禍話リライト 怪談手帖『天狗のこと』

『……天狗と申すは人にて人ならず、鳥にて鳥ならず、狗にて狗にもあらず、足手は人、かしらは狗、左右に羽生えて飛び歩くるものなり』

『平家物語 巻十』より



「……俺、天狗を見たことがあるんだよ」

薄く紫煙を立ち上らせる煙草を指の間に挟みながら、ふざけている様子もなくAさんは淡々とそう言った。


「……そのせいで死生観、というか。

『幽霊観』

……っていうの? 変わっちゃってさあ……」

何ということのない雑談の場で話題が途切れ、しばらく沈黙が続いた頃合いだった。

ふと、
「幽霊って信じるか?」
と訊かれたので、面食らいながらも、
「自分自身にそういう体験はないが、とても興味深く思う」
と正直に答えた。
趣味でおばけや妖怪の話を集めているんです、とも。


そこへ『天狗を見た』である。


「……天狗、ですか」
そのように思わず訊き返すと、彼はうんと頷いて、


「天狗の踊り。っていうか、舞い。っていうのかなあ……。うん。若い頃に、山で……」


そんな風に言う。
僕が黙っていると、Aさんは気にした様子もなくそのまま話を続けた。

「……人に話すと、だいたい頭がおかしいとか薬とか宗教がどうとか、そういう風に疑われるんだけど。まあ、それも仕方ないとは思ってる」

心を見透かされたようで少しギクリとした。
妖怪の話は大好物なのだけれども、やはりこうも唐突だと警戒してしまう。
そもそも、幽霊と天狗がどう結びつくのかよくわからなかった。

気まずそうにする僕を見てAさんは、

「大丈夫だよ、壺を売ったり何かに誘ったりしないからさ。安心してよ」

冗談めかして、少し笑って見せたが。

「……でも、実際。見ただけで価値観変わっちゃうような光景にさ。まるで事故みたいに出くわしちゃうことって。あるんだなあ、って思うよねえ……」

そう呟きながら、まだ吸いかけの煙草を静かに灰皿に転がした。



──Aさんの住んでいた地域の北側に、その山はあったという。

「結構大きくて緑が濃くてね。でもところどころ、白骨林っていうのかな。枯れたような色やハゲた所があって。遠くから見ると面白い形をしてたなあ」

当時、木こりや炭焼き、猟師などといった山と結びついた生業がその辺りではほとんど廃れていたこともあり、あまり住民にとって身近な山ではなかった。

ただ、何年かに一度くらい、不規則な割合でその近くで行方不明者が出ることがあった。

それは地域の住民であったり、旅行者であったりするが、ふらっと山の方へ行って帰ってこないのである。

大抵の場合、動機も何もわからず、捜索を出しても見つからないことがほとんどだった。

そして、Aさんの家のおばあさんを始め、何人かのお年寄りはそんな時、
『山には天狗がいるのだ』
と言っていた。

「……まあ、普段はそんなに話題にしないんだけど。そうやって人がいなくなるとね。

『ああ、今日も天狗に捕られたんだ』

……って。婆さんたちが山の方に手を合わせるわけよ」

──とはいえ、それは当時でさえほとんど迷信扱いだったという。

「別に、その山に行ったやつがみんな消えるってわけじゃなかったしね」

理由のよくわからない、山での失踪事件。
それを老人たちは天狗という名前を用いて説明しているのだと、概ねそう解釈されていた。



Aさんが一番よく覚えているのは中学に入る前の頃、近所に住む独り身のおじさんが山に入って行方不明になってしまったことだという。

「あのおじさんには面倒をよく見てもらってたし、快活な性格も知ってたから、消えたなんてどうしても信じられなかった。でも結局、見つからなかったよ……」



そんな山でAさんが天狗を見たのは家を出る少し前、高校生の頃である。

その時の記憶は、唐突なことにいきなり山道を登っている所から始まるという。

「いやあ、前後関係が曖昧なんだよね。なんで高校にもなって普段行かないような山に登ってたのか、ぜんぜん思い出せなくて。

……まあ、後で思い返せば、ヤバかったんじゃないか、ってわかるんだけどね。

だって、山でいなくなった人たちをどうしても思い出しちゃうだろ?

でも、その時はぜんぜんそんなこと思い当たらずに歩いてるわけよ」

その時のAさんは山頂を目指していたようだった。
そんな奥まで入ったことはなかったし、正規の山道からも外れている。
とにかく、自分は上を目指している。そういう意識だけで黙々と足を動かしていた。



その内、これも唐突に妙な場所に出た。

見事な檜(ヒノキ)林だった。

こんなに檜の固まっている場所がこの山にあったのかとAさんは驚いた。
そして木々の向こうに、まるでそこだけきれいに木々を刈って草を抜いたような、四角い広い空間が開いているのが見えた。

近寄っていくと、背の高い檜の木がその空間をぐるりと囲んでおり、ぽっかりと開いた中心に斜めに陽の光が差し込んでいた。

不思議な空き地だと思って見とれていたら、不意に奇妙な感覚に襲われた。

「そうねえ。絶対に逆らえない、想像も出来ないくらい偉い人からすごい目つきで睨まれたみたいな、高い場所から怒鳴られたみたいな、そんな感じかなあ。
もちろん周りには誰もいないし、声なんてかけられてないんだけどね」

その感覚があまりにひどくて、呻き声を漏らしたAさんは地面に膝をつくと、そのまま草むらの中に正座をしてしまった。
そしてその姿勢のまま、木々の向こうにぽっかりと開いた何もない空間をジッと凝視している。


自分は何をしているのか?

これはいったいどういう状況なのか?

それが自分でもわからない。


「……ちょうどそのあたりで耳もおかしくなってきてさ」

山の中では風の音と葉の擦れる音ばかりが響いていたのだが、それらがだんだんと誰かが細く長く吹いている笛や、振り鳴らす鈴のように聞こえてきた。



やがて、それを合図としたかのように左右の檜の合間から異様なものが現れた。



頭から爪先まで全身が飴色の、人に似た形をした何か。

Aさんはそう表現した。

鏡に写したように左右対称の、全く同じ見た目をした二体だったという。

古い着物姿のように見えた。

天へ差し出した手に、それぞれ太鼓のバチのようなものを持っていた。

そしてその背には、恐らく鳥の翼のようなものがあった。

顔はといえば、どちらも口がなくて目と鼻面しかない、犬のような顔だったらしい。

ところどころの印象はそのようにして脳に訴えかけてくるが……。

他の部分、例えば髪の毛があったかとか靴を履いていたかなどは目の前にいるのに全くわからず、全体像も奇妙に曖昧でハッキリしない。

そんなものが、笛や鈴に合わせた奇妙な拍子を取りながら、空き地の真ん中へ向かって左右から躍り出てきたのである。



しかし、Aさんがその時ゾッとしたのは、それらの姿そのものに対してではなかった。

「いやあ、そいつらね? 確かに顔があって手足があって服着てポーズとってる、らしいんだけどねえ……。

……そうじゃないんだよな。なんて言うのかな。

ほら。岩の窪みとか雲の模様とか木の年輪が、人の顔とか動物の形に見えたりすることってあるだろ?

でもそれって、たまたまそういう風にも見えるってだけで、顔でも生物でもなくて、結局はただの皺だったり影だったり模様だったり、ってわけだろ?

……そういうことなんだよ」

とAさんは言った。

「目の前で見てるそいつらがそれと同じようなもんだってのがわかっちゃって。その時にさあ……」



天狗



ふっと薄墨が滲むように、頭の中にその名前が浮かんだ。

(ああ、コレ、天狗かあ……)

知っている名前に当てはめたことで、ほんの少し何かが腑に落ちたような気がした。



それでも動けない、というか正座したままの体勢で依然として目を離すことができない。

檜の列と草むらだけを隔てて、地面に正座したまま凍ったように見つめ続けることしかできない。

そんなAさんを尻目に、現象と存在の中間のような天狗たちはぬらぬらと奇妙な踊りを続けた。それは蛞蝓が気の遠くなるような時間をかけて這っていくようにも、あるいは壁の蛾がわずかに身を震わすのにも似ていたという。

様々な言葉をAさんは使ったが、どうにもしっくり来ないようだった。

「……あ〜、実際に見ないとわからない、か……。
……いや。伝わらなくて、これで正解なんだろうな」

深呼吸をしてAさんは続けた。


「……それでわかったんだよ、その内に。これは舞台のようなものなんだって。

人の形をしているだけの、何かぜんぜん別のものが舞いや踊りをしている。

そういう舞台のように見える『何か』だ、って」



そして、同時に気がついた。

檜に四方を区切られた舞台と、その上で舞い踊る奇怪な二体の演者。

それ以外に、ある一角に『観客』が存在していることに。



Aさんが座る場所からちょうど反対側。

踊る天狗の向こう。

ずらりと並ぶ檜の間に、人がいた。


人、人、人、人、人、人、人……。



背景の深い緑の闇に溶け込むように、上下左右に無数に人々が佇んでいた。

昔の白黒写真で見かける格好や、時代劇で見るような服装の者もずいぶんといた。

さらに、それらの人々の中に混じって白い顔だけが、まるで縁日の屋台で売られているお面のように浮いていた。

はっきりと顔形がわかる人もいれば、ぼんやりとして輪郭すら曖昧な人もいた。中には長年風雨に晒されたのか、目鼻口が擦り減ってのっぺらぼうになりかけている顔もあった。

そして立ち並ぶ人々の隅の方へと視線を動かしていったAさんは、

「……アッ!」

と、思わず声を上げた。

観客の一人として何の感情もない真っ白い顔で立っている男性、それは……。



「……さっき言ったろ? 俺が中学に上がる前に行方不明になった、あのおじさんだったんだよ。

いつも大きくてゴツゴツした手で俺の坊主頭をガシガシ撫でて笑ってた、あのおじさんがいたから……。

だから、そこに並んでた人たちっていうのは、たぶん……。

……でもなあ、話で聞いて知ってる人数よりも、どう見ても多かったんだ……」



頭の中がぐちゃぐちゃになっていくAさんとずらりと並ぶ観客の前で、天狗の踊りはくるくる、きりきりと極まっていった。

そして踏み出すように脚を上げ、天に真っ直ぐ腕を上げた格好で、二体の天狗は不意に動きを止めた。まるで何かの絵画か彫刻になってしまったように。


「踊りが終わったんだって思ったんだよ。そしたらさ……」


天狗の向こう側で無数に並ぶ観客たちが、その中に浮かぶ白い顔が、その時一斉に口を丸く開け始めた。

丸く、丸く、丸く……。

顔の見える人も、曖昧な人も、のっぺらぼうも、寸分の違いもなく同時に、まるで全体で一つの生き物であるかのように、丸く口を……。

「……ウワアァッ!」

Aさんは大声を上げ、そのまま昏倒した。



「……ハッと気がついたら、消えてたんだよ」

天狗も、白い顔も、人々も、異様なものは全て視界から消え失せていた。

笛と鈴の音もただの風と葉の擦れる音に戻り、辺りにはぬるい風が吹いていた。

檜に囲まれた四角の空間には、今や夕暮れの赤い光だけが差し込んでいた。



「……幻、だったんでしょうか?」

僕が虚勢も含めて思わずそう漏らすと、Aさんは陰鬱な顔をして首を振った。

「……違うんだ、逆なんだよ」

「……逆?」

「幻じゃないってその時に気がついたんだ。だから慌てて逃げたんだ、そこから」

困惑する僕の前で、Aさんは灰皿の中で燃え尽きた煙草をぼんやりと眺めながら続けた。


「……まだ、そこにいるのがわかったんだよ。その、天狗みたいなやつらも、並んでた人たちも。

今は俺の目には見えなくなってるだけで、同じ場所にいるんだ。何にも変わらずにいるんだ、って。

だからまた、たぶん些細などうでもいいきっかけですぐ見えるようにもなるし、またあの舞いだか踊りだかが始まるっていうのを、その時に理解しちゃってねえ……」



煙の香りだけが薄く残る天井を見上げ、Aさんは最後にこう締めくくった。

「……あの檜林の間にびっしり立ってたみたいにさ、死んだ人の姿形とか記憶みたいなものって、昔から今まで、ずっとそこら中に残ってるんだろうな。それが見えたり見えなかったりするだけで。

山ってのは特にそういうのが焼き付きやすかったり見えやすかったりして、それで生きてる人も引き寄せちゃうんだろうな。

あの俺が見た天狗って、そういう条件の目印っていうか、そういうことの表れみたいにも思えるんだよ」


「……俺も。何かがちょっと違ってたら、今もまだあそこであの舞台を正座して見続けてたのかもしれないよな……」



(原題『檜舞台』)




(か)「……でもまあ、解釈はそうだよね。だから、山だからって特別じゃないんだ、ってことなんですよね。恐らく。

その地方はその山が特別なだけでね、空き地だったり、どこかの駐車場だったり、地下のね。そういう所でそういうことが起きてるんだよ」

(加)「常にあって、何かのきっかけで見えるようになるっていう……」

(か)「だから今みたいに、みんなが自粛してて明かりが全く消えた東京とかだと、そういうのが見えやすくなってるんじゃないでしょうかね?」



この話はかぁなっきさんによるツイキャス『禍話』 『シン・禍話 第八夜』(2021年5月1日)

https://twitcasting.tv/magabanasi/movie/680324876

から一部を抜粋、再構成したものです。(0:30:40くらいから)

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禍話リライト 怪談手帖『天狗のこと』 - 仮置き場
https://venal666.hatenablog.com/entry/2021/05/04/213349



(この話は禍話リライト本Vol.3発売、発送開始時に行われたリクエスト募集企画で私の以下のツイートを採用していただいたものです)

https://twitter.com/venal666/status/1375846150473801731?s=21

https://twitter.com/venal666/status/1375847891965648898?s=21

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