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ある喫茶店に入って本を読んでいた。今時コーヒーを飲みながら本を読むなんて光景はまず見られない。
一人でいるものはほぼ全員が一心不乱にスマホを見ている。自分の周りにバリアを張り巡らせ「勝手に入ってくる奴は絶対に殺す」とでも言いたげな強力なエネルギーを放っている。
店員がトレイを思いっきり落とし、大きな音をたててコーヒーカップが割れた。
「失礼しました!」
マニュアルどおりに叫んだ。こんなことはよくあることでいちいち謝ってなどいられないと言いたげに。
そんなアクシデントに注意を向けるものなど誰もいない。各々がそれぞれのスペースで自分の世界に入り込んでいて他人のことなど全く無関心だからだ。
彼らの存在、意識はこの世界から遠く離れたところに行ってしまっていて、ここにはいないのかもしれない。

40過ぎのカップルが二人でケーキを食べている。女の顔はこれ以上の幸せはこの世にはない、とでも言いたげにケーキを食べている。
男はコーヒーを飲みながら壁に掛かっているモノクロームの写真を見ている。
ポルトガルのどこかの街を歩いている老人がシルエットになって歩いている明らかにブレッソンを真似た作風だが笑いもでないほど陳腐な写真だった。
だが男は見入るように見つめて何かを考えていた。
「オレは今頃世界中を旅しヨーロッパの片田舎で地元の人間とシェリー酒を飲み交わし芸術論を戦わせているはずだったのに、なぜこんな劣化した女とケーキを食べているんだろう」
「若いころはそんなことを考えがちだが、やがてあれは夢だったんだ。やがてフェイドアウトしていくただの幻のようなものだったんだ」
「こんな女でも若い頃は可愛かった。一晩で5回もセックスしてもまだ飽きない女だったんだ。この女への性欲も夢と同じようにフェイドアウトしていくんだな」
男はため息をつきながら笑った。
「それでもオレは幸せだ。身体を壊したからシェリー酒は飲めないが、コーヒーにケーキぐらいで幸せを感じられるならいい人生じゃないか」
男は無表情のまま一口、また一口とケーキを口に運んだ。
それはまるで工場で働く労働者が部品を機械的にベルトコンベアに運ぶシーンのようだった。昔観たイタリア映画でこんなシーンがあったが思い出せない。
そんな男を見つめる女の目は幸せそうだ。このまま永遠に時間が止まってくれればいい、と本気で思っているだろう。
やがて大量の買い物袋を男に持たせこの二人は出て行った。
あの二人は何かをジャッジするということを辞めた。これから先の人生二人でどのケーキを食べるかという事以外にジャッジすることはないだろう。
そうだ、ジャッジするということは大変なことだ。
的確に判断するためにはエネルギーを必要だし、知識や教養、経験全てを注ぎ込まなければならない。
反対側の壁にはセザンヌとボッティチェリとブリューゲルの絵のレプリカがかかっていたがこの場には全く不釣り合いだった。

見たり聞いたりするのに耐えられないような光景は後になってみれば大笑いできる類のものが多い。
オレは冷たくなったコーヒーを身体のなかに強引に流し込み外に出た。
5月も終わり明日から6月だというのに外は肌寒い。もうこの国は暖かい季節などやってこなくなってしまったのかもしれない。
ヴィンテージギターのストラトキャスターをマーシャルのアンプに繋ぎ、思いっきりディストーションをかけフルボリュームで弾きたいと思った。

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