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古傷 (2)

おれは、やましい心を持ちながら、家に帰ると、ガレージから車を出した。
施設に家内を迎えに行かねばならないのだ。
18時15分に小規模多機能ホーム「かざぐるま」に着いた。
夕食の時間らしく、テレビを見ながら利用者たちがテーブルについていた。
「こんばんは、上条です」
おれは、玄関で呼ばわった。
フロア主任の岡本礼子がおれをみとめて、家内に知らせる。
「須磨子さん、ご主人がお迎えにこられましたよ」
妻の須磨子が、食事中で顔を上げ、無表情におれを見る。
前はもう少し表情が豊かだったが、去年あたりからそれも乏しくなってきた。
来客用のスリッパに履き替えて、おれは須磨子のところへ歩いた。

天井の高いホールは、開放的で、北欧調の木材が多用された明るいたたずまいだった。
利用者はほぼ高齢者であり、須磨子のような六十代の高次脳機能障害者は、まだ若い方だった。
「来たよ。なんだ、またたくさん残してるな」
おれは、彼女の食器を見てそう言った。
「これでも、食べたほう」
たどたどしい、口調で須磨子が答えた。
「お薬、飲むかい?」「うん」
おれは、彼女が持参しているピルケースから薬を出してやった。

介護士の西田聡美が食器を下げに来る。
「上条さん、お下げしますね」「あい」
須磨子が、会釈した。

おれが須磨子に出会ったのは、田中真由美とつきあっていたころと重なる。
というより、真由美よりも須磨子と知り合ったほうが早かったかもしれない。
おれは、前の会社に入社した当時、市内の英会話教室に通っていて、そこで小倉須磨子と出会った。
真由美との間にすき間ができはじめていた。
会えばセックスをするだけのマンネリズムと、共通の話題の少ない間柄が埋まらなかったのだ。
社内の飲み会で急接近したカップルの倦怠期にさしかかっていたのかもしれない。
そこに須磨子という、おれより五歳も年上で教養のある女性は魅力的に映った。
真由美のおとなしすぎる、何を思っているのかわかりにくい性格とは違って、しっかりと自分を持った須磨子におれは惹かれていった。
幼稚園教諭をしていた須磨子は、英語の上達もおれより早く、そのとき、付き合っている男性もいたらしい。
しかし、その男性とは不倫関係だったようで、破局した時期、おれと「食事でも」と誘ってきたのだった。
もとより、好意を抱いていた相手だったので、おれは渡りに船とばかりにいそいそと須磨子についていったわけだった。
もうそのときには、真由美をうっとうしく思っていた。

真由美を振り、その会社にも居づらくなって辞め、須磨子と婚約した。
須磨子は、自分が年上だということを引け目に感じていて、なかなか結婚を承諾してくれなかった。
おれは三十だった。
真由美と違って、須磨子は男性経験もあったから、たちまちおれのほうが夢中になってしまった。
スレンダーな須磨子の体におれは陶酔して、是が非でもゴールインしたかった。

ささやかな結婚式をして、住んでいた賃貸マンションを引き払い、近くの中古住宅を購入して新居とした。
彼女がすでに三十半ばを過ぎていたので、子供には恵まれなかった。
今思えば、それはそれで良かったのかもしれない。

たくさんの薬を飲み終えて、須磨子がおれを促した。
「帰ろうよ」
「あ、済んだんだね」
おれは車椅子のブレーキを解除すると、須磨子を押して玄関に向かった。
いつものパターンだった。
「岡本さん、帰ります」
「お疲れ様ぁ。すまこさんも、またあしたね」
「あい」
ぺこりと須磨子がお辞儀をした。

おれは、いったい何をやっているんだろう?
また、ぞろ田中真由美に会って、やけぼっくいに火をともすのだろうか?
この無邪気な須磨子を、裏切って…

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