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どうしようもなく弱い人間の最大の強みと、AI

ゴールデンウィーク休みに、スキューバダイビングのライセンスを取りに伊豆へ行った。

空気の入っているタンク、潜行のための重り、ドライスーツなどの器材の陸上での総重量は約25kg。これをビーチで身にまとい、息を切らしながら入水する。

水に入ってしまえば重さは浮力で相殺されるものの、今度は波と浮力に対応することになる。

水の中でたくさんの器材を身にまとった体は、まるで着ぐるみを着たマスコットのような、陸上でのそれとは比べ物にならないくらいゆっくりで不器用な動きになる。

当たり前だが、陸と同じように呼吸はできないから、タンクから伸びたホースからの空気を口から吸う。
鼻は完全にマスクでふさがれているから、普段の呼吸と全く勝手が違う。
普段は無意識にできる呼吸が、海に潜った瞬間、100%意識を向けて積極的に行わないと命に係わる問題になるのだから、一大事だ。

海水が不意に目に入れば多少焦るし、目が痛くなる。

口に海水が入れば無性に真水が欲しくなる。

こうやって海に潜ってみると、本来水中に暮らす生き物でない人間が水深十数メートル、時にそれ以上を数十分にわたって泳ぐ、ということ自体がいかに常軌を逸した行いであるか、思い知らされる。


伊豆の海には思いの他たくさんの、色とりどりの魚たちがいた。

そして驚いたことに、彼らはダイバーがゆらゆら泳いでいても全く逃げていかない。
それどころか、「なんだこの、のろまな大きい魚は」といわんばかりにこちらの様子をそばで観察しているようだ。

こちらを伺っている魚たちは、水中という環境において、私たち人間より相当優秀だ。
彼らは体に酸素ボンベをつける必要もなければ、視界を確保するためにマスクをつける必要もない。その上ダイバーと比べ物にならない速度で泳げる魚たちにとって、口にくわえたチューブが命綱の人間など水中で対面したところで脅威ではないのだ。


自然の中で生身の状態であるとき、人間は他の生物に比べて、往々にしてかなり無力だ。

チーターとの追っかけっこや、象との力比べには到底勝てないし、鷹の視力、犬の聴力と比べた人間のそれは相当に劣る。

食べ物はそこらへんのプランクトンを食べるわけにはいかないし、転んだり、他の動物にひっかかれようものなら、むき出しの皮膚はすぐに傷ついてしまう人間は、自然に放り出されて生き残るには、あまりにデリケートな生き物だ。

それでも、スーパーマーケットから自分が生産したわけでもない食料を手に入れたり、飛行機で空を飛んだり、器材を身にまとって海に潜ったり、他の生物には明らかに劣る身体能力をよそに発展を遂げた人間が、彼らを圧倒する能力として備えていたのが、言語、論理的思考、創造性、問題解決能力などの、「考える力」だ。

それは道具や技術の開発、言語の発展、集団として機能することを可能にし、人間は文化と芸術を通してコミュニティを強化することで、新たな技術や発明を生み出してきた。

これまでの産業革命で、手作業が機械に肩代わりされたと思うや否や、製鉄や造船も機械化、電気と石油によって大量生産が大きく加速した。
コンピューターが単純作業を自動化するようになると、産業用ロボットは運搬・溶接・検査といった作業を代替してくれるようになった。

危険を伴う肉体労働や、創造性の求められない単純作業は機械に任せられるようになり、私たちは、考えることにより時間を使えるようになった。

そして今、人間の発展を可能にしてきた「考える力」それ自体の自動化までもが、実現しつつあるのだ。

そうなったとき、人間には何が残るというのか。

今年3月、Microsoftの新しいAIツールの紹介では、スピーカーが子供の卒業パーティーのスピーチをAIに代行させるという内容のデモが説明された。
そんな最も人間らしいやり取りまで私たちはAIに任せたいのだろうか。

新しい技術、それがもたらす可能性、それを世に知らしめることは、株主のサポートが要となる企業にとっては欠かせない。
技術開発を進めよ、と世の中が出資するなら、後先考えずそれに応じるのが理にかなったシステムの中で、私たちは生きている。

そして一方、株主・消費者は、それら技術が私たちの生活を長期的に本当に良くするのか、判断し、投票する力がある。

新しいモノが世の中に浸透していく際、私たちは画期的な側面を喜ぶと同時に、それがどんなマイナスの側面をはらむか検討し、規制を加えることで、その技術を活かしてきた。

例えば車の登場は、利便性と共に自動車事故を生み出した。
それでも私たちは車がもたらす利益を最大限に生かす方法として、交通ルールを整備したり、シートベルトの機能を向上したりして、車のある社会を維持している。

AI技術は未知の可能性を人類にもたらすと同時に、それが制御不能となる前に、使い方・ルールを考えなければ、人間の最大の強みである「考える力」までもとってかわり、人間はいよいよお払い箱、その全盛期に幕を閉じるというわけだ。

今年3月に、GPT-4よりも強力なAIシステムの訓練の6カ月停止を呼びかけるオープンレターを公開した、MITの物理学者で米国の非営利団体 Future of Life Institute 創始者でもあるマックス・テグマーク氏は、AIシステムの制限のない性能の向上にはらむ危険について、「私たちは崖に向かって歩を早め、その景色は近づけば近づくほどよくなるもの」と警鐘をならす。

イスラエルの歴史学者であり、大学教授 、世界的ベストセラー『サピエンス全史 』の著者であるユヴァル・ノア・ハラリ氏は 、今年3月のNew York Timesで「人類が高度なAIと最初に接触したのはソーシャルメディアだった。しかし、我々はこれに敗れた。」と述べている。
SNSは、多くの人を没入させ、気づけば多くの憎しみが存在する世界を生み出し、人間が建設的な会話をする妨げとなってしまった。

世界はこれまで、効率化という目的に向かって競い合ってきた。
効率化の行き過ぎで環境が破壊されたり、人と人とのつながりが希薄になったりすると、特定の人や会社を指差して、あの人のせいだ、あの会社のせいだ、と言われがちだが、本当に糾弾されるべきはその負のシステムに存在するMolochである。

Molochとは前のNoteでも説明した、社会における個人/集団の競争を表す比喩的存在、個々人の目標の追求が全体の利益の破壊につながる、全体の底下げレースを生み出すシステムの存在を指す。

「MolochによるMolochのための」、あるいは「人間による、Molochのための」、という世界はナンセンスだ。

誰もより不幸になりたいわけではない。

だが個人の利益を追い求めるうちに、誰も抜け出せない負のレースに参加するよう、Molochは仕向けてくる。

だから私たちは、人間の最重要リソースである「考える力」までも腐らせてしまう前に、「人間による人間のための」新たな知能の扱い方を考えていかなければならない。






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