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戦後の日本経済

 こんにちは。今回は、第二次世界大戦後の日本経済と松下幸之助について書いてみます。

1.傾斜生産方式とインフレ
 1945年(昭和20年)8月に終戦を迎え、戦災によって、日本国民は食料難やモノ不足による経済危機に直面しました。この危機から脱却し、産業全体の生産拡大を図るために、政府は石炭や鉄鋼などの基幹産業に資金、労働力などを重点的に投資を行うという傾斜生産方式 (priority production system) という経済政策を実施しました。その資金源として、復興金融公庫が「復金債」、言い換えれば、日銀引き受けの赤字国債を発行しました。当時は民間金融機関が再建されていなかったため、石炭の設備資金で全体の98%、鉄鋼の設備資金で73%を復興金融公庫だけで引き受けていました。そのため、日銀券が増発し、インフレーションを引き起こしました。
 その収束のため、1949年(昭和24年)にはドッジ=ラインと呼ばれる財政引き締め政策、例えば、復興債の発行禁止、単一為替レート(1ドル=360円)などが行われました。その結果、インフレは収まったものの、金融の引き締めによる資金難、購買力の低下、中小企業の倒産が起きました。いわゆるデフレ不況です。

2. 財閥解体
 日本経済の民主化政策として、 農地改革、 財閥解体、 労働三法の制定などが実施されました。財閥解体については、戦時中の日本の経済を支配し軍国主義を支えたとして、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)により、4大財閥(三井・三菱・住友・安田)が解体され、持株会社を禁止し、特定の一族が資本を独占しないようにしました。
 松下電器もまた、生産中止、財閥指定を受け、業績が悪化の一途をたどりました。創業者の松下幸之助は財閥指定に納得できず、常務とともに東京のGHQに何度も足を運んだそうです。その甲斐あって、1950年(昭和25年)下半期には、同社に対する経営活動の制限が解除されました。
 同年6月に朝鮮戦争が勃発したことで、アメリカ軍からの軍需品の特需が生まれ、同社も含め多くの日本企業は業績を回復し、日本は不況を脱しました。1951年(昭和26年)1月、松下幸之助は、経営方針発表会で「再び開業する心構え」を説き、アメリカ視察を発表しました(以下の画像を参照)。当時、56歳でした。

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3. まとめ
 松下幸之助が大切にしていた生き方「日に新た」と「自己観照」(「自分で自分をみつめる」)から学びたいと思います。一度の成功に満足するのではなく、「日に新た」な気持ちで自己改革に取り組み、自分の力量を見極めながら、一歩先に進めるように努力し続けることが大切です。
 なぜならば、自分たちが気づかないところで、技術やビジネスは日進月歩で変化し続けているからです。特に、最近のコロナ禍で、世界の産業構造変化は加速しています。これからを生き抜くために、居住地、年齢を問わず、多くの人たちから謙虚に学び続けていかなければなりません。過信せず、謙虚になりすぎず、新しいことに挑戦します。数字(年齢)を気にすると、心身とも衰えます。
 「失敗することを恐れるよりも、真剣でないことを恐れたい」(『松下幸之助 日々のことば』)

 今回使用した画像は、大阪府門真市のパナソニックミュージアムで撮影しました(2021年11月)。
ありがとうございました。

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