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加藤周一のヴォツェック論

 久しぶりに加藤周一の文章を読みました。彼を知ったのは、中高時代に「日本文化の雑種性」という文章を読んだときです。当時は理解するのにとても苦労しましたが、論旨の面白さに惹きつけられ、彼の評論集を手に入れてしまうくらいはまったのを覚えています。
 今回読んだのは、そのとき買った平凡社の加藤周一セレクション4「藝術家の個性と社会の個性」に収められている、「現代オペラの問題−『ヴォツェックをめぐって』」という評論です。この巻は、音楽や絵画、彫刻など幅広いジャンルの芸術を扱っており、各作品の論評がコンパクトにまとまっていたり、作品の図像も豊富だったりと、読みやすい文章が多いかと思います。ヴォツェックの論評もいたってコンパクトで読みやすいものではありますが、作品の根本的な特徴をダイレクトに突いた、非常に鋭い文章だと思います。

1.救済の不在

 ヴォツェックというオペラは、20世紀に無調音楽の旗手となった新ウィーン楽派の作曲家、アルバン・ベルクによって作曲されました。ちょうど第一次世界大戦をはさんで書かれたこの作品は、その時代の暗さを象徴するような陰惨なストーリーを展開します。兵士ヴォツェックは、妻マリーの不倫の疑惑に苛まれますが、ある日彼女が不倫相手の男と踊っているのを目撃し、その疑惑は現実のものとなります。彼はついには彼女を人気の無い沼に連れて行って刺殺した後、追い込まれた自身は沼の中に姿を消していきます。
 この作品を見た人が、割と早い段階で気付くであろうことは、どうやら主人公のヴォツェックは、精神をおかしくしているらしいということです。それは彼の発言などからも分かるのですが、医者に直接的にそう言われることで、決定的になります。いわゆる「精神病」の主人公はオペラではあまり見ないかとも思うのですが、よくよく考えれば、常軌を逸した行動をとる主人公はいくらでもいます。サロメやエレクトラの精神状態はおそらく普通ではないでしょうが、ヴォツェックの場合はその心が「病んでいる」とレッテルを貼られるところに特異性があります。
 とはいえ、ヴォツェックの主人公としての役割、すなわち、苦しみに耐えかね、殺人を犯すというストーリーの軸は、カルメンなどがその典型であるように、古くからの伝統的な役回しであるように思えます。しかしヴォツェックのストーリーがそれまでのロマンティックなオペラと区別されるのは、その結末にあります。オペラ好き、特にロマンティックなオペラの悲しくも美しい結末に浸り慣れている人にしてみれば(私もその一人です)、ヴォツェックが妻を殺して姿を消した後、何も知らない彼らの子供が「ホップ、ホップ」と言いながら木馬に乗っているところで幕が閉まる結末というのは、何か重要なことを教えてもらっていないような、説明不足の結末であると感じることでしょう。加藤周一もこのように書いています。

ヴォツェックの人生は本人にとって苦しかろうし、またたのしくもあろう。要するに主観的にはかけがえのないものだろう、しかし他人と世界にとっては意味がない、消えてなくなっても誰も痛痒を感じない、客観的には無意味だということが、最後の子供のいる場面ではっきりするのだ。

本書p.439

 この結末が殊のほか痛々しいのは、主人公が救済されないのもさることながら、「主人公が救済されない」ことにさえ無関心である登場人物を描いてしまっていることです。おそらくワーグナーであれば、救済されない結末などは描かなかったでしょう。一方、イタリアのヴェリズモ・オペラの作曲家なら、救済されない主人公を、最後に大泣きさせるか、自らの命を絶たせるという結末を好むでしょう。しかしそのような主人公でさえ、「『救済されない』境遇に聴衆が共感してくれる」という救済があったと言えるでしょう。ヴォツェックがヴェリズモ作品と性格を異にするのはまさにその点、どんなに主人公が救済されなかったとしても、その子供でさえ、親の死に無関心なのだという無慈悲な結末を突きつけたところです。
 オペラの聴衆は、どんなに悲しいストーリーであったとしても、何らかの救済を求めている面はあると思います。ワーグナーのような大仰な救済でないにしても、悲劇的な結末に共感することによって、舞台上の登場人物と救済を分かち合います。ところが、ヴォツェックという作品は、そのような聴衆の幻想を見事に打ち砕く結末を持っています。ヴォツェックが妻を刺し殺したところで終わっていたら、カルメンに似た終わりとなったでしょう。しかし主人公はよろよろと沼の中に消え、しかも最後は、彼の子供がこれまでの筋とは脈絡なく、木馬遊びを始めるという、聴衆にとっても理解しがたい、「悩ましい」結末となってしまっているのです。
 さて、その一方で、加藤周一はこの作品の本質を興味深い表現で的確に言い表しています。

 たとえば『ファウスト』という悲劇の主題は二つである。その第一は、人間は生きようと努めるかぎり迷うということ(Es irrt der Mensch, so lang, er strebt.)、その第二は、それにもかかわらず、いかに迷っても生きるのはよいことだということ(Wie es auch sei, das Leben, es ist gut.)である。
(中略)
もし第二の主題だけが彼の一生を支配していたとすれば、彼はアメリカ映画のシナリオを書いたはずである。もし第一の主題だけがあり、同時に彼のあらゆる才能がその主題を追求したとすれば、彼は『ファウスト』ではなく、『ヴォツェック』を書いたろう。

本書p.441

 この表現は、これまでの議論から容易に導き出せるものではないでしょうか。ヴォツェックという作品のストーリーの、ある種の冷酷さを端的に言い表していると思います。すなわち本作の、ドリーミーな面を排したリアリスティックな描写について記述しているといえます。

2.音楽における「劇的感情」

 しかし、加藤周一は、音楽においては、それが無感情なものではない、劇的感情を持ち合わせていると指摘しています。この点に関して、ずばりそれとは指摘していませんが、ベルクの音楽に採り入れられた調性の存在は大きく作用しているとは思います。クラシック音楽における調性は、長い間音楽の根本にあり続けました。しかしシェーンベルクが創始した十二音技法により、その根本は崩され、無調音楽という新しいジャンルが成長しました。シェーンベルクの弟子だったベルクも、無調音楽を自作に大いに取り込みましたが、一方では調性を採り入れて抒情的な音楽づくりも行いました。ベルクの作品を聞いていると、ところどころで美しい箇所が聞かれるのは、そこで調性に基づいた和音が鳴っているというのが大きな要因といえるかもしれません。
 とはいえ、加藤周一があえて劇的感情というからには、調性以外の要因もあるのではないかとも予想できます。つまり、殺人の際の恐怖に満ちた音楽であったり、不倫の愛の止まることを知らない官能的な音楽であったり、あるいはクライマックスのインヴェンションの荘厳な音楽であったりと、場面の情感を高める音楽の創作に成功したという点が挙げられます。すなわち、無調音楽という新しい語法を使いながらも、かつての調性音楽によるオペラが保持していたロマンティシズムの延長線上に、ベルク独自の激烈な感情表現が打ち立てられたということです。加藤周一は、その点に音楽の革新性を見出していたのだと思います。

3.役の構成に見る革新性

 音楽面で上記のような伝統と革新の融合があるとすれば、私個人としては、この作品の役構成についても、伝統的な役と新しいタイプの役が混在していると考えます。伝統的な役にあたるのが、主人公ヴォツェック、妻マリー、そして彼女の不倫相手である鼓笛隊長ということになります。「カルメン」の三角関係を構成する、ドン・ホセ、カルメン、エスカミーリョの三者がそれぞれに対応するといえます。この三者においては、愛の交流とそのひずみによって生まれる嫉妬が、ストーリー展開の大きな原動力となります。そうした愛と嫉妬の攻防は、長きにわたって従来のオペラの筋運びに推進力をもたらしてきました。
 一方、新たなタイプの役とは、大尉、医者、ヴォツェックとマリーの子供ということになります。彼らは主人公ヴォツェックの運命などはどうでもよく思っている、あるいは「どうでもよく思っている」ように描かれていると言えます。大尉はヴォツェックをからかいの対象として、医者はヴォツェックを医学上の「興味深い」対象としてしか見ておらず、彼らの人生からヴォツェックを取り去ったとしても、ほとんど痛くも痒くもないでしょう。子供に関しても、最後に父と母の遺体を見つけて嘆き悲しむというラストを用意することは不可能ではなかったにも関わらず、木馬遊びにいそしむというラストで、聴衆を困惑させるわけです。
 別に、私はここで彼らを道徳的に糾弾しようとしているわけではありません。むしろ言いたいのは、彼らの在り方こそ、現代人の我々の大多数とよく似ているのではないかということです。日々起こる悲しいニュースに、誰もが一喜一憂しているわけではないし、そもそもそのようなニュースを知らずに楽しく日々を過ごしていることだってあるわけです。そのような無関心について、「道徳に悖る」ということができないように、大尉や医者、子供を非難することはできないのです。
 そこがある意味、ヴォツェックという作品の「冷たさ」を生み出す要因であると言えます。従来であれば、敵役や悪役の存在が、ストーリー展開に大きな役割を果たしていました。先ほどのカルメンを例に取れば、エスカミーリョという恋敵の出現が、ドン・ホセとカルメンの運命を決する重要なファクターになります。また、ファウスト(ここではオペラの方)を例に取れば、悪魔メフィストフェレスによって、主人公ファウストとその恋人マルグリートの運命が左右されます。エスカミーリョやメフィストフェレスの存在は、物語において大きな主導権を握っており、聴衆も彼らを敵役あるいは悪役だと認識することによって、不運な主人公への共感を高めたりするわけです。
 別の視点から見ると、エスカミーリョやメフィストフェレスは、例のカップルなしでは成り立たない役回しであるとも言えます。すなわち、ドン・ホセやカルメンなしでは、エスカミーリョは陽気な闘牛士に過ぎないし、ファウストやマルグリートなしでは、そもそも彼らを貶めるために出てくるようなメフィストフェレスの存在意義ですら怪しくなってきます。
 このように、主人公たちと不可分に存在しているような敵役、悪役と比較すると、ヴォツェックに対して大尉、医者、子供という役は、あまりにも没交渉的であり、ある意味事件の傍観者に過ぎない立ち位置といえるかもしれません。おそらく大尉たちを除いたところで、ヴォツェック・マリー・鼓笛隊長の血みどろの三角関係は成り立つだろうし、ヴォツェックたちがいなかったところで、大尉は陽気に人をからかって過ごし、医者は自らの学問的探求を続けることでしょう(子供については木馬遊びを永遠に続けるということは考えにくいですが)。こうした無関心な傍観者のグループを舞台上に見たとき、我々聴衆は、自分たちの偶像をそこに見つけてしまったような、非常に気まずい感覚にとらわれるのではないでしょうか。これこそが、この作品によって引き起こされる困惑の原因であるように思います。

最後に

 最後に、これまでの議論から内容が逸れますが、加藤周一が興味深い文を残しているのでご紹介します。彼は、古典的な作品が「感情的で個性的」であるのに対し、シェーンベルクやカンディンスキーの作品については「抽象的で非個性的」であると表現しました。これに対し、25年後に追記した文章でこのように書いています。

 しかしシェーンベルクやカンディンスキーについては、二五年まえの私が書いたことに、今日の私は必ずしも賛成しない。その二五年の間に、私は折にふれてシェーンベルクを聞き、またいくらかカンディンスキーを見た。彼らがそれぞれ音楽の、または絵画の、新しい語法を生みだしたことは、いうまでもない。しかし決してそれだけではない、と今の私は考えている。

本書p.447

 彼が見出したものは直接は書かれていませんが、おそらくは古典的作品にある個性的・感情的なもの、あるいはヴォツェックで見出したような劇的感情の表出を、シェーンベルクやカンディンスキーで発見したのではないかと推測します。シェーンベルクの舞台作品、例えば「モーゼとアロン」のような作品を見て、ヴォツェックと同じような感情になるかと聞かれれば、私の場合はまだそのような境地にはいたっていないと答えるでしょう。とはいえ、シェーンベルクの音楽の中にも、ベルク並の熱い魂を感じとれたすれば、きっと新たな刺激を受けられるだろうという期待は感じています。そのときを心待ちにしつつ、これからも新ウィーン楽派の音楽に少しずつ馴染んでいきたいと思います。


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