音楽理論を逆手にとって自由になりたい 前提となる問題提起編

さて、結構アグレッシブなタイトルにしてみましたがどうでしょうか。

最近、「二重調性メソッド」なるものを構築しようとして四苦八苦しているわけですが、それが少しまとまりそうなので、まとめようというのが今回の趣旨になります。
詳細、というより四苦八苦の跡はTwitterの方を見てもらえるとわかるかもしれません。


音楽理論は唯一無二なのか

私たちが日ごろ聞いている音楽のほとんどが、ある音楽理論に基づいて構築されています。
今回、私はこの音楽理論を便宜的にバークリー式と呼んでおきたいのですが、実際にはその他にも様々な音楽理論が存在します。

例えば、Sound Questさんをみてみると、

今現在でも「音楽理論」と言えばまず「古典派理論」と、「モダンジャズ理論」がメジャーな“二本柱”として立っていると思ってもらえれば、イメージとしてかなり実像に近い

とあります。
この「モダンジャズ理論」が、バークリー式と私が呼んでいるものになるわけですが、少なくとももう一つ、古典派理論というものが存在することが分かります。
この古典派というのは、基本的には西洋クラシック音楽の理論ということになりますね。

ほかにも、私が知る限りではありますが、バークリー式を批判的に発展させる形でリディアンクロマチックコンセプトや不定調性論などが存在しています。
恐らく、音楽理論は他にも無数にあるはずですし、そのような音楽理論では説明がつかない音楽も世の中にはたくさんあるはずです(※1)。

しかしながら、音楽理論でググってみると、バークリー式=音楽理論として説明がなされているHPにたくさん行きつきます。
音楽理論をメタな部分を含めて真面目に学ぼうとすると、これほど不自然な状況はありません。

誤解を恐れずにいうと、サッカー選手が「スポーツとは足でボールをゴールに運ぶものだ」、と発言して憚らないような状況です。
世の中にはラグビーも、カバディも、ポロも、e-Sportsもあるはずなのに。
スポーツは世の中に無数にあり、ルールも無数にあり、ルールが体系化されていない新しいスポーツも恐らく無限にあるはずです。


ではなぜバークリー式=音楽理論と呼ばれるのか

を考えてみましょう。

答えはおそらく簡単です。
冒頭の記述を思い出してみましょう。

私たちが日ごろ聞いている音楽のほとんどが、ある音楽理論(バークリー式)に基づいて構築されています。

これです。
(括弧内は付け足しましたが。)

私たち、少なくとも日本に生まれた人々のほとんどが、生まれてからずっとバークリー式にもとづいた音楽を聞いて育ちます。
テレビやラジオだけでなく、店内放送ですら、ほとんどがバークリー式にもとづきます。

このような状況下で私たちはバークリー式の音楽理論を無意識のうちに学び、それに基づいて感覚をチューニングし、それを内面化してきました。

少し分かりにくいかもしれませんが、これは母語学習に似たものです。

この文章を読んでいる人のほとんどすべてが日本語母語話者であるかと思います。
その中で日本語文法を完璧に理解している人はどれくらいいらっしゃるでしょうか。
助詞の「が」と「は」の使い分け方を完璧に説明できる方は?
そう、別に日本語文法を完璧に知っていなくても、日本語が操れ、文章を読み、書くことができるのです。
そして、
「彼が彼女の言いつけを守って制限速度内で車を走った」
の違和感に気が付くことができます。
さらに、
「彼は彼女の言いつけを守って制限速度内で車を走らせた」
と修正することが可能です。

同じように、音楽理論(=バークリー式)を浴びるように聞いてきた私たちは、そこから逸脱したものを「違和感」あるいは「気持ち悪さ」としてとらえる能力を備えています。

もう少し、音楽をもとに例示してみましょう。
私は大学に入りジャズ研究会に入ったわけですが、全く音楽をやったことのない超初心者にとりあえずアドリブソロをやらせると、バークリー式にもとづいて間違いなく正しい音を出そうとします。
もっといえば、運指やアンプシュア等々のミスを除けばそこで出てきた音は正しい音です。
「自由に音を出せばいいんだよ!」
と教わるにもかかわらず。

このような形で、私たちはバークリー式を無意識の中に学びとり、そこから逸脱したものを「違和感」「気持ち悪さ」としてとらえる認識枠組みを感覚として身につけているわけです。
こういった学びのあり様を、ひとまず「ハビトゥスとして身につける」と呼んでおきましょう。
(ハビトゥスについての説明は割愛。どうしても知りたい方はコチラをどうぞ。)

このようにして、私たちはバークリー式をハビトゥスとして身につけているので、音楽を作ろうとすると知らず知らずのうちにバークリー式にもとづいたものを作り出すわけです。

そして、その感覚的に行ってきたことを言語化するにはどうすればよいのか。
バークリー式を音楽理論として言語で、体系的に学べばよい
わけです。

こうして、バークリー式=音楽理論という図式が生じてくるわけです。
私たちのほとんどがバークリー式をハビトゥスとして身につけてきたからこそ、
「私たちの音楽に対する感覚的な認識枠組みをハッキリさせるには、バークリー式を学ぶことが最も近道」
という構図が成り立つわけです。

このような状況では、私たちがバークリー式を普遍的な音楽理論として権威化することは無理もありません。
私たちの感覚的な認識枠組みに最も近いのがバークリー式なわけですから。
しかし、ここでいう「私たち」とは、バークリー式が膾炙している「私たち」なのです。


バークリー式を権威化する無限ループ

以上のようにバークリー式をハビトゥスとして身につけた私たちの中から、音楽を作り、バークリー式を学び、音楽を作るミュージシャンが現れる。
そして、そのミュージシャンが生み出したバークリー式にもとづいた音楽を私たちが消費する。

これを繰り返すことで、バークリー式はより堅固な権威として成り立っていきます。
ここで個々人は単に自分の好きな音楽を聞き、作っているにすぎません。
そのため、バークリー式の権威化は個々人の行為に還元できない創発特性として現れたものとなります。
ウェーバー的にいえば、「鉄の檻」でしょうか。


いったん、このへんでやめておきましょう。

ともあれ、バークリー式を脱構築、脱本質化することはできたように思います。

もちろん、バークリー式の中にも様々な無限の表現の可能性はあります。
日本語でできた無数の小説、論文、評論、詩があるように。
ただし、これらの小説、論文、評論、詩は、日本語に表現し得ないものは表現できません。
であればこそ、明治期の知識人は外国語を日本語化した造語を作り、現代のわれわれも外国語から借りてきて無数のカタカナ語を生み出してきました。

音楽も同じなのではないでしょうか。
バークリー式では表現できない何か、そしてその他の理論、あるいは理論化されていない音楽でしか表現できない何かが存在するはずです。
逆もまたしかりですが。

私の言う、「音楽理論を逆手にとって自由になりたい」という言葉は、この営みを意味します。

バークリー式を逆手に取り、脱本質化する演奏を行うことで、音楽理論=バークリー式という鉄の檻を外から眺め、他の音楽理論、理論化されていない音楽を輸入する余地を生み出していきたい。


まぁ、アマチュア音楽家にすぎないわけですから、大それたことなわけですけども。


(※1)一例として、灰野敬二を挙げてきましょう。






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