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人工的清潔と自然的調和

自然の美しさを最大限に喜び、その中でここちよく生きていくために大切なこととは、何か。

カメの水槽・グリーンウォーター

カメの水槽の水、冬場はもっぱらグリーンウォーターを作る。

グリーンウォーターとは、水中の植物プランクトンが大量に発生して、名前の通り緑色になった水のことを言う。これが水質を良い状態に保つので、水替えが少なくて済むというわけだ。夏は水がすぐに腐ってしまいそうになるのできれいにするけれど、水質を安定させられる冬場は、この状態にもっていく。

詳しい仕組みは分からないが、その水質は、植物プランクトンとバクテリアの良好な関係によって作り出されているらしい。カメの食べ残しやフンは、アンモニアを出すが、それがバクテリアによって毒性の弱い硝酸に分解される。このバクテリアは酸素をエネルギーとするようで、植物プランクトンの光合成によって水中に溶け込んだ酸素が、このバクテリアの働きを助けることになる。そして、分解された硝酸は、植物プランクトンを助ける。植物プランクトンは光合成の際に、この硝酸を利用するらしい...。

と、いろいろあるのだが、このバランスが以外と難しい。なんでもOKなわけではなく、混沌に見えて、そこには調和がなければならない。日当たりが悪いと植物プランクトンの働きが不十分になったり、それによってバクテリアが有害物質を分解しきれなかったり、ボウフラが発生してしまうこともあるそうだ。

カメを飼うとき、頻繁に水を替え、良好な水質を保つ方法もあるだろう。夏場はぼくも頻繁に水を替えていた。変温動物であるカメは、夏には良く食べ・良く出すので、バクテリアによる分解が間に合わなくなって水が腐りやすいからだ。水替えを頻繁に行う場合、水槽の水は無色透明になっている。

一方で、先に紹介したグリーンウォーターは、抹茶のような水。見た目からして無色透明な美しさとは正反対だ。しかし、この調和の保たれた水は、水質を良好に保つので、これはこれで美しい状態だと言える。

美しいのはどちらの水だろう?


人工的清潔と自然的調和

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無色透明な水とグリーンウォーターのどちらが美しいのか。この問いを整理するために、ぼくは"人工的清潔"と"自然的調和"という二つの概念をつくって考えてみた。

まず、"人工的清潔"とは、汚れがきれいさっぱりない状態のことを言う。無色透明な水槽の水、手のひらの消毒、害虫駆除などは人工的な清潔状態だと思う。これらのきれいさの根底に一貫してあるのは、一面性。"きたないもの"を一切取り除こうとする潔癖の考え方だ。人間の眼からするときれいに見えるかもしれないが、ここには多様なものによる調和がない。

"自然的調和"とは、人為的ではなく、自然に任せた結果、調和がとれた状態のことを言う。グリーンウォーターの水槽は、必ずしもきれいには見えないかもしれないけれど、実は一番調和のとれている状態。こういった状態が自然的に調和のとれた状態だ。

何を美しいと思うかは人それぞれだろう。しかしぼくは、グリーンウォーターのような状態に自然体の"美しさ"を感じる。このとき、調和と混沌は紙一重だ。人工的清潔の一面的なきれいさとは違って、自然的調和は、多様なものの絶妙なバランスによって形作られているのだから。(それにしても、この絶妙なバランスこそが美しい。)

自然的調和の美しさが分かると、人工的で一面的な清潔状態は、"不自然"な美しさだというふうに感じてくると思う。自然の美しさに感動し、本当に自然に寄り添った生き方を考えていくのならば、この自然的調和を大切にしていく必要がある。


グランピングで自然を感じられるか

近年、グランピングが流行っている。グランピング(glamping)とは、魅惑的「glamorous」とキャンピング「camping」を合わせた造語だという。
キャンプの面倒くさい部分だったり、大変な部分だったりをなくし、便利で、快適で、簡単な、良いとこどりのキャンプらしい。

これから、このグランピングを例に、自然的調和を大切にするとはどんなことなのかを考えてみたい。

まずはキャンプという体験の中で、私たちが自然を感じることができるのはどんな瞬間なのか、考えてみることから始めてみたい。
それはきっと、こんな瞬間なのではないだろうか。
火を起こすのに手こずったり、テントに虫が入ってきてしまったり、泥やBBQのススで汚れてしまったり、明け方に冷えを感じたり。

こうした経験は、普段から便利な都会的暮らしをしている者にとっては、めったにないものではないだろうか。都会的暮らしでは、こうした"不便さ"を経験しないようになっているのだから。便利な都会的暮らしから一時的に離れ、自然の中で生きている実感を与えてくれるのは、こうした"不便な"体験だろう。

それでは、グランピングの場合はどうか。そういった不便さを感じる余地は残っているだろうか。
テントはすでに張ってある。シャワーもトイレもついている。中には冷暖房が整っているところも。
このように、グランピングでは不便さは感じにくい。そもそもグランピングの魅力は、便利で快適なところ("不便さ"がないところ)にあるのだから。

なので、ぼくの眼には、グランピングは人間による自分勝手な自然の楽しみ方に見えてしまう。自然体験のように見えて、ちっとも"本当の自然"を体験できるように作られていない。グランピングのルーツが、欧州貴族のアフリカでのサファリロッジにさかのぼれるように、どこか都合の良い楽しみ方に感じてしまうのだ。

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グランピング施設は、"都会から田舎に持ってきたカプセル"のようなものだと思う。そのカプセルが置いてある場所は確かに自然の豊かな土地かもしれないが、カプセルの中と外は壁によって区切られていて、内側の"清潔"を保つために、外側の"混沌"との接触点は一切絶たれている。つまり、グランピング施設の中は、人工的な清潔が追求された空間であって、そこには自然的な調和はないのだ。

はじめにキャンプ体験で自然を感じられる瞬間について考えてみて分かったように、ある種の"不便さ"によって、人間は自然とのつながりを感じることができる。ところがグランピングは便利さ・快適さを優先して、"不便さ"を排除してしまっている。こうした点で、自然と分断されているといえるだろう。そしてそのように設計されているため、施設全体として、その土地の自然になじんでいるとは言えないのではないかと思う。

もちろん、ものには良い側面・悪い側面どちらもあるから、グランピングを全否定はしない(たとえば、都会の生活に慣れ、自然の中での体験を知らなかった人が自然に親しんでいくきっかけとなる、など)。

けれど、グランピング体験によって、自然を感じることができたと思うべきではない。グランピングで楽しんでいるものは、人間の都合で、きれいな部分だけ切り取った"不自然"なものに過ぎないから。そして、グランピング施設は、その土地の自然になじんでいないことから、環境負荷をかけている可能性が高いことも知る必要がある。


複雑さを受け入れる

自然は本来、私たちが考えるよりも、もっと複雑で"混沌"としている。だから、本当の意味で自然と一体となって、ここちよく暮らしていくために大切なことは、その複雑さを受け入れることなのではないかと思う。

自然体な美しさについて考えるために、ここまで"人工的清潔"と"自然的調和"という概念を用いてきたけれど、こうした考え方も単純化し過ぎているところがあるので、注意しなければならない。自然の関係性はもっと複雑なもので、きれいにすっきりと片付けられるものではないと思うから。

例えば、人工的清潔と自然的調和といってきっぱり分けてしまうと、あたかも人間の生活が自然とは切り離されたものであるかのように感じてしまう。グランピングの中の世界は人間だけの世界なのかと錯覚していまう。人工的という言葉を使うと、一からすべて人の手でつくっているのかと勘違いしてしまう。

けれど、清潔に見えるグランピングの中にだって、目に見えない微生物や雑菌は少なからず存在しているし、グランピングの施設がいくら人工的に作られていても、その材料は自然由来のものだ。

こうした人間の世界と自然界という区分は、本来的なものではなくて、人間が勝手に作りだしたものだということは忘れてはならないだろう。人間がいくら自分たちの社会と自然の関係性を切り離して考えようとしても、私たちの生活はイヤでも自然の循環の中にある。(だから、自然の循環から人間の営みがはみ出してしまうときには、必ずしっぺ返しを受けることになっている。)

自然について考えるときに、混沌を恐れ、あまりにも単純に考えたり、きれいなところだけ見ようとすることは、人間の自分勝手な解釈によって自然の本当の姿を見誤ってしまうことにつながる。自然の本当の美しさは、きれいな部分だけで成り立っているのではないと思うから。

自然と向き合っていると、予想通りにいかないことの方が多いだろうし、効率の悪いことも多いと思う。臭かったり、汚かったり、不快に感じていしまうこともあると思う。しかし、小さな人間の世界に閉じこもっていないで、大きな自然に身を投げ出してしまうと、案外そういったことも心地良く感じられたりする。それが本当は一番"自然体"なのだと思うから。

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