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実家を家族葬ハウスにしました。

「じさを荘」ときたま日誌①


だれも住むことなく逝った父の家を「家族が集えるセレモニーハウス」として使ってもらっています。

illustration©️KUM

遠目からいったい何の場所? 
引戸の玄関には写真のように暖簾をかけ、和風旅館っぽい装いにしてもらっています。ご利用いただいている「あゆみセレモニー」のアイデア(スタッフの発案&デザイン)です。
父も変わったひとでしたが、一日一家族限定で「旅館みたいに寛げる場にしてもらおう」という川原さんもちょっと変わったひとです。
わたし(中のひと)の本業はライターなこともあり、ここでは川原さんから聞いたことなどを忘れないうちに書きとめていきます。

父がなくなったのは、東日本で震災があった年でした。生まれは関東大震災の年、神戸の震災では建て増しを重ねた家を失い、と震災に縁の深い人生でした。

一年にわたる遺産相続のゴタゴタが片付いたのち、父がのこした家をひきつぎはしたものの、はてさて、これからどうしたものか。庭木が多く剪定だけでも年々けっこうな負担になり、思案した結果、父の葬儀のときに霊柩車の助手席に載せてもらった川原さんに、家族葬専用の場所として借りてもらうことにしました。
「ふつうの日本家屋を、葬儀会館にしているの、僕は聞いたことないですね」
という川原さんの言葉が後押しになりました。

ここ数年、近くの幹線道路沿いにはコンビニエンスストアを転用したような葬儀場が増えています。駐車場もあり少人数が集まるにはちょうどいいサイズなんですね。どこも似たような造りです。
それに比べ、じさを荘は庭があってヘンに大きいし「ここ、だれか人が住んではるんやないの?」と言って、おかしがってもらえるのがいいなあと思っています。決めるまでには、ご老人の共同ケアハウスにするとかシェアハウスはどうかとか、いろいろ考えましたが。

川原さんは、霊柩車や寝台車(病院などからご遺体を搬送する)のドライバーをされながら、のちに独立し葬儀社を起ち上げられたのですが、出会った頃はまだお名前は「水野」さんでした。
水野から川原に名前を変えられるのは結婚(再婚だったか再々婚だったか?)を機にだったのですが、
「書類の書き換えとか、手続きがめっちゃメンドウでした」
と話すことはあっても、名前を変えることじたいにこだわりがないのが彼らしく、その話はまたあらためてしてみようと思います。

わたしの父親はヘンクツなひとで、震災で実家が半壊し、やむなく側にあったプレパブの物置小屋に畳を運び入れ、炊事場やユニット風呂を増設して住んでいたのですが、まわりから震災のつめあとが薄れかけていった数年後、実家はもともと兼業農家(父はサラリーマンで、主に母が従事するサンチャン農家といわれた)だったもので離れた場所にもってた畑地に突然新しい家を、それも、でっかいお屋敷(呆れました)を新築したんですね。
年に数回も帰省してなかったので「家、建てたでえ」という父のドヤ顔にも驚いたのですが、それ以上に不思議なことが。

家を建てたのだから、当然親族親戚ご近所も含めた周囲は、父はそこで暮らすものだと思っていたのですが、いっこうにプレハブから動こうとする気配がない。
毎日、犬の散歩と新築の家の見回り(セコムに毎月高いお金も払っていた)。わずかばかりの野菜作りに通いはするものの、なくなるまで10年近く、増設に増設を重ね半ば九龍城化していたプレハブの仮設家に住まい続けていました。もともとは建築現場とかによくある簡易なハコですから、夏は暑く、冬は極寒。不便だったろうに(イラストはカワイく描いてもらいました。日曜日大工の好きだった父のセルフイメージではこうだったのかも)

illustration©️KUM


あ、そうそう。晩年、父の趣味は赤十字などに寄付して賞状を集めることでした。日射病で倒れて入院し、車椅子を利用するようになったときには病院に車椅子を数台寄贈していました。
見舞いに行くと、「あれ、見たか?」「なに?」というと、車椅子を押させてナースセンターの前まで連れていき、指をさし「イチ、ニイ、サン…」と背に「寄贈」と父の名前が書いてある車椅子を数えてはドヤ顔をしていました。
黙っていれば奥ゆかしい善行なんでしょうけど、感想を求めて見せたがるんですね。ホメられたい性分というか。最近、そういう父に似てるかもとおもうことがあり、自分にゾッとしたりします。

母がなくなったあと、父は離れで暮らしていた兄夫婦と喧嘩がたえず、追い出すかたちで独居するようになりました。
よくある話ですが、お手伝いさんとして来られていた年配女性といつの間にか生活しはじめ(同棲というのか)、親族で大騒ぎにもなりました。家を建てたのはその後だったので、だからいずれ頃合いをみて新居で二人暮らしをするつもりなのだろうと。
しかし。帰省の都度、様子をうかがいはするものの、まったくその気配もなく。では何のために父は家を建てたのか?

父なりの考えがあったのでしょうが、お手伝いさんだった女性(おそらく父は自身の老後を介護してもらうつもりだったのでしょう。その算段ははずれ)が病気で先に他界され、またひとりになり、新築の家に飾った募金の感謝状を眺めるのを日課に、愛犬とプレハブ暮らしを続けたのですから、まあ、変わった父だったと思います。

だから父がなくなり、誰ひとり住むことのないままの、この家をどうしたものか。
18の歳に実家を出て大阪を転々、その後東京暮らしをするわたしには、郷里に戻って生活するという選択はまったく考えられず、困ったなあ。そう思っていたときに、
「あの家、どうされるんですか?  ぼくに貸してもらえませんか?」
と声をかけて来られたのが川原さんでした(父の葬儀はその家でしました。母や祖父母のときも自宅葬でした)。その頃には川原さんは小さいながらも独立し、町の葬儀社の社長さんになっておられていたんですが、いいですよ、とわたしも即答してしまっていました。

父の葬儀のときに霊柩車の助手席に乗せてもらい、火葬場に向かうまでの間に話した(空間恐怖症なところがわたしにはあり、つい見知らぬ他人に、どんな仕事されているんですかとインタビューをしてしまう癖があります)感じが、見た目はスキンヘッドでイカツイんだけどホテルマンのように丁寧な物腰で(しかも車の乗り心地がバツグンによかった)で、このひとならと思ったんですね。
楽天イーグルスにいた嶋捕手に風貌が似ていたものだから、よく「嶋さん」と陰で呼んだりしていました。

父が建てた家は、大家族だった頃の昭和初期に祖父が建てた実家を真似た日本家屋で、部屋数も多く、だから今の時代にはまったく合わないけれど、「家族葬」というような近しい人たちが集まり宿泊もできる場所としてならちょうどいい広さでもあり、ずっと空き家にしておくのもなんだし、なにより、変わり者の父が面白がるのではないかと思ったんですね。

父はたぶん、いつか愚息(わたし)が還ってきて住むことを想い描いていたのだろうなぁと、ときおり父のことを考えたりもします。そうそう、「じさを荘」は父の名前をつけました。漢字は読みづらかったりするので、ひらがなにしました。

先日、伸びていた庭木の剪定で植木屋さんに入ってもらい、きれいにしてもらった写真を川原さんが撮って送ってくれました。メールに「剪定前と剪定後」を付けてくるところが仕事人だなあと。
それまでは川原さんのところで剪定も負担してもらっていたのですが、
「葬儀会館がもう近隣にめっちゃ増えてるんですよね。ここのところけっこうキビシくて。ご相談なんですが、、」
と電話があり、こちらで負担することにし、川原さんには植木屋さんに無理を言ってもらい、すこしまけてもらいました。
生前に父が頼んでいた植木屋さんの料金を知っているだけに、利益にはなってないだろうなぁと思われます。だけど、親が残した「空き家」を維持管理していくには、こうした費用をどちらがどれだけ負担するのかというのは大家店子関係では微妙に大事なことなんですね。

川原さんに借りてもらう際にお願いしたのは、家はそのまま使ってほしい。「じさを荘」という名前を付けてくださいという二点でした。
使い勝手でいうと、ホールとして利用するにはいろいろ仕様を変更したいだろうに、釘ひとつ打つのもいろいろ工夫してもらい「すみません。いいですか?」と聞いてもらえたのがよかったです。

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「じさを荘」剪定後。
冒頭写真の玄関に通じています。


次回は、じさを荘を借りてもらっている川原さんから先日聞いた、草取りの話がおもしろかったので書きます。

じさを荘館主代行・筆


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