禍話リライト 怪談手帖『天狗××(ペケペケ)』

『天狗』という説明不要なほど有名な妖怪の特徴の一つに、その名を冠した怪異の多さが挙げられる。
天狗倒し、天狗囃子、天狗太鼓、天狗の礫、天狗笑い、天狗火、天狗揺り……。
特に山中や山の周辺で天狗が起こすとされる怪異の話は枚挙に暇がない。

僕(『怪談手帖』の収集者、余寒さん)自身、禍話へ比較的初期に提供した話の中に、とある山の天狗による石投げと子どもの顔の出るお話があった。
これから紹介する怪異譚も、山の天狗による異常な現象の逸話として、恐らくその括りに入るはずなのだが……。

この話は他の天狗系の怪異と比べても類を見ないようなことが起きているというだけでなく、それを取り巻く語りそのものに明確な言語化を阻む『何か』がある。
採話し整理して書き纏める僕自身、普段行ってきたような落とし込み方ができず、モヤモヤとしたものを抱いたままでいるのだ。
今まで集めてきた中に、この話より恐ろしいもの、不思議なものというのはあったかもしれないけれど、この話ほど僕の記述の手を迷わせ、一種異様な感覚を生ぜせしめた、その異様さを自分の中で消化しきれなかった話は今のところないのである。
無論、どれだけ筆を重ねたところで僕にとってのそれが他者にとってもそうであるとは限らない。


……あなたは、果たしてどう感じるだろうか?



「……無関係と言えば無関係かも知れません。でも、まずこの話から聞いてくれますか」
Iさんはボイスレコーダーのスイッチを入れた僕の前で、目を伏せたまま、とある映像の内容を口述し始めた。
それは繋がりも曖昧な六つの場面から成る、合計で一時間ほどの動画で、総じて画質は悪く、それなりに昔に撮られたものに思えるのだという。




薄暗い山道に日本人形が投げ出されている。
赤い着物、長い髪、子供らしいふくよかな白い頬。
ただ、その顔は目と口、まつ毛や歯などが造形ではなく筆で細やかに描いてある。
そしてカメラが近づいていくと、その線はかすかにジワジワと蠢いているのがわかる。
その動きは見つめる内にゾワゾワと大きくなり、やがてそれらの黒い細かい描線は顔を離れて虫のように散り散りになっていく。
後には鼻の起伏だけ、のっぺらぼうとなった人形が残される……。



右側に一部岩肌を覗かせた山の巡り道。
見上げる頂の向こうから青空へと湧いた入道雲の一部が出ているが、それが人の顔に見えて仕方ない。こちらを見下ろす目鼻もある。
どこか怒ったようなその顔は、最初は片側だけを覗かせているが、緩やかな雲の流れのまま、少しずつ山の向こうから出てこようとしている……。



大きな切り株の複雑な歪みながら刻まれた年輪。
その細かい木目の上に、手袋をした右手がペンで次々と囲みを入れていく。
囲みは全て目鼻のある化け物の姿に見え、ものの数分もしない内に切り株の上は無数の怪物が合体した絵のようになる。
するとペンは間髪を入れず、一匹の怪物の中にさらに無数の怪物の囲みを作り始める。
怪物の中に怪物を、さらにその中に怪物を、そしてまたその中にも……。
延々と繰り返して、いつまでも終わらない。



麓の街から撮影した山の遠景。
なだらかな稜線の山の肩口の斜め上あたりに、画面についたゴミと間違えそうな小さな点が見える。
拡大していくとそれは、人の形である。
快晴の青空を背景に、空の一角にまるでピン留めされたような男の後ろ姿。
拡大によって絵が潰れ気味になり細部は判然としないが、シャツにズボン姿で、少し猫背気味に肩を下げている。
カメラは近づいたり離れたりしつつ細かく揺れるが、男の姿はピタリと空の一角に貼り付いている……。



山中の大きな木の前で向かい合って話す髭面の猟師二人を、離れたところから隠し撮りした映像。
ボソボソと話し合う声はするものの、会話の内容がわからない。
やがて痺れを切らしたようにカメラがズームしていく。
すると猟師たちの顔は、左右で全く同じであるとわかる。また、どちらも瞬きを一切しない。
カメラはさらにズームしていく。
男たちの鼻の下から頬、顎の下まで覆う見事な黒髭がアップになって、それは髭ではなく無数の蝿の集まりだと知れる。
カメラはそのままズームし続け、やがてその内の一匹の薄い羽の透かし模様に肉薄していく……。



ぽっかりと空いた山の中腹、木々の囲む深い緑の風景だけを、かなり高い位置から見下ろし撮影で延々と映している。
他には何も映っていない。
何も現れない。
何の動きもない。
それまでの他の映像は全て一分から数分程度で終わるため、一時間の大半はこの六つ目の映像が占めている。

動画に映っているのはIさんの故郷にある山、この後の話に出てくる天狗の棲むという名もない低い山らしい。
映像の古めかしさに反してVHSではなく白塗りのDVDに収められており、ラベルには『トリック撮影』と汚い字で記されている。
区民センターの資料室に置かれていたそうだが、撮影者も撮影時期も、誰が持ってきたのかすら不明だという。
いかにも怪しい代物だが、彼女曰く、センターの資料室はほとんど物置のような場所だそうで、地域住民や元職員、劇団などから寄贈された写真や映像の他、出自不詳のものも含め、ろくな整理もされず山積みになっていたから、あまり気にする者もいなかったそうだ。


「……今話した動画の内容をどう思われました?」
Iさんの問いに対し、僕は言葉に詰まった。
「あ〜、こ、怖いというか、気味が悪い、というか。意味はよくわからないですけど……」
咄嗟に思ったままの答えしか返せなかったが、Iさんは、
「そうですよね、怖いですよね」
と、納得したように小さく何度も頷いて、
「……ああ、すいません」
と言った。
「さっき言った通り、それ自体は別に本題じゃなくて……」
動画についての話はこれ以上何もないという。呪われているだとか、それを見てどうなったという噂があるわけでもない。
そもそも『トリック撮影』とラベルにあるのだから、本当に山の怪現象を映したものというよりは、そういうアート作品だとかイタズラ映像の類と考えているらしい。

では、何故そんな映像について最初に話したのか?

「こういうものだって感じが、一番近い気がしたんです。だから……」

今回の本題、彼女の故郷の天狗にまつわる異様な出来事。それを体験した時の感覚。
それに一番近いものを今述べた映像群が表現している気がするのだと、Iさんは言った。
「本物か作り物かは関係ないと思うんです、たぶん」
作成者も同じ地域の住民だとすると、恐らく同じような体験をした。だからそういうものを撮ったのではないか、と。
「もちろん、私が思い込んでこじつけただけかも知れません。だから、今からする話を聞いた後に、改めて余寒さんがご自分で判断してください」
と、いよいよ本題を語り始めた。


Iさんが生まれ育ったその地域には、街の北側にさして高くない山があった。特に山としての名前もなく、所有者もはっきりせず、管理や整備も放棄されていて、良く言えば自然のまま、悪く言えば荒れ放題の山だった。

それなのにというか、そんなだからと言うべきか、昔から天狗の話があったのだという。
あの山には天狗がいる。誰それが山に入って天狗と遭った。天狗を見た。頻度は低いものの、Iさんの親世代くらいまではそのような話がポツポツと聞かれたのだそうだ。
近現代まで語られ続ける土着の天狗。以前に聞いた『檜舞台』という名前で採話した話を思い出し、つい高揚感を覚えてしまったが、Iさんはひどく憂鬱そうな顔をして、
「でも全部大した話じゃなかったんですよ」
と続けた。怖さだとか畏れ多さだとか不思議さを生じさせるものではなかったという。素朴というよりも、味気ないほどに。
それを語る側も皆、実感の薄い言い伝えや噂としてふとしたきっかけで口の端に登るに過ぎず、当事者についても、親戚の隣人だの、知り合いの知り合いだの、麓の某だの、多くは個人名すらあやふやな有様だった。
Iさんにしたって、
(あの何にもない荒れ山にも、一応そんな話があるんだなぁ)
と、ただそれだけの感覚だったそうだ。


けれど、ほんの数年前のこと。
Iさんの親戚に当たる少年が、かの山で天狗を見たのだという。
「山から戻ってきた彼が、そう話すのを聞いたんです」
Iさんの視線が机の上で何かを追うように彷徨っている。
「山って、それはつまり、神隠しですか⁉︎ ああ、その子は天狗に連れて行かれて、とか?」
天狗と出会った奇妙な体験を語る少年。有名な『天狗小僧寅吉』のことを想起して思わず口を挟んでしまった僕に対し、彼女は首をゆっくりと振った。
机に視線を落としたまま、Iさんは少し言い淀んでから、言葉を紡いだ。


「……お父さんと、お母さんと、山へ登って。三人で死ぬはずだったそうです。それが、その子だけ……」


その夏の初め、その山の麓近くで衰弱して呆然自失となった男の子、当時十一歳の彼、Aくんが近隣の住民に保護された。そして彼の言葉を元に山の中腹ほどで男女二人、彼の両親の遺体が続けて発見された。初夏にしては蒸し暑い日だったこともあって、かなり酷い状態だったという。
当然、警察の捜査が行われたが、結論から言えば遺書が見つかり、遺体の状態からも自殺、無理心中であることが確認された。
彼らは山を背にしたいくつかの一軒家の内の一つを買い取って住んでいたが、連休の初めの日から連絡を断っていたことがわかった。心中に至る理由も概ねはっきりしていたという。

「詳しくは言えないので、家庭内の問題、とだけ。いろいろとわかったのは亡くなってからでしたけど。知り合いにも、私たち親類にも、病的なくらい隠し続けていたみたいでした。
私は昔、奥さんに良くしてもらったこともあって。就職活動で忙しくなる前には時々家に遊びに行ったりして、Aくんとも仲良しだったんです。元々は、外で遊ぶのが好きなおしゃべりな明るい子でした。
でも、家が壊れていくにつれ、当たり前ですけど、彼も精神を病んでしまったみたいで……」

末期には近所まで夫婦の言い争いの声やAくんの泣き声なども漏れ聞こえていた、ということもIさんは後から知った。
そしてAくんが小学五年生となった夏、両親は家のすぐ裏手にあるその山で家族揃っての死を選び、結果としてAくんだけが生き残ってしまった。
「身勝手だ、って思いましたけど、私にそんなこと言う資格はないですね……」

Aくんについては諸々の過程を経た後、最終的に彼の叔父叔母にあたる男女が養育者となり、Aくん一家の住んでいた家にそのまま暮らすことになった。

僕は思わずそこで、
「……えっ⁉︎」
と声を出してしまった。
「え、だってその、え、ご、ご両親の、亡くなった山が、すぐ、すぐそばなんでしょ⁉︎ さすがに……」
そもそもそういう場合、普通は養育者の家の方に引き取るものではないのだろうか。
Iさんは僕の言葉の一々に頷きながら、
「私も詳しい経緯はわからないんです。『Aくんがそうしたいと言ったから』っていうのが決め手だったらしいんですが」
と言った。

叔父叔母という人たちについては、Aくんを引き取ったのも遺児にまつわる諸々の恩恵目当てという噂があった。それに、立派なまま残されていたAくん一家の住居もその一つと目されていたという。
唖然とする僕にIさんは続ける。
「でも、他の親類は引き取ろうとすらしなかったんですから。私も、結局同類でした。その頃、自分のことでいろいろあって、全く余裕がなくて……。Aくんについても、口でいろいろ心配してるように言いながら、見て見ぬふりをしてたんです」
Iさんは初めて笑みらしい笑み、自嘲らしい笑みを口の端に浮かべてそう言った。

結局、Aくんはそのまましばらく叔父叔母と暮らしていたという。
そして、一月が経ったある時のこと。Iさんは親類の一人から両親づてにAくんの様子を見に行ってほしいと頼まれた。叔父叔母から連絡があったというのだが、その物言いがおかしかったそうだ。

『Aが怖い』

電話口で彼らは確かにそう言ったのだという。
「怖いって、どういうことだろう、って」
グレたとか、何か危ないものに手を出しているだとか、そういうことであろうか。しかしAくんの年齢的には考えにくい。それに叔父叔母の普段の性格からして、それを悩んだり怖がったりする風には思えない。もっと詳しく聞こうと問い正しても要領を得ず、結局Iさんに声がかかった。何より、Aくんから彼女の名前が出たことも大きかったらしい。

「私、その時になって、正義感というか、義務感みたいなものを発揮したんです、今更。就職も決まって余裕ができたっていう、結局それだけの理由でしたけど。仕事の関係で、家庭問題とか心の病に関わる勉強もしたし、何かできるんじゃないかって思ったんです」
彼女は叔父叔母による虐待の可能性も疑っていた。それならば然るべきところへ改めて相談せねばならない。
彼女曰く、後ろめたさを償うように、かの家へと向かった……。


何年ぶりかに訪れたその家。山を背景にしたそれなりに大きな一軒家。
事件の印象からか、晩夏の陽光の下で建物だけがやけに薄暗く、くすんでいるように感じる。記憶よりも後ろの山の存在感がやけに大きく、緑の色合いが目立つのもそのせいであろうか。
「入り口が、施錠されてなくって……」
不用心さに呆れながら踏み入ってすぐ、彼女は家の中の荒れ様に眉を顰めた。かつてと異なり、掃除どころかゴミ捨ても怠っているらしい。

冷房の効き過ぎて寒いほどの一階奥のリビング。ビニール袋や段ボール箱の散乱する中に、叔父と叔母はいた。
叔母は部屋の隅にソファーを引きずってそこに陣取り、ケットに包まっている。叔父は昼間から酒を何本も空け、既に酩酊していた。案の定、という様子で、Iさんは虐待の疑いを強くしたのだが……。

いざ実際に相対し話をした彼らは妙な調子だった。いつも自信家で居丈高な印象だった叔母は怯えた様に何も喋らず、赤ら顔の叔父ばかりが話をする。その叔父の方も、剃り込みを入れていた頭は半端に伸び放題、髭もあたっておらず、すっかり萎縮した様になっていろいろと言い訳をしながら、結局はAが怖いとかわからないとかおかしいといった内容を繰り返すばかりだった。
これはダメだと感じたIさんは適当に話を切り上げ、Aくん本人の様子を見にいくことにした。
そうしてリビングを出ていく彼女の背へ、叔父が不意に叫んだ。

「天狗! 」

「……え?」
と振り返るIさん。
「あいつは! 天狗に……!」
叫ぶように投げかけた言葉の最後は詰まり、そのまま途切れた。叔父は自分で言った言葉の意味も忘れた様な顔でポカンとしている。
「なんで、天狗って……。意味がわからなくて……。でも、今から考えるとその時にはもう、妙な雰囲気というか、ずっと小骨が喉につかえているような、そんな感覚を、私も感じてたような気がします」

彼女は一人、階段へと向かった。
二階には子供部屋とAくんの両親の使っていた寝室とがある。階段を上ってすぐに見えてきた子供部屋の外見は少なくともかつてと変わらないように見えた。
「それで、私は部屋のドアノブに手をかけたんです。こう、手前に引いて、ドアを開けて」
まるで自分自身に確かめるように、一区切り一区切りIさんは呟いていった。
「それで、ドアを、開けたら。開けたら、部屋の中に、Aくんがいました」
カーテンを閉め切った、薄ぼんやりとした部屋。照明が切れかけているのか、おかしな光の具合だった。その中で少年は窓際のベッドの上に座っていた。
Aくん、と声をかけたIさんに、彼は彼女の名前を呼び返す。背は伸びていたものの、顔は変わっていないように見えたという。それなのに……。
「……何か、違和感があって。何に対して、って言われると、わからないんですけど。Aくんが座っているのを見た時、そう感じて。本当にわからなかったんですけど」
結果的に、その違和感がIさんの意思を奇妙な形で硬直させてしまった。彼女はドアを背にしたすぐのところに立ち尽くしていた。
「昔みたいに、ズカズカ入っていって、隣に座って、それで話を聞いたり、いろいろ確かめるつもりだったんですけど、結局そこで、立ったまま話をすることにしたんです」
あれこれと投げかける彼女に対し、Aくんは噛み合わない、奇妙な言葉ばかりを吐いた。

「一足す一は二じゃなかった」
「一引く一はゼロじゃなかった」

というようなことを、彼は脈絡もなく、しきりに呟いていたという。
「あの、よくドラマとか漫画とかでそういう言い回しってあるじゃないですか。数字が全てじゃない、みたいな。そういうことかな、って、最初は思ったんですけど……」
IさんはAくんの言葉に、何か不気味なものを覚えた。

その意味不明な呟きに続けて彼は言った。
あの山で天狗にあった、と。
山から降りてしばらくその事を忘れていたから夢のようだった。最近やっとそういうことを思い出した。
そうして堪えきれず嘔吐するかのように、次のような内容を唐突に垂れ流し始めた。

「彼の父親が山に星を見に行こうと言って、それで準備をして、山頂で特別綺麗な星が見えるらしいと父が話していて、でも母が泣いているのを彼はじっと見ていて……」

それは明らかにかつての心中当日の記憶だった。
「出発は夕方前で、登山用具、簡単なキャンプ用品のようなものをそれぞれ持っていて、ああ、山の入り口から上がっていって、木々の合間から暮れの日の差し掛かる山道が続いていて、彼は両親の背中ばかり見ていて……、すると彼の父親が山の上の方を見上げて、ああって声を上げて……」
そこまで述べてから、奇妙な空白を置いた後、ようやくAくんは言った。

それが天狗だった、と。
それで全部ぐちゃぐちゃになった、と。

「……天狗。いや、何を言っているのか、私は頭が全然追いつかなくって」
しかしAくんの口からはそんなことにはお構いなく、たがが外れたように止めどなく言葉が吐き出されていく。ほとんど支離滅裂なその吐露を可能な限り整理してまとめていくと、概ね次のようになる。


持ってきたテントを張って山の中で何回か寝起きをした。水を汲みに行ったり、持ってきたインスタント食品をそのまま齧ったりした。火が異常に怖くなったので、父のライターが使えなかった。
山の中は、天狗とあってから風景が一変してしまった。
山のあちこちが人の顔のパーツになっていた。
目や鼻や口や耳や、中には両親のそれに見えたものもあった。
カヤの葉が並んでまつ毛みたいになっていたり、剥き出しの地面が舌の裏側のようになっている箇所などもあった。
穴だらけの真っ白いキノコが帯状に群れを成して生えていて、それがそっくりそのまま自分たちの住んでいる麓の街の形になっていた。
横向きの人たちが上の方の遠い斜面に沿ってゾロゾロと途切れることなく歩いていたが、厳密には横を向いているのではなく、横側しかない人たちだった。
汚らしい毛の生えた茶色の蛇が地面のあちこちを這っていて歩きにくいなと思ったら、骨のない人間の腕そっくりなものだった。それはみんな、見覚えのある腕時計をしていた。
自分はずっと静かにしていたのに、父と母がうるさかった。二人の声が重なり合い、四六時中、延々と山中に響いて、耳を押さえるのが煩わしかった。
父と母は、天狗が何とか、天狗が何とか、とも言っていたような記憶があるが、何とかの部分は思い出せない。
自分と両親の見た天狗がどういうものだったかよくわからない。ただ、遠く高い木の根から梢までピッタリ沿って立つ、縞の入った巨大な灰色の何かを見た気がする。それは大きな鳥の背中にも、木を背にして俯いた人の形にも見えたが、頭部とその下に畳まれた翼だけで、顔や手足に当たるものはどこにも見当たらなかった。
父の見ようと言っていた星は無事見ることができたが、あんなもの見なければよかった……。


「ショックが大き過ぎたんだな、って。そう思おうとしました」
心のダメージを有り得ない幻想に変換して誤魔化そうとしている。現実から目を背けようとしているのだ、と。
しかしその一方で、Iさんの中にはどうしようもない、理屈のない恐怖が膨れ上がっていた。
「そういった話を呟いている、Aくんが、Aくんに見えなくなってきて……」
ベッドの上のその姿は初めから何も変わっていない。目も鼻も口も顔も髪の毛も肩も手も足もポーズも……。
それなのに、まるで何かそういう新しい生き物みたいに見える。それがどうしようもなく恐ろしい。
狼狽するIさんを他所に、Aくんの吐露は続く。

「ひきちぎられた」

そのような言葉で彼はそれを表現した。
どういうことかといえば、どの時点かで彼は一人で下山することになったらしい。何もかもがおかしくなってはいたが、それでもやはり父母と別れたくなくて、彼は最後に振り返ったのだという。
見上げた山道、木々の合間にそれぞれ佇んでいる父と母。
ところが、その姿に見覚えがなくなっていた。
まるで知らない人たち。それどころか見覚えのないぐちゃぐちゃの線や色の塊が並んでいるみたいに見えた。
悲しくなった、とAくんは言った。
そうしてすぐに、一つ一つ見ていたからダメだったのだと、そう続けた。
例えば、顔を見ようとして歯の一つ一つやまつ毛の一本一本や鼻の穴の片方だけを一生懸命に見ても誰かわからない、というようなことを。
だから、視点を引いたら大丈夫だった。父や母も、木や岩も植物も、横向きの人や蛇や小さな街も、そこにあるもの全部をまとめて見たら、ひどく懐かしくて、見覚えのある顔になっていたのだ、と。

Iさんは必死で考えていた。身体の内側から這い上がってくる、違和感の成れの果てのような不快感。これは恐怖ではなく彼を痛ましく思う気持ちなのだと、自分に言い聞かせていた。
「それで、それで私、話の流れを無視して、陳腐な励ましの言葉を捻り出したんです。Aくんのためじゃありません。自分のためです」
今は自分の幸せを考えないと。お父さんお母さんもそう思っているはず。きっと見守っているよ。ずっと一緒だよ。
そんなことを彼女は告げたのだという。

するとその時、Aくんが初めてそれまでと違う反応を見せた。
Aくんはググググググッとカーテンの向こう、窓の側を向くと、
「やっぱり一緒なんだ!」
異様に鮮明な彼の声で、確かにそう聞こえた。
同時にどこかを引っ張ったのだろう、カーテンが唐突にジャッと引かれ、眩しい光と鮮やかな緑の色がIさんの目に飛び込んできた。
家の裏手には、そう、例の山が面している。そして、窓の外に現れたそれは、確かに山の風景であり、しかし、同時にそれは……。


「……Aくんと、Aくんのご両親でした」


Iさんはそう言いながらかぶりを振った。

「あれは、あれは上手く言葉にできない。顔のようなものだった気がする。目鼻口があった気がする。凹凸や皺や無数にぐちゃぐちゃに引かれた線があって、それがAくんやAくんの両親に……。
心霊写真で、並んだ点と点を結んで、目鼻にしてしまうような、ああいう感覚を百倍にも千倍にもしたような……。
ただの山の風景とわかるのに、そこには確かにかつての記憶にある夫妻の風貌が、まだら状に掻き回されながら織り込まれていて……。
そして大きな窓の左端、窓枠いっぱいに、巨大な鼻から下が見切れている。風景と混じり合った、すっと伸びた鼻筋。朽ちたような小さな洞が二つと、その下に伸びた人中の窪み。乾いた上唇と剥き出しになった歯。下半分が枠の外へと消えている、限界まで大きく開かれた口。それは見覚えのあるAくんのものだった……」

(……ああ、なんだ、やっぱり。やっぱりAくんも叫んでたんじゃないか)
腑に落ちてしまったその意味が自分自身でもよくわからないまま、一拍遅れてIさんもまた、口を大きく丸く丸く真っ黒に開いていき……。
叫んだかどうかは覚えていないという。
ただ、倒れかかった後ろ手のドアからまろぶように部屋を出た。
一足す一は二じゃなかった。
一引く一はゼロじゃなかった。
意味不明だったはずのAくんの言葉が何故か一番強烈な響きをもって頭の中にリフレインしていた。
階段を駆け下り、一階の叔父叔母のいるリビングへ飛び込んだ。

「その時の私は、いったいどんな顔をしてたんでしょうね……」

叔母はギャッと叫んで部屋の隅へ這いずるように逃げて泣き出した。叔父は赤い顔から色をなくしつつも辛うじて、
「何だ⁉︎ 何があった⁉︎」
と訊ねてきた。
恐怖と逃避に囚われていたIさんはそこで少しだけ冷静になった。
幻覚だったのではないか。薄暗い部屋と彼の異様な話の雰囲気に呑まれて、窓の外にありもしないものを見てしまったのではないか。
何とか頭の整理をしようと必死で、問いかけに答える余裕のなかったIさんに、
「もういい!」
と言って叔父がやけくそのように飛び出すのを、ハッとなって慌てて追いかける。
再び階段を駆け上がる。半開きのままの子供部屋の戸の向こうへ、叔父が怒声を上げながら踏み込んでいくのが見える。手を上げるかもしれない、やめさせなければ。正直な思考が戻ってきた。しかし……。
「……ウワアァッ!」
と濁った声で叫んで、叔父は部屋から逃げ出し、廊下の壁に激突した。
開いたドアの隙間。部屋の中。Iさんは見た。


外の光の差し込むベッドの上のAくん。さっきと全く同じ姿勢のまま、座ってこちらを向いているAくんが。
絵みたいになっていた。


「……絵みたいに?」
僕は思わずオウム返しに口走り、
「どういうことですか⁉︎」
と訊ねてしまった。
Iさんは自身も蒼白になりながら苦慮して言葉を繋げた。


厚みがなくなっているように見えたという。


身体の影が本当の影ではなくて、そう見せかけて載せられたただの暗色のようにしっくりこなくなっていた。立体に錯覚させる騙し絵の角度をずらしてしまった時のように。
全体に色の濃淡も潰れて、のっぺりとした質感になっていて、背後の壁との差異が薄くなってしまっている。何かの境目が消えかけている。
そして、ベッドの上からではなく窓の左側から……。

『ねえ』

Aくんの声がしたような気がした……。


「……今度こそ、本当に逃げ出しました。叔父も叔母も置いて、家を出て」
錯乱状態で実家の前で身体を丸めているのを家族に見つかったのだという。
「よく覚えてないんだけど、私、しばらく目を開けようとしなかったそうです」
病院へ行ったりいろいろとあって、落ち着くまで時間がかかった。あの家がどうなったのか気になる暇もなかった。
「後で、Aくんは行方不明扱いになったと知りました」
叔父と叔母も、死んではいないものの元通りには戻れなかった。
ただ、Iさん宛にその家から留守電が一件入っており、
「山が覗いてくる。全部入ってきた」
というような内容が、もう叔父と叔母のどちらかかわからないボソボソとした声で吹き込まれていたという。
「その後、事後の処理も含めて親族の間でかなりゴタゴタしましたが、そこは割愛します」
とIさんは言った。
落ち着いてからもこの一件はIさんの中に消化できない異物か埋め難い欠落のように残った。
彼女は結局生まれ育ったその地域を離れ、今は別の街に暮らしている。


「……ただ、何となく気になって。街を出る前に天狗の話を自分なりに調べ直したんです。区民センターの資料を漁ったり、話を人に訊き直したりして」
センターの資料室であの『トリック撮影』の映像を見つけたのも、その時だったという。
そしてもう一度話を訊き回っても、彼女の知っている以上の話は何も出てこなかった。
所有者もわからない荒れ山。その山には天狗がいる。誰それが山で天狗を見たらしい。誰それが山で天狗とあったらしい。あまりに簡素で味気なく実感もない、街の天狗の話……。


「……ただ、気づいたんです」
天狗を見て。
天狗とあって。
その後どうなったかについて、何も語られていない、ということに。
バチを当てられたとか、祟られたとか、死んだとか、何かを貰ったとか、どこかに連れて行かれたとか。多くの天狗譚に見られる何をしたか、何をされたかの部分が、その街の天狗の話からはポッカリと抜けていた。まるで、話している途中で言葉が突然途切れてしまったように。
直接に噂をしていた存命の年長者たちにその辺りを強く正してみたが、誰も知らなかったしそもそも空白の部分について気にしてすらいなかった。
「何となくそれが、Aくんの見たもの、私の聞いたり見たりしたものの答えになってるような気もして……」

すっかり憔悴した様子のIさんに僕は、自身もすっかり掻き乱されつつ、大丈夫だからと励まそうとした。
記録が失われたり由来や曰くを知るものがいなくなって、肝心の部分が虫食いになっている話は実は珍しくない。現に、郷土史や研究誌に残された妖怪の記述などを参照していくと、『そういうものがいる』その一行のみで、そのお化けが何をしたのか、ポッカリと抜けている話も多く存在するのである。


(空白や欠落は特別じゃない。だからそこまで気にしなくてもいいんです)

そう言おうとして、気がついた。
その事実はIさんの、彼女の体験に対する救いにはならないことに。
彼女は前提として、異様なものを目撃してしまっている。何かがあること自体は既に実感してしまっているのだ。
ならばむしろ、逆ではないか。彼女の話の方が呪いとなり得るのではないか。世にある妖怪伝承の空白の全てに、不気味な補完の可能性を生じさせてしまうものなのではないのか。


結局、僕は口ごもり、そして沈黙を散らそうと、
「その家は、ああ、その後……?」
咄嗟に思いついただけのことを訊ねた。
するとIさんは少し逡巡した後、
「今も、あると思います」
と答えた。
「街を出る前、天狗のことを調べていた時に、友達と一緒に一度だけあの家に行ってみたんです」
驚く僕にIさんは、
「人がいなくなってからそんなに経っていないのに、中は、ああ、落書きだらけでした」
と言った。

そして、
「友人と一緒に上がった二階で、子供部屋や寝室にも絵が描いてありました」
とだけ述べてから、早々に話を切り上げてしまった。
明らかにそれまでの会話の流れや彼女の様子からしても不自然な幕切れだった。
僕はIさんへの最後の質問を飲み込んでしまったのが正しかったのかどうか、今でもわからない。


『山はその時、あなたにはどう見えていたのですか』と……。



※余寒メモ
天狗という妖怪について、有名な話ではあるが、現在一般にイメージされる鼻の高い天狗や鴉天狗の姿は仏教や修験道に関わる揶揄や皮肉、あるいは狂歌を交えた表現文化で醸成統合された、キャラクターとしての側面が強い。
古今様々な場所で語られた天狗の姿は不吉の流星として『アマツキツネ』の名を当てられた原初を除くとしても、老人や異相の人間であったり、鳥類そのものであったり、音のみの存在であったり、双眸炯々たる影であったり、奇形の植物や岩から存在を暗示させるものであったりと、様々な様態をとる。
一部の地域に伝わる話では山の操る傀儡のような動きをする天狗などもおり、統合されきらぬ怪異の息遣いのようなものを我々に感じさせると共に、こと天狗においては『木を見て森を見ず』が正しい態度となることもあるのかもしれないと、僕などは考えたりもするのである……。



※あとがき
この話をもって禍話へと提供してきた正規の怪談手帖は百話目を数える。素人怪談を披露する場を与えていただき、その中で筆を重ねて一つの区切りを迎えられる幸福に深い感謝を捧げるばかりである。
怪しを語るその百話目において尋常ならざる怪異が生ずる、とは有名な話であるが、実を言えば僕の元に『それ』は訪れた。
といって、それは心霊的、超常的現象にあったというのではない。まだこの話の書き方を決めあぐねていた頃、かぁなっきさんと友人である皮肉屋文庫くんへ別々に話の筋を語ったのだが、その際に僕が敢えて語らなかったことを、二人が同じように言い当てたのである。何故か聞いていてわかってしまった、と言って……。
その時、僕は確かにこの世ならざるものが皮膚(はだえ)に触れたように感じた。
霊感などないからとたかを括っているとこのような目にあうのであって、禍話という車座に灯された青い行燈はつくづく特別らしい。
その恐ろしさ、そのありがたさを噛み締めながら、尽きせず揺らぐ火影を背に、百一話目からをまた粛々と紡いでいければ、と思う……。



この話はかぁなっきさんによるツイキャス『禍話』 『禍話インフィニティ第七夜 余寒特別編・天狗××』(2023年8月12日)

から一部を抜粋、再構成、文章化したものです。(0:05:00くらいから)
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禍話wiki

この話についての付記も収録された『余寒の怪談帖・二』余寒さんのboothにて近日発売予定!

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