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銀ソーダ個展 鑑賞「久留米編」

今年から両親が佐賀の祖父の家に引っ越し、祖父と両親に会いに行ってきた。これが所謂「帰省」となるのだろうが、私が上まれ育った家というわけではないので、お盆の定番行事の「帰省」に当たるのかどうかはわからない。
佐賀の家は西鉄久留米からバスで行ける場所であるので最寄りは久留米である。まあ最近は久留米まで両親に迎えにきてもらうのだが。
両親に会い、祖父の調子を伺い、夕方に帰路に着いた。その帰りに伺ったのが西鉄久留米駅の近くで開催されていた銀ソーダさんの個展である。
銀ソーダさんの最近の活動は怒涛である。連続で個展をやっている印象だ。そのせいか作品はいつにも増して輝いて見えた。「人に見られる」というのは作家にとっても作品にとっても磨きを与える。私はそう思っている。
最近の銀ソーダさんは大きな画面に描き、それからいくつかの小型の作品を切り出すという手法をとっている。私の記憶だと年末から今年にかけての展示からと思う。
そういう手法なら最初から小さな画面に描けばいいのではないかというと違う。実際に作品を見ると大きな画面から切り出すという意味が説明はできないまでも説得力が伝わってくる。
「切り出す」という言葉が適切ではないのか、「抽出」とでも言おうか。
小さな画面では本来生み出すことのできないダイナミックさを感じるのである。
そして切り出す前の大画面の作品もまたすごいのである。
まず見た時の印象が「絵」ではないのである。当然それは絵なのであるが、それよりもエネルギーというか、私はそれを「生命感」や「生々しさ」と感じたのだが、それは作家の感情だろうか、そういったものを感じるのである。
作品を見て「うわっ生々しいな」というのが今回の銀ソーダさんの作品を見た最初の印象である。
支持体であるキャンバスの布地感、マットな絵の具、ツヤのある絵の具が画面の中で渦巻いている。そして場所場所で見られるヒビ、裂け目。そういった作家の預かり知らぬところ、計算の範疇外で生命感が増しているといったらいいのか。だからと言ってそういった範疇外が作家の実力の含まれないかというとそうではない。それは陶磁器の釉薬と同じようなもので、計算外の部分も作品に取り込めるのが作家の力そのものだろう。
美しさだけではない、おどろおどろした部分も含めて表現しているように思った。そこのところに私は惹かれるのである。

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