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相変化

「では、今日もね、リモート講義をおこないます。用意はよろしいか」
画面が四分割され、生徒四人のバストショットが映し出されている。
寺島聡子(さとこ)、並木一生(いっせい)、畠山仁(ひとし)、渡辺開智(かいち)の、今年から府立高校に上がる生徒である。
「あたしの講義はね、学校の授業とは直接関係ありません。あたしは教師じゃないからね。でもね、社会に出たら、自分で考えていかにゃなりません。その一つの例として今日は聴いていってください。いつか「横山があんなことを言うとったな」と思い出してくれたら、それだけであたしは十分です」
私は続けた。
「きょうはね、チョコレートの話をします。さとこは先月のバレンタインデーにはチョコを贈りましたか」
ううんとかぶりを振る。
「そっかぁ。男の子たちは、その顔やったらもろてないな」
「もろてるわ。せんせあげよか?」と言ったのは開智だった。
「そら、ごっそさんや。ほんなら、チョコレートを口に入れたときにひやっと感じなかった?かいち」
「冷やして食べるからやろ?」
「それがな、冷やさんでも、室温で溶けてないチョコを食べても冷たく感じるはずや」
「ちょっと待ってや」
開智が席を立って、画面から消えた。しばらくして現れると手に板チョコを持っている。
「せんせ、これな、台所のテーブルにきんの(昨日)から出しっぱなしやってん」
「ほう、ええね。食べてみ」
すると、開智が銀紙を破ってチョコを割り、口に入れた。
「どや?」
「あ。そうやなぁ、冷たい感じがするわ」
すると、聡子も消えて、チョコを持ってきた。
「みんなも、チョコレート持ってたら食べてみてよ」と私が促す。
仁は「ないわぁ、残念」といい、一生も「右に同じ」なんて言ってるが、右は画面の外だった。
「溶けたチョコを口に含んでも冷たく感じないけれど、溶ける前のチョコなら多少なりとも冷たく感じるものなんよ」
「え~。なんで?」
「それをこれから話します。チョコはカカオバターという油脂でできています。包みの裏にも成分が書いてあるやろ?」
聡子も、開智もうなずいている。
「そしてチョコレートが溶けるという現象は、そのカカオバターという油脂が融点に達したことを別な言い方をしているだけやねんね」
「カカオバターはだいたい摂氏34度から体温ぐらいで融点に達しますので、手に持ったらすぐ融解しますね。また舌に乗せると溶けて、まったりとチョコの風味で口内が満たされます」
「ほんと」と聡子がまたチョコを口に入れている。
「そんで溶ける時に熱を奪うのよ」「あ、そうか、それで冷たく感じるんか」と開智が言った。
「そうです。そういうことです。このことを潜熱(せんねつ)といいます」
私はタブレットにタッチペンで「潜熱」と書く。
「潜熱にはほかに、気化潜熱あるいは蒸発潜熱ともいうものがあります。みなさんも水の沸点でのふるまいを小学校などで実験したと思います」
「やったかなぁ」
「やってるよ。水が沸騰すると、いっせい、どうなるんやった?」
「ぼこぼこ言う」
「それから?」
「湯気が立つ」
「温度は?」
「100度」
「100度で?」
「ずっと100度やった…」
「そうです。100度より温度は上がらへんかったでしょ?ずっと加熱してるのに」
「ああ、そやった」
「あれは100度以上の熱をアルコールランプで加えているのに、熱が何かに使われてそれ以上あがらないの」
「そういうことなん?初めて知ったわ」と一生が腕を組む。
「お湯が無くなって空焚きになったら、また温度が上がりだすから」と私が言うと。
「水が熱せられて気化することに熱が使われてたんやね」と仁がにんまりと付け加えてくれた。
「ひとしの言う通りなんです。チョコの場合に話を戻すけど、舌の上で冷たく感じたのは、チョコのカカオバターが融解することに熱が使われている様子を舌のセンサーが感じているわけです」
「ああ」とだれからともなく、得心の声が漏らされた。

このような現象を「相変化」として熱力学では論じられる。
物質には三態があって、固体、液体、気体の3つの状態があり、それぞれを固相、液相、気相という「相」を形成している。
相が変化するときに熱の出入りが観察され、水の沸点での温度が一定になる現象などが典型例である。
相変化にはチョコレートの融解や、氷の融解、またその逆の凝固現象がある。
融点と凝固点は同じだとおおざっぱに考えて差し支えないが、実は熱力学的に精密に観察すると、同じではないことがわかる。
結晶のように整った分子は配列が熱によって、自由に動き回る(融解)と、自由に動き回っている分子が順々に並んで結晶になる(凝固)とではエンタルピー変化(エネルギー変化の一種)が異なるのである。
「積まれた積み木を崩すのと、積み木を積み上げる」のでは労力に差があるだろう?そういうことと考えてもらってよい。

相変化は、じゃあいったいどうやって測るのか?
簡単には、温度計があればことたりるが、荒い実験になる。
水の沸点を測定するていどなら小学生でもできるというものだ。
チョコレートの融解熱(融解潜熱)を測定するにはそんな手段では測定できない。
そこで考え出された方法が「示差熱分析」であり、その装置が「示差熱・熱天秤分析装置、DTA・DSC」である。
精密に重量を測定した微量の試料と、標準物質の酸化アルミニウムを2つの熱電対にそれぞれ置き、直線加熱していくと、融点に達した試料は流動化する過程で熱電対の電圧変化を伴う。酸化アルミニウムは熱変化に安定なために、基準(ベースライン)を描くが、試料側は大きく指針が触れることになる。
これを読み取る(微分曲線)ことで融点に達したことを知ることができ、またその潜熱の量もグラフの面積から積分してエンタルピー変化として捉えることができるのである。
同時にTGA(熱重量分析)が併用されている装置がほとんどなので、相変化による微小な重量変化を捉えることもできる。最初に精密に試料の重さを測定したのはそのためである。

相変化には単分子化合物であれば結晶構造から融解、沸騰、気化(分解)などの経緯をたどるが、高分子化合物などでは分子が束縛されていて一様ではないためにシャープなグラフを得られないが、一部、ガラス転移点のようにはっきりと変化する部分もある。
ゴム弾性などの状態変化も相変化の一種であり、分子間力や水素結合、架橋分子、らせん構造などが相まって可逆的な相変化を伴っている。
可逆的な状態が不可逆的な状態になることを「破壊」と呼んだりしている。
コンクリートや金属が破断する現象や、ゴムが切れるなどである。
破壊が起こる前までは、内部応力で耐えているのである。

内部応力の目に見える現象として水の表面張力が挙げられるだろうか?
ハスの葉の上の水滴は美しい曲面でころころころがるが、あれは水分子がそれぞれ水素結合でもっとも表面積の小さい安定な球形を保とうとしてああいう立体になっているのだった。
その球形を保とうとする球の中心に向かう力が働いており、空気との界面は網目構造で水分子が引っ張り合っている。それが表面張力である。
ハス葉の上できれいな球体にならないのは重力のせいである。小さな水滴になればなるほど球体に近づくはずだし、無重力状態では真球になるにちがいない。

一見、固体であるゴムも、伸ばされると元の形に戻るほうが熱力学的に安定であるから、力を加えることを止めれば元の形にゴム分子(ポリイソプレン構造)に戻るのであった。
ゴムを伸ばし切って、切ってしまうと不可逆に破壊が起こり、ちぎれたゴムの破片の中でゴム弾性が保たれる。
こういったものを塑性変形というが、塑性変形を研究した人がイギリスの物理学者トーマス・ヤング(1773~1829)であり、同じくイギリスの偏屈物理学者ロバート・フック(1635~1703)が研究したバネ弾性がそもそものこの学問の始まりであった。
※「力は伸びに比例する」という意味の、後の人が言う「フックの法則」のラテン語アナグラムが残っている。

物体に力が作用して引っ張られるとき(伸ばされるとき)、その体積は一定を保とうとして(応力)痩せる(ひずむ)のであろうとヤングは言った。
ひずみと応力の関係はヤング率(縦弾性係数)として現在も物性論で扱われる。
ヤングの時代にはゴムがまだ知られていなかったので、もし知られていたらもっと早く気付いただろう。
そしてその力に応じた伸縮の比率はフランスの数学者シメオン・ドニ・ポアソン(1781~1840)によって「ポアソン比」として示された。

だいたい以上のような話を、かいつまんで彼らに聞いてもらった。
「金属は弾性体やないよね」と仁が言うので、
「金属のばねがあるやろ」と私が気づかせてやった。
「あ、そうやなぁ」
「せんせ、金属はたたいたら伸びるって」今度は一生が言う。
「ああ、タヌキの金玉、八畳敷きの話かいな」
前に、金属の展性について彼らに話したことがあった。
聡子が困った顔をしている。
「聡子ちゃんの前で、セクハラやで」と私はたしなめるも、私が言ったことだから説得力がない。
金属の展性は、金箔作りで説明されるが、金の原子が真球であり、その周りを自由電子が取り巻いて金属結合という堅固な結合を生み出しているという話から始まり、なぜそれが叩くことによって、薄く引き伸ばされるのかという話になったのだった。
パチンコ玉を何層も積み上げたモデルを作り、上から押すとパチンコ玉が横に拡がって、層の厚みが減り、面積が増える話をしたのである。
これが金箔になるモデルであり、古来より「たぬきの金玉」の譬えが言われる根拠だ。
これも塑性変形の一種と言える。
金属の塑性変形が刀を鍛え、鋳物を作ってきたのだった。

ロバート・フックが気づいた金属をらせんに巻いたものがバネになることは、人類にとって大変な技術革新につながったのである。
ただ、彼がこのことを人に盗まれないように暗号にして、机の奥深くに隠してしまったので、死後発見されるまで知られなかったから、その時間的損失は大きかった。

金属の展性とバネ弾性にはとても親密な関係にあったのである。
そして産業革命がイギリスから興り、ゴムが発見され、植民地とプランテーションで農業と工業が密接に関係するようになると、ゴム弾性の研究も飛躍的に進んだのだった。
工業的に高分子化合物が利用されたのは、繊維とゴムが最初だっただろう。
また接着剤としての高分子化合物の利用にもつながっていくのである。
あらたな「固化」という熱力学的な物理現象が接着という技術に発展していくのである。

「では、今日のあたしの講義はこれまでとします。高校生になっても塾に顔を出してや」
「はい」「うん、わかった」「またね、せんせ」…

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