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「ペット」

我が家のラブラドールレトリバーが本日10/30 08:30ごろ、肺炎で亡くなり、目の光が消えていく瞬間を見た。泣きすぎて頭が痛いが、目の前で年老いた相棒が生を全うしたこの体験を踏まえて、動物の幸福についてつらつらと意見を述べたい。幸福に考えるためにも、まずは「動物愛護」と「動物福祉」という言葉の定義を再確認する必要がある。

一般的にもよく使われる「動物愛護」(動物福祉と比較して13.4倍の検索数がある:Googleトレンド 2022/05/21)はヒト主体で動物を捉え、共に生きていける社会を目指し、習性をよく知ったうえで適正に取り扱うよう定めている。
対する「動物福祉」は動物のQOL向上を目的とし、「5つの自由」を担保する考え方である。

まず、こう並べると「取り扱う」という言葉を用いる動物愛護に対して批判しやすいだろうが、全く以てそんな暴力的なことをしたいわけではない。

飼い主と飼養されている動物の関係性、その深さは第三者には理解の限界を感じる。実際、僕と彼の関係性とその思い出を誰かと正確に共有することはできない。
愛護や福祉の考えは、こうした密接な関係性の延長線上に芽生えやすいと考えている。飼養される動物への無条件の愛は普遍的ではない。

「主従」の「主」である飼い主という存在について考えてみる。まず、公益財団法人日本愛護協会に掲載している「飼い主に必要な10の条件」はあまりにも抽象的過ぎて、はっきり言って参考にならない。「覚悟」だとか「心構え」などという不規則で不透明な責任感で命を背負って良いのか。

対する動物福祉とは、「動物が精神的・肉体的に充分健康で、幸福であり、環境とも調和していること」を指す。彼らが幸福かどうかの判断はどこまでも悪魔の証明的だし、不毛だとも思うが今回はあえて触れる。彼らの感じる「幸せ」とは何か、再考する必要があるだろう。

公益社団法人日本動物福祉協会では、一つ一つの提言について深堀りがされている印象を受ける。(国際的に認知されている指標だからというのもありそうだが)これはアニマル・ウェルフェアと呼ばれ1960年代から提言されてきたものでもある。ここで重要視されているのは先に述べた「5つの自由」だ。

1.飢えと渇きからの自由
2.不快からの自由
3.痛み・外傷・病気からの自由
4.正常な行動を表現する自由
5.恐怖や抑圧からの自由

イギリスでは「動物のニーズ」として動物福祉法2006 第9条「福祉を保証するための動物の責任者の義務」においてこのFIVE FREEDOMSが書き込まれている。動物福祉の基本として、人間の福祉に近い表現が多い。このように、自らと同等に扱う視点を分かりやすく持ち出してはいるものの、どうしても抽象的な表現で受け取る側の基準で判断されてしまう。

ここでも述べたが、結局のところ僕らヒトは動物が幸せか否かを正確に推し量ることが出来ない。

同様に苦痛を感じているかどうかについても生理的反応から推測するしかない。そうした科学的根拠と受け継いできた知識は、会話が出来ないもどかしさを乗り越えて、ヒトは動物とコミュニケーションを取ることが出来た。動物が幸せを感じているか分からないとはいえ、彼らの幸せを追求しなくてもいいという理屈にはならない。この動物倫理を受け継いで我々ヒトは栄えてきた。

一方で、ヒトはそのノンバーバルコミュニケーションに物を言わせ、動物の感情を無視することが出来るのである。
つまりは言語を話さない動物に対し、我々はこちらから察する動きでようやく動物の変化に対応する。何が原因で鳴いているのかわからない、体色が変化している理由が明確ではない、行動に対する反応は各自の判断に委ねられる要素であり、それは主従関係で成立し解決される。
よって、彼ら動物にとっての幸せは、ヒトの主体的なアクションで位置づけられている。いかに動物のサインをヒトが汲み取れるかで幸せの質も変化するだろう。

「ペット」として飼養される動物は多くの場合、関係性を築き、人間社会にフィットしつつも苦痛の少ない環境で死んでいくだろう。例外はもちろんあるが、どれも環境を生成しているのはヒトである。つまり主従関係によって彼らはようやく生活することが出来る。愛玩動物として生きるのである。 

ゆえに、動物とヒトの対等な関係は、同じ環境では困難であると言える。同じ生活環境の場合、動物をおざなりにすればヒトは快適に過ごすことが出来る。ではなぜヒトは「ペット」、彼らを求めるのか。愛玩動物だからか?

飼い主が飼養する動物に対し、幸せな一生を送るために努めることはあまりにも当然すぎて忘れがちだが、動物とヒトの違いの一つが倫理観の有無であるといえよう。

ヒトの持つ善悪を、動物にも同等に適用しているのである。これは当然のことで、私たちは私たちの倫理観しか知らない。動物たちに倫理観があるのかどうかも分からない。彼らが死にたいと思っていてもそれを感じ取ることが現実的ではない。生きたいと思っている場合も然りである。ビリーはあの死ぬ間際2時間の苦しんでいる時間、彼は生と死どちらを望んでいたのか?
仮に動物が倫理観を持っていたとしても、根底にあるのは生存本能であり倫理観は個体を保護する役割を果たす。恐らくヒトにはこれが通ずる点だ。
改めて言えば、私たちヒトは自らの生活を効率よく循環させるために、彼ら動物と共生してきたのである。盲導犬はその一例である。彼らの盲導という行為を喜んで今を生きているのか?

我々ヒトは種の繁栄のために動物を使役し続けているわけだが、ならばこの必要以上の関係性を途絶えさせ、動物とヒトが、交流不可能にさせることこそがお互いに幸せなのか。馬が蒸気機関車へと変わったように、技術で代替していけば良いのかといえば、そうは全く思えない

我々は動物に触れなければ、肌の質感、彼らの持つ体温、呼吸を感じることが出来ない。
たとえば愛情表現として彼らに顔を舐められる感覚、寄り添われる感覚も体験できず、短絡的かもしれないが、つまるところ動物からの愛情を感じる機会(愛情表現だとされている行為に触れる機会)を失う。
それは動物とは何かを知ることであり、ヒト以外の存在を知ることになる。彼ら動物とヒトを照らし合わせて、自分は何かを知ることになる。それが形態的な違いか、性格的な違いなのか。彼らの存在によって我々は自らの存在を認識できているのだと思う。彼らの体に手に触れ、匂いをを感じ、共に暮らす。生きている別の種族との関係性は、異質なものを取り込む環境を生み出し、共に生きることの難しさと喜びを感じさせる。ヒトとヒトの関係ではない、自分と他者の関係。

僕を含め研究職などに就いていない一般人は動物にたいしてあまりにも無知である。
我々のような知識で生物としての優劣や社会的な縦軸の関係性などでお互いを捉えるには、あまりに不安定で危険だと思う。自然界にしろ都会生活にしろ、ヒトと動物が作用し合っていることは念頭に置くべきだろう。我々ヒトの幸せと、動物の幸せは連動している。動物を家族に迎えたことのある方なら分かるだろう。飼い主はその愛らしさで幸せを感じる。では、飼養動物はどうか。

今日まで生きた彼が幸せだったかどうかは彼にしかわからない。肺炎の犬が、帰宅した僕に尻尾を振り吠えながら出迎えるその真意は、もう今後も分からない。もっと快適な環境を作っていれば長生きできたのだろうかと考えたりもしたが、今出来ることは、もうない。僕に残ったのは久しぶりに感じる他者の死の感覚だった。その感覚は、倫理や理屈を超越して、自分の心に彼のスペースが出来たように思えるものだった。彼は心地よい居座り方をしている。これは彼と出会わなければ生まれなかった心地よさだろうか。
このエゴを感じさせるために彼は生まれてきたのだろうか。

飼い主が「ペット」から受け取る純粋な愛らしさの先に必ず待っているのは生物としての脆弱さであり、彼らは私たちに「死と向き合う姿勢」を気づかせていると思う。




あとがき

亡くなった当日は、彼が僕の顔を舐め回す夢を見て起きた。

「俺は逝くぞさっさと起きろ」という意味だったんだろうな。あいつ自己中だし。




引用

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