見出し画像

何者かになる

『何者かになろうとしなくてよい』
と以前読んだ本に書いてあった。
あなたはあなたのままでよいのであって
「他の何か(誰か)」みたいになろうとしなくてよいのだと。
花に例えてすみれにはすみれの良さがあって
ひまわりにはひまわりの良さがある。
もてはやされるバラやユリになろうとしなくても
十分に美しいしそれぞれの持ち味があると。

いまいちピンと来ていなかったがようやく分かった。
この社会全体を眺めた時、これがよいと“されている”
画一的なモノやスタイルやあり方が溢れていて、
そうあらねばと自分をその型にはめ込もうとしている人が
沢山いるのだということに気付いた。
そして私もその一人だった。
 
“よいとされているもの“はあらゆる所にあって、
私たちは小さな頃から刷り込まれていく。
こうあらねばならない、
そうなるように努力しなければ、
そうでない私はダメだ、
などなど。
でも、一体誰が決めたのだ?
それがよい、などと?
 
すみれもひまわりもバラもユリも
それぞれの良さがあるではないか?
私たちにもそれぞれの良さがある。
工業製品のように同じ規格である必要なんてあるだろうか?
 
幼い頃から自然に十分触れて育った子どもらは
自然の美しさの多様性を受け入れる。
そして自分もまた自然の一部であり美しいのだ
と気付いていく、と読んだことがある。
私たちは工業製品ではなく自然の一部なのだ。
無数の刷り込みに惑わされて何者かになろうとして
本来持っているよさを発揮出来ないなんて
勿体ないではないか?