かれたデスクを前にして、椅子に座っていた。

時間が経つにつれて頭がハッキリしてきて、周囲の状況を見る余裕が生まれた。


そうして周囲を見ると。
目の前、デスクの上のパソコン。
そこに、付箋が何枚も貼り付けられていることに気づいた。


それは、鈴木さんが普段使っている。
参考書等に貼る用の付箋だった。


(えっ、私の付箋⁉︎ なんで⁉︎)
よく見れば、付箋には何か書き込まれている。
反射的に、彼女はそれを読もうと顔を近づけた。


『覗き込んで盗用したことを認めますか、認めませんか』


付箋には、そう書かれていた。
それも、鈴木さん自身の字で。


「……ウワッ!」
思わず、モニターから付箋をむしり取り。
鈴木さんは、そのまま無我夢中で外へと飛び出した。


ちょうどそのタイミングで戻ってきたらしい。
自習室の外に飛び出した鈴木さんは、Bと鉢合わせした。
「……ウワッ! ビックリした!  ……って。えっ、ちょっと! どうしたの⁉︎」
「……えっ? あっ、あの、その。気づいたら奥にいて、奥が、実は、鍵がかかってなくて……」
パニック状態でしどろもどろになりながらも、何があったのか必死に伝えようとする鈴木さん。
だが……。

「……いや、そうじゃなくて! 手の、そこ!」
「……えっ?」

Bが指差すところを見てみると、鈴木さんの手はパックリと傷が開き、血で真っ赤に濡れていた。
それは、夢の中で女に切りつけられた場所だった。


……同時に、あることに気づいた。

夢の中で、女が持っていたペーパーナイフ。
それは、鈴木さん自身の私物だった。

しかし、そのペーパーナイフは大学では使うことがないため、普段は実家の自室に置いてあるはずのものである。

(なんで、あの女が私のペーパーナイフを……?)

そのように疑問に思う、鈴木さんの視界の隅。
投げ出された彼女の鞄の中に、キラリと光るものが見えた。


それは、自室に置いてあるはずの、あのペーパーナイフだった。


「えっ、ちょっと! それ、どこで切っちゃったの⁉︎ これ、病院行かないとマズいやつだよ!」
幸い、大学近くには病院があった。
いつの間にか、かなり時間が過ぎていたが、Bに付き添われて緊急外来へ駆け込んですぐに手当てをしてもらったおかげで、鈴木さんの怪我はまもなく治ったそうだ。


病院で治療してもらった後。
落ち着いてから、鈴木さんはBに自習室で何が起きたのかを語って聞かせた。

「そんなことがあったのか、シャレになんねえな……」
話を聞いて、みるみるBの顔が青ざめていく。

「……俺、大学に長くいるからさ。教授とかでも、知ってる人が多いし。ちょっと話してみるわ……」


──後日。鈴木さんの話を聞いたBが、教授たちに掛け合ってくれたらしい。

そのおかげなのだろう。
自習室のパーテーションで仕切られた一角。
その入り口は施錠され、完全に封鎖されることになった。
自習室の一角、ということを考えると、どう考えても不釣り合いな、ひどく頑丈な鍵が掛けられていたらしい。

また、その大学では『特定の分野』を研究する院生に対し、問題の自習室の使用を避け、別の棟のパソコン室や自習室を使用するよう通告があった、とのことである。


──この体験以後、鈴木さんの周囲で変な出来事は起きていない、ということだが。
現場となった大学が、建物の改装工事等を行なっていない限り。
未だにその自習室には、厳重に封鎖され『開かずの間』のようになった一角が存在しているのかもしれない。



──なお。
この話を収集した、某大学のオカルトサークル。
彼らの遺した冊子には、ほとんどの場合。東日本か西日本か。どの地方か、どの県なのか。そうした情報が記されているのだが、この話に関しては、一切が伏せられているのだそうだ。


……もしかすると。
この話は、彼らの近くで。
つまり、オカルトサークルの身近で起きたことなのではないだろうか?
例えば、同じ地域、県。あるいは、同じ大学で……。


──何にせよ。
今となっては、確かめようのないことである。


(※オカルトサークルについては『忌魅恐序章』を参照してください)


この話はかぁなっきさんによるツイキャス『禍話』 『年越し禍話 忌魅恐 vs 怪談手帖 紅白禍合戦』(2020年12月31日)

から一部を抜粋、再構成、文章化したものです。(0:37:00くらいから)
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見出しの画像はこちらから使用させていただきました

禍話リライト 忌魅恐『開かずになった自習室の話』

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