禍話リライト 怪談手帖『ルドンの沼の花』

十年ほど前。Aさんが四十代の頃の、ある夏の話だという。


厄介な大きな仕事が片付いて、週の終わり、彼は久しぶりに図書館へと赴いた。
鮮やかな印刷でピカピカに光る新刊や幾つかの雑誌を漁った後、のびのびとした気持ちが高じて、普段赴かない『美術』の棚へ足を運んだ。

「……あのぅ、取引相手が西洋の画家が好きって話してたんですよ。
で、その人の話し方が上手くって。なんかすごく魅力的だったんで……」

背表紙を眺めながら無作為に選んだ大盤の画集で、知らない画家の絵を眺めるのはなかなか面白かった。
美術史に明るくないのも、かえって新鮮な驚きや発見があってプラスに働いたという。
その内にAさんは、ある一人の画家の名前に興味を惹かれ、本を手にとった。


「いや、下らないキッカケなんですよ。その背表紙にあった……。

『ルドン』

……って名前がね? 学生時代にビデオ屋でよく借りてた昔の特撮とか、怪獣映画っぽいな、って。そんな程度の理由で」


「でも……」


無作為にページを開いて、最初は専ら鮮やかな色彩が雨靄の如く滲む絵画群を追っていたが、どうやらそれはある程度歳をとってからの作品だったようで、遡っていくと白黒やセピアで構成された絵ばかりが現れて来た。


骸骨じみた森の精。
樹の上で振り返る怪物。
泣き腫らす蜘蛛。
歯を見せる一つ目の巨人。
吊り下げられた頭部。
目玉のような気球。


Aさんは何となくそちらの方に強く惹かれるような気がして、次から次へとページをめくった。
しかし画面を支配する黒のトーンを眺めている内、妙な気分になって来たのだという。

「何、と言えばいいんでしょうか? ある種の『痒み』のような。すごく惹かれるんですけど、だんだん強迫的な感じが伴ってくる、というか」

何かまずいのではないかと感じたが、絵に引き込まれるまま、ページを繰る手が止まらない。
それこそ、掻きむしってはダメだとわかっていても腫れ物に指先が伸びてしまうように……。
自分でも正体のわからない焦燥感に駆られた手の動きは、ある一群の絵をまとめたページに至って、ふと止まった。


それらは、人の顔のついた花や植物のようなものを描いた作品だった。
リトグラフの静謐な闇に刻みつけられた、目、鼻、口のある草花。
生物と人工物の合いの子じみた異様な姿……。


その内の一枚。
『沼の花』と題された、奇妙にのっぺりと白い顔を描いた絵に両目が吸いつけられ、動悸が激しくなるのをAさんは感じた。
煤けたような壁の一角が映像として脳裏にフラッシュバックする。


「……小学校の頃。放課後によく、出かけてた公民館があって。
その隅に設けられた小さな、……ギャラリー? に貼られてた絵でした。記憶の中ではもっと画質が悪くて不鮮明だったけど、間違いなかった……」


いつの間にかビッシリと汗をかいていて、クーラーの風で冷やされたシャツが背に貼りついて気持ちが悪かった。


「……思い出してしまったんです、その時。
『幽霊の絵だ、幽霊の絵だ!』って、隣の友達が繰り返し言っていた声と、自分が『違うよ、花の絵だよ! これは花の絵だよ!』ってムキになって言い返してたことと……」


「その後、自分が一人で『沼』に行ったこと……」


「……沼?」
思わず鸚鵡返しに呟いた僕(怪談手帖の収集者、余寒さん)へ、
Aさんは、
「そうです、『沼』です」
と頷いた。

Aさんと友達が言い合いをしていると、それを聞きつけたのだろうか、廊下の奥から外国人の男性がやって来た。
「ああ、そこの公民館では、外国語の結構本格的な講座をやっていたんで、その関係者だったと思うんですが……」
黒い服を着て髭の目立つその男性が、薄暗い公民館の光の加減か、異様に白い、それも灰色の混じった白い肌に見えたのを覚えているという。
彼はボソボソと口数少なめに、概ね以下のようなことを言ってAさんたちを仲裁した。


「……『幽霊』か『花』か、どちらかで争うのは適当ではない。何故と言って、どちらも正解だし、どちらも誤りであるからだ」


「……いやあ、それがね? まるで自分がその絵を描いたかのような口ぶりで言うんですよ」
絵の横にはキチンと製作年数が書いてあって、それは百年以上も前だったから、流石に子供でも嘘か冗談だとわかったそうだが、どうもその外国人が怖かったので黙っていた。
彼はボソボソと続けて呟いた。


「……どちらでもあって、どちらでもない。そういうものは、世の中に珍しくない。
……だから、この町の『沼』でも、簡単に見られるだろう」

「……その言葉に従ったのか、それとも単にその人から逃げようとしたのか。それは覚えてませんが、すぐに公民館を出ました」



そして結局、その後。
『沼』へ行ってしまったのだと。
Aさんは言った。


『沼』へ行って、それで……。
『そのこと』を二度と思い出さないように努めていた……。



……徐々に蘇ってきた少年期の記憶に眩暈を覚えながら、四十代当時の彼は書架の陰で画集を閉じた。
本を棚に戻し、足早に図書館を出る。
鮮やかな青い夏空の下。そのままかつての故郷、小学校の頃に一家で住んでいた、その町へと向かったのだという。

「……それなりの距離はあったんですけど、ちょうど明日も日曜日だったんで。まあ、都合が良かったというか」

電車に揺られながらAさんは、自分はあの時、『沼』で何を見たのかと考えていた。
記憶は霞がかっていて肝心の部分がよく思い出せず、脳裏にはただボンヤリと『沼』の風景が浮かぶ。

荒れ果てたお寺の伽藍と、全体を押し包むようなほとんど黒に印象の近い陰鬱な緑。
その中の、大きくへこんだように深い、窪地……。

「……ああ。『沼』って言ってもね? 水はないんです。干上がったのか最初からなかったのか知りませんが」

通称のように『沼』と言われていた。
あるいは、昔の地名にそういう字が入っていただけだったのかもしれない。
『沼』は鬱蒼とした木々に包まれて昼なお暗く、高低差もあって足を滑らせると危ない。
実際にかつてそこで子供が転んで亡くなる事故があったとかで、普段行くことは戒められていた。
といって、別段何か面白いところがあるでもないから、そもそも最初から誰も行かない場所だったという。
小学校の頃。既に寺は住職もおらず、荒れ果てていたことを考えても、今はそっくり無くなって様変わりしていてもおかしくない。開発されていたり、全く別の建物が建っていたり……。

(……まあ、他愛のないトラウマを克服するために行くのなら、すっかり変わってるくらいがいいじゃないか)
と、彼は考えた。



「……今思うと、そう思いたかっただけかもしれません」



気づけば目的地で、彼はホームへ降りていた。
いつの間にか日が陰っていたらしく、空の青は褪せて、一面雲が覆っている。
傘を持ってこなかったことを気にしつつ、懐かしい駅名を見やりながら改札をくぐった彼は、驚いた。

「……記憶のままだったんです」

駅からの光景の全てが、曇り空のせいで、灰色がかってどこか澱んで見える。
その色調も含めて、もっとギャップを感じるかと思っていたのに、三十年程度ではこんなものなのだろうか。
奇妙な感覚が胸の中に育つのを感じつつ、彼は駅を出た。
記憶に従い、『沼』の方角へと歩いていく。
すると……。


「いや、それが……。全く、迷わないんですよ。
記憶とのズレが、無さすぎて……」


辿っていく道も当時のままだった。
途中で当時の通学路と行き当たるのだが、その辻に出くわすタイミングすらも、幼少期の印象の通り。
十歳やそこらだった当時からすれば身体も大きくなり、歩幅も変わっているはずなのに……。

迷ってしまって右往左往するよりマシだと自分に言い聞かせながら、彼は先程生じた感情が不安となり、歩を進める毎に胸の中で育っていくのを感じていた……。

「……トラウマの場所に行くんだから、不安になるのも当たり前なんだけど……。何か、そういう類の不安じゃない気もしてました……」

それでいて、引き返そうという気には一切ならず、むしろ足取りはどんどん早くなっていた。
痒みに駆られて、あの画集のページを繰っていた時のように……。

繁華街から離れ、ひたすら寂しい方向へと道を進んでいく。
目に映る色彩が減って空と同じく灰色がかったものが増える。人通りがどんどんなくなっていくのも、記憶の通りだ。
沸き立つ不安はやがて心の臓へと移り、次第に動悸すら起こってきた。


やがて、空き地や廃屋だらけの道の半ば、古いモノクローム写真じみた光景の中で、Aさんは廃寺の入口とそこから伸びる石段とに向き合っていた。

寺は、なくなっていなかった。

「……ああ。頭がクラクラしましたよ、さすがに」

彼曰く。
ところどころが割れて、亀裂から枯れた草が伸びている石段の、そのひび割れや、草の細かい様子すら。
あの日、あの時のままだったというのだ。

「いや、ねえ。そこまでいくと。何でしたっけ? そう、あの、ほら。デジャビュ?
流石にああいうものが混じってるんじゃないか、って。
……いや。でも、結局それも、言い訳だな……」

眩暈がちな自分を何とか励ましつつ、一歩ずつ石段を登っていく。
(……そうだ。あの日も、全くこんな風に階段を上がっていったんだ。違っているのは、大人になった自分の脚だけだ)
Aさんはボンヤリ考えた。


ひび割れた灰色の石段を登り切ると、主人のない廃寺が目の前に現れた。
屋根の瓦が半分ほど落ちて、禿げた地が見えている伽藍。
薄黒い葉陰から覗く縁側の、所々白く腐った色。
大きく外れかけた障子戸の、傾いたその角度。
手水に溜まった真っ黒い濁り水に蚊が飛び交っている、その数や音。

やはり、全てが同じだった。
全てが当時の記憶のまま、何も変わっていない。
それが意味するところは……。

「……あああぁぁぁ」
と。Aさんは我知らず、溜息を漏らしていた。



「……その時。
(……ダメだ)
って、思いました。
まあ、何がダメなのか、自分でもわからなかったんだけど」



早鐘を打つ心臓を抱え、囚人か何かのような足取りで木々の閉ざす奥へと向かう。
曇天であってもまだ日は暮れていないのに、陽光が遮られ、ひどく薄暗い。
ゆっくりと雑草だらけの土を踏み、崩れた白い石垣のようなものを乗り越えて、分厚く茂った黒い木々の間に踏み入り……。

「あの日の自分の、一挙手一投足をなぞってる。追体験してるんだ、って。それを、嫌というほど自覚して。それで……」

さらに何歩か進んだ先で、地面が急に傾斜して落ち込んでいる。
そこが窪地になっている。



『沼』



「ああ。『沼』だ……」
どこから声に出しているのか、自分では気づかない内に呟いていた。
『沼の花』と。


……そうだ。
何から何まで。
何から何まで、そのまんまだったんだ。
だから。
『アレ』も……。



黒い木々に囲まれ、薄闇が粘質の液体のように澱む、狭い窪地のへこみ。
その端に、白いものが見えている。


子供だと思った。
少し灰がかった、白い子供。
真横を向いて、そこに立っているように見えた。


過去の、今のAさんが。
二人のAさんが。
それを見つめている。
沼の縁に足をかけて、金縛りに合ったようにジッと見つめている。


数秒間か、数分間か。
そのままでいた後、ボヤけた脳裏に辛うじて考えが浮かんだ。

(ああ、声をかけなきゃ……)

ほとんど自失のまま、ゆっくりと、縁から、歩いていく。
そうしながら、

「あのぅ……」

喉から声を絞り出そうとしたところで。
過去の記憶の中のAさんも。
今そうしているAさんも。
同時に気がついた。



……『アレ』は、違う。あの子供は、違う。



子供の身体に見えていた、頭から下は。
一本の細長い棒のような、ひどく単純な何かだった。
棒や杭の先に小さい顔が乗っているような、そんな形のものが、何故か横を向いた子供のように見えていたのだ。


「……ウワッ!」
と声を上げ、しかしAさんの足は止まらない。

(……これは何かの間違いだ! 目の錯覚だ!)

心の中で叫びながら、得体の知れぬ強迫観念に駆られて震える歩を進める。

近づいていくにつれ、それの細かいところまでが見えるようになり、あと数歩のところで、ようやくAさんの足は止まった。



……それは、幽霊や幻の類ではなかった。
確かに現実の物体として、そこに存在していた。
生えているのか、刺さっているのか。捻れたボロボロの、朽ち果てた木のようなものが地面から突き出している。
その一面に、真っ白い菌類や苔や、そういうものがビッシリと蔓延っていて、さらにその上に白い花らしき植物が重なり合い、何かの動物の毛の塊のようなものが被さって、それら全てが複雑な皺と襞の模様を作っている。
それが、茶色がかったバサバサの髪をしてのっぺりとした顔に低い鼻、黒い目と口をした男の子の顔みたいになっている、『だけ』だった。


偶然そういう風に見えている。それだけだった。
惚けたように口を開けて固まっていたAさんは、ややあって乾いた笑いを漏らした。
そのまま戯けるように、
「……ハハ、ハハハハ、ハハ」
わざとらしい声を捻り出す。
やっぱり目の錯覚だったと思った。
あるいは、誰かがそう見えるように、わざとそういう形に作った。そう、悪趣味な作品みたいな何かだ、と。
「……バカみたいですよね。あの日も、どうやら全く同じ思い込みをして、それで……」
無理やり笑い声を上げているAさんの後ろから、
ぶぅん……
と音を立てて、黒い蝿が一匹、飛んできた。
そして、『それ』の手前から向こう側へと、円を描くように飛んだ。



その時、Aさんは見てしまった。
子供の目に当たる部分が、それを追いかけて。
そしてその下にある口のような部分が、パクパクと動くのを。
Aさんは見てしまった。



「……ウゥッ!」
喉が締まり、息が詰まって、見つめる視界が凍りつく。
その凍りついた時間の中で、子供の顔は飛び去る蠅を見送った後、グルリとAさんの方を向いた。


……そして、皺をビッシリと深めて、笑った。


笑っているのに、何の感情も、意味すらも窺えない。
花びらが開くのを、映像編集で早回しにしたような動作だったという。

その瞬間まで含めて、かつて全く同じものを見ていたことを、Aさんは思い出していた。

「……何か叫ぼうとしたけど、ダメでしたよ。もう、息が切れるだけで」


声も出せないまま、Aさんは『沼』から、黒い森と寺の風景の中から逃げ出した。
やはり、あの日と全く同じ挙動をなぞって……。


「……まあ、出来れば、ねぇ。
そこから、記憶が曖昧になるとか、家に帰るまで意識が飛んでた、とか。いっそ、そうなってて欲しかったんですが……」
そう都合良くはいかなかった。
頭の中はグチャグチャになっていたが、意識はずっとハッキリしたまま、Aさんは駅へと走っていった。
結局、悪夢のような体験は、全てが現実と地続きだったのだ。
「廃寺のある通りから、行きと別の道に出て。で、灰色の道の町並みを視界に映しながら……」


……その途中で、公民館のある道を通った。


一瞬、視界の隅に映った建物は、やはりというか、当時のままの外観だった。
「公民館があることに気づいた時は、もうそっちを見ないようにして、また無我夢中で駆け抜けました」

何となく。
あの公民館のギャラリーも、絵も、やっぱりあの日のままで。
そして、そんなはずはないのだけど。
あの外国人が、全く同じ姿のまま、中から出てくる気がしてゾッとしたからだという。


「……あの灰色の町は、今でもたぶん、ずっと同じ景色のままで存在していると思います」
Aさんは結局手をつけなかったコーヒーの、真っ黒い水面を見つめながら言った。
「……だから。あの、廃寺と、『沼』も、その中の『アレ』も。あの日から、今この時まで。これからも、ずっと……」


……そこまでを言い終えてから、ややあって、Aさんは顔を上げた。
そして、こう言った。


「……当時の私は、小学校で酷いイジメにあっていて。友達なんて一人もいなかったことを思い出したのは、帰り着いてからでした」


「……えっ⁉︎」
思わず目を見張った僕にAさんは、
「その年齢の頃の記憶が朧げというか飛び飛びであったことも、元はそのせいだったみたいで……」
と言った。
「年の終わりに、その町から引っ越して転校したんです。
だから、思い返してみると。私の小学校時代の思い出のほとんどは、越した先の学校での、短い期間のものでした……」

それでは、公民館のギャラリーで一緒に絵を見ていたのは。
『これは幽霊の絵だ、幽霊の絵だ!』と主張した友達は……。

「……ええ。だから、誰だったのか、わからないんです。
いやまあ、友達っていうのが勘違いで、たまたまそこにいた子供と口論したとか、そういうことだと思いますよ? 普通に考えれば……。
……でも。そういえば、その子。茶色い髪の毛をしていた気がするんですよね……」


記憶の中で隣に立っていたその子の顔を、Aさんはなるべく思い出さないようにしているのだという。




この話はかぁなっきさんによるツイキャス『禍話』 『禍話アンリミテッド 第十三夜』(2023年4月8日)


から一部を抜粋、再構成、文章化したものです。(0:50:00くらいから)
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禍話リライト 怪談手帖『ルドンの沼の花』

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