見出し画像

生活信条

あたしはエッチには貪欲ですが、それよりも前に生活の信条があります。

一、み仏の誓いを信じ 尊いみ名をとなえつつ 強く明るく生き抜きます
一、み仏の光りをあおぎ 常にわが身をかえりみて 感謝のうちに励みます
一、み仏の教えにしたがい 正しい道を聞きわけて まことのみのりをひろめます
一、み仏の恵みを喜び 互いにうやまい助けあい 社会のために尽します

浄土真宗の生活信条です。

お経はあげませんが、合掌してこの「信条」を毎朝、唱え、六字名号「南無阿弥陀仏」を好きなだけ唱えます。(「なむあみだぶつ」、「なもあみだぶつ」、「なんまんだぶ」、「なむあみだぶ」なんでもいいんです)

一番目は、いたって前向きな「生きていく姿勢」を宣言します。
プログラム言語なら「宣言文」です。

二つ目は、「」つまり阿弥陀仏の本来の姿を仰ぐと説きます。
光の国(西方浄土)から無限の救いの光を降り注がれる仏様です。
まるで「ウルトラマン」です。
ウルトラマンはどこか阿弥陀様に似てませんか?
円谷英二の心の中にはそのイメージがあったと思います。
感謝すること、「ありがとう、いただきます、ごちそうさま」を言うことなどが実践として挙げられます。
簡単なことですが、なかなかできません。

三つ目は科学の心です。
正しい道を聞き分ける、するどい観察眼と洞察力が求められます。
そして真実を広めるのです。

四つ目は真宗らしい教えです。
「社会」という言葉が出てくる宗教の教義は、ほかにあたしは知りません。
少し違和感があるかもしれませんが、社会貢献こそ世界平和に続く一本道なのだと思います。
かの弘法大師も渇水に備えてのため池や、治水のための堤防など社会資本を指導して作らせました。
宗派にかかわらず、「社会貢献」は仏教の根本原理なんだと思います。
「社会」というわかりやすい言葉を導入した近代浄土真宗に拍手を贈りたい。

確かに、浄土真宗は「現世利益」を求めません(それは各自の努力で実現するものだから)。
難行も求めない、念仏を唱えるだけの「易行」で済みます。
「門徒物知らず」と言われても反論はしません。もともと凡夫ですから。

だけど、努力しないんじゃない。
社会のために生きて、学究を厭(いと)わず、平和を希求する心にかけては、どの宗教にも負けない自負があります。

戦中、浄土真宗は戦争に与(くみ)しました。
つらい過去です。
今こそ非暴力を高らかに唱え、実践すべきです。

なお、一部、浄土真宗は「法華経」を否定して仏法を毀損しているから、阿弥陀如来の救いはもとより受けられないという人もいます。
浄土真宗の原理「悪人正機説」でも仏法を否定する悪人は阿弥陀仏と言えども救うことができないと言ってることに起因する反論でしょう。

いつ「法華経」を否定したんでしょうかね。
法然上人がすでに否定していると、反論者は言います。

否定してるんじゃなくって、凡夫は難解な法華経を理解しなくても、「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで成仏できる(浄土に行ける)んだよとしか言ってませんけど。
法華経を教義として学ぶことはべつに構わないが、それを理解することが、現世利益や成仏の必要条件とすることは、あまりにも庶民(凡夫)には難しい。
※法華経や華厳経を正依とし、浄土三部経を傍依としたことに法然や親鸞は反発しただけです。つまりその分類を否定したのであって、法華経を否定したのではないのです。

それでは、みなが救われない。
だから大乗仏教としての緩和策が、阿弥陀様におすがりする「専修念仏(せんじゅねんぶつ)」なんです。

それが一人歩きして、門徒は勉強や苦行をしない、他力本願の怠け者だと揶揄されてきました。

わたしは、欲望に弱い、むさぼることもあるが、暴力は嫌いだ。
それを許してくれるのが阿弥陀如来なんだ。
だから、後ろ向いてても、前向きに生きていける。

そういう思いで、今朝はお勤めをいたしております。
合掌
なむあみだぶ、なむあみだぶ・・
なおぼんは門徒です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?