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1980年代の日本経済

 こんにちは。今回は「第2次オイルショック不況」の後、1980年代の日本経済について書いてみます。

1 1980年代前半
 1970年代の日本経済は二度のオイルショックを経験し、原油価格の急騰による輸入額が上昇した。1980年代に入ると、品質の高さが海外で評価された自動車や電気製品、半導体などの輸出を伸ばし、輸出産業は好調であった。特に、日本の自動車生産台数については、1980年12月に1,100万台を突破し、世界一となった。輸出増の背景には、当時のアメリカの経済政策、いわゆるレーガノミクスがあった。アメリカは、10%超のインフレ率を抑えるため、政策金利の引き上げを実施した。それによるドル高・円安の進行と、アメリカの景気回復もあり、日本の対米輸出が急増し、日本経済は活況を呈した。これはハイテク景気(24カ月:底-1983年2月、山-1985年6月、底-1986年11月)と呼ばれている。

2 プラザ合意
 当時は、アメリカの高金利政策によるドル高が続いていた。これを背景に、日本の輸出産業は生産量・輸出量を大幅に増やし、米国との間で貿易摩擦問題が生じた。日本は貿易摩擦の解消のため、1981年に自動車の対米輸出自主規制を行っていた。
 1985年9月22日、ドル高是正のために、アメリカ、イギリス、西ドイツ、フランス、日本の先進5ヶ国(G5)が外国為替市場への協調介入を合意した(プラザ合意)。プラザ合意前は、1ドル240円台だったが、1987年末には1ドル120円台までドル安円高が進み、日本企業は海外生産に力を入れるようになった。

3 円高不況とバブル景気
 プラザ合意後、急激な為替レートの増価(円高)により輸出が減少したため、日本の輸出産業は競争力を失い、日本経済は円高不況に陥った。過度なドル安進行に対処するために、1987年2月に開催されたG7G5+カナダ+イタリア)は、ルーブル合意を成立させた。
 当時の日本銀行は不況対策として金融緩和政策を実施しており、1987年2月までに公定歩合を5回引き下げ、その結果、公定歩合は戦後最低水準の2.5%となっていた。この低金利はルーブル合意後も続いたため、為替リスクのない国内投資が増加し、不動産や株式の価格が高騰した。実際の経済成長を超えるペースで資産価値が膨張して景気拡大期を形成した。これを中身のない泡(バブル)に例えて、バブル景気(平成景気)と呼ばれ、1986年12月から1991年2月までの51カ月続いた。1986年度から1990年度までの 実質GDP成長率の年率平均は約 5 %であった。バブル景気の象徴としてよく取り合挙げられる例は、1989年10月31日の三菱地所によるニューヨークのロックフェラー・センター買収や、1989年12月29日に記録した日経平均株価の史上最高値38,957円である。
 他方、アメリカは「双子の赤字」(財政収支と国際収支の赤字)が拡大する傾向が続いていた。1987年10月19日(月曜日)、ニューヨーク株式市場のダウ平均株価が508ドル下落(22.61%下落)した(ブラックマンデー)。

4 まとめ
 今年の米ドルの急騰を受けて、最近、プラザ合意が話題に上っている。ドル高円安は当時と共通するが、インフレの程度や貿易収支の状況については異なる。ドル高は輸入価格を引き下げるので、アメリカのインフレを抑制する効果が期待できる。円安は日本の輸出企業や観光業の業績回復にとって追う風になる。今後の為替レートの推移と景気動向を注視していきたい。

    ありがとうございました。

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