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叔父

私が、小学校六年生になったばかりの春、父の弟である叔父の高安周(たかやすめぐる)も大阪府立大学に入学したので、学校に近い私の家に下宿させてほしいと転がり込んできた。
※私の家は門真市で、大阪府立大学は堺市にあった。
※父の姓が「横山」で、伯父たちが「高安」なのには事情があって、私の父が若い頃、祖父から男の子の無かった京都の子爵「横山家」に養子に出されたからである。その横山家も零落して今はどうなったか知れない。

父と叔父とは、年がずいぶん離れた兄弟で、これまで交野(かたの)で祖父母と暮らしていた。
私も、従弟の浩二も「めぐるさん」と呼んで兄のように慕っていた。

叔父は、電気工学を専攻しており、彼の趣味もアマチュア無線やラジオコントロールという、当時としては先端のことをやっていた。
私の家は棟割長屋の端で、長屋の中では広い間取りになっていたので、叔父ひとりが住み込んでもまったく問題なかった。
使っていない六畳の一間があったので、ちょうどそのどぶ川に面した南向きの部屋を叔父が使うことになった。
越してきた日から、叔父の無線機やらラジコンボートやらがどっさりと部屋に運び込まれてきた。
浩二の父親である伯父が軽トラックで運んできてくれたのである。
私にとっても、珍しいものばかりで、祖父母の家にいた時に見ていたはずなのだが、こうやって間近で並べられると壮観だった。
「これは何?」
「無線のアンテナや。八木アンテナって、日本人の八木さんという人が発明したんやで」
「ヤギさん?」「八に木ぃでヤギっていう苗字やがな」「ああ」
魚の骨のような物体は「八木アンテナ」として、非常に有名なものだったらしいが、小学生の私にはさっぱり初耳だった。
手のひらに乗るような模型用のエンジンや、電気部品のたくさん入ったパーツケース、電線の束、工具類、さながら工場のように、一夜にして六畳間が変貌した。

それからひと月で、我が家の屋根の上にアンテナが立ち、叔父の部屋は秘密基地になっていた。
私も学校から帰ったら、まっすぐに叔父の部屋に入り浸った。
「なおぼんも、無線、やってみぃひんか?」
「え?そんなむつかしいこと、無理やわぁ」
私はその頃、常盤アローズという少年野球チームでライトを守っていた。
でも男の子たちにバッティングや走塁で負けていて、あまり面白くなくなってきていた。
エラーも多いから、ライトのポジションを五年生の男の子に譲るように監督から言われてもいた。
「小学生でも免許取ってるんやで」
その一言が私の心を動かした。
私も、無線をするには免許がいることぐらいは知っていた。
それも国家試験という、たいそうな試験を突破しなければならないことも。
そしてそれは大人しかできないものだと勝手に思っていたが、小学生でも国家試験をパスして無線をしていると叔父が言うのである。
「ほんと?」「ああ、ほんとや。ほらこの雑誌見てみ」
叔父が開いた無線の雑誌には、私くらいの男の子がマイクの前で話している写真があった。
彼のコールサインが、誇らしげに無線機の上に飾ってある。
「この子はアワードを取った初めての小学五年生や」
「へぇ」
「小学五年生」という言葉が、私を燃えさせた。
私は六年生である。「やったる。やってみる、おっちゃん」「ほうか、やるか?」
私はあくる日、さっさと常盤アローズを辞めてきた。
「あたし、アマチュア無線の試験受けますんで、野球、やめます」
「なんやそれ?」と監督。
「だから、国家試験を受けるんです」
「わ、わかった。まあ、がんばりぃな。今までようがんばってくれたさかいに、みんなにはおれから言うとくわ」
と、そっけなく監督が言ったが、私はかえってそのほうがよかった。
「アローズにとってあたしなんか、その程度のもんやったんや」
私には、これっぽっちも未練はなかった。

とりあえず十月の試験に向けて、私は叔父から特訓を受けた。
教科書や問題集も叔父が梅田の旭屋書店で買ってきてくれた。
母が、「そんな難しいもん、小学生にできますのん?」と驚いて叔父に訊いたくらいだった。
「だいじょうぶです。なおぼんやったらできます」なんて、勝手なことを言っている。
父がビールを傾けながら「やってみ、なおこは、できる子や」などと、ごきげんさんだった。
だいたい野球も父が私に、けしかけたのだった。

電気計算もさることながら、漢字の難しさに私は早くも挫折しかかっていた。
「これ、なんて読むの?」「逓倍(ていばい)や」「ほな、これは?」「励振(れいしん)」
わたしは読み仮名を振っていった。
√(ルート)が出てくる、累乗が出てくる、算数からいきなり数学になった。
六年生の私には、ここはすっとばして問題と解答を暗記することにした。
「だいたいな、同じ問題が毎年出るねん」と叔父は涼しい顔で言うのだった。
「六割できたら合格や」とも言った。
右ねじの法則だの、フレミングだの、意味不明だった。手が吊ってきた。

六年生の夏休みも、学校の宿題をそっちのけで「法令」に取り掛かっていた。
これまた「読み仮名」を振っていく作業に終始して、意味などわかりっこなかった。
よくあの小学五年生の男の子はこの試験を突破したもんだなぁと、改めて感心していた。

夏は、アマチュア無線家にとって「稼ぎ時」だそうで、叔父も交信に忙しかった。
144MHzを叔父は主に運用していたので、このバンドではあまり遠いところと交信できないものらしいが、夏は違った。
スポラディックE層というVHFの電波を跳ね返す電離層が昼間に突如現れるそうで、それが現れたら、この大阪から四国や九州、東は東海地方などと交信できるのだった。
叔父はその「突如」を期待して、無線機に耳を澄ませていた。
「おお、ファイブエリア(四国)が聞こえてる」「どこどこ?」
私は、叔父の机に飛びついた。
「香川やな、さっきは和歌山の局が強く入感してたし」と叔父。
「交信してみたら?」
「呼んでみよか」叔父がメモを取りながらマイクをつかむ。
果たして、四国の局は叔父の呼びかけに応えた。
かなり強く、入感しているようだ。
私も興奮した。
こんなに遠くの人と話ができるなんて…
見ず知らずの人と、話すというロマンを感じずにはいられない。

私の勉強の励みにもなった。

十月、担任の中村操先生にアマチュア無線の国家試験を受けるので学校を休ませてくださいとお願いした。
「せんせ、あたし、もしかしたら落ちるかもしれへんから、みんなには内緒にしててください」
と、小さく言った。
「横山さん、今からそんなことでどうすんの?余計なことを考えずに頑張って来なさい。だれにも言わないから」
にっこりと先生は笑って背中を押してくれた。

試験場は大阪のテレビ専門学校だった。
叔父がついてきてくれた。
受験票を持って、試験を受けるのは算盤の検定試験以来だった。

ドキドキすると、お腹の調子が悪くなる私だった。
始まる前にお便所に行った。
なんか緩い、下痢気味だった。

結果は不合格だった。
初めて絶望を味わった。
叔父は「まあ、ようやったほうや」そう言って、ケンタッキー・フライド・チキンをごちそうしてくれた。
初めて食べたフライドチキンはクセになるようなおいしさだった。
父も母も「ようやった」と褒めてくれた。
私は、中村先生にだけ、ほんとのことを話そうと決心していた。

職員室で先生の机の方に行くと「せんせ、あかんかった」と小さな声で告げた。
中村先生は私の肩を抱いて「いい経験したね。横山さん」と言ってくれた。

先生は、このことを誰にも言わないでくれた。
そして私は小学校の卒業式を迎えた。
卒業式のとき私たちは一言ずつ、夢をみんなの前で言うことになっていたが、「私は将来、アマチュア無線技士になって世界中の人たちと交信して友達を作りたいのです」と宣言したのだった。
袴姿の中村先生が私のほうを見て、拍手しながらにっこりとうなずいてくれていた。

私は中学に上がったその秋、国家試験に再チャレンジしてなんとか合格を手にすることができた。
免許を受けた「JF3」のプリフィクスは、いまも私の宝物だ。
そして今度も、ケンタッキー・フライド・チキンをごちそうしてもらった。
私はここの、コールスローサラダが好きだ。

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