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「アルフレッド・アドラー人生に革命が起きる100の言葉」

すごい本でした、もちろん極端な考え方もありますが。私にもあなたにも革命が起きるかもしれません。
お時間があれば、ぜひ覗いてみてください。
以下本文の抜粋です。

第一章全てあなたが決めたこと


人生が困難なのではない。あなたが人生を困難にしているのだ。人生は、極めてシンプルである。→現在の人生を決めているのは「運命」や「過去」のトラウマではなく、自分自身の考え方である

たとえ不治の病の床にあっても、天を恨み泣き暮らすか、周囲に感謝し余生を充実させるか、それは自分で決めることができる

遺伝や育った環境は、単なる「材料」でしかない。その材料を使って住みにくい家を建てるか、住みやすい家を建てるかは、あなた自身が決めれば良い。

「親が悪いから」「パートナーが悪いから」「時代が悪いか」「こういう運命だから」責任転嫁の典型的な言い訳である。→自らアクションを起こすことでしか運命は好転しない。人は、誰もが自らを変える力を持っている。

人は過去に縛られているわけではない。あなたの描く未来があなたを規定しているのだ。過去の原因は「解説」にはなっても「解決」にはならないだろう→人は、未来への「目的」により行動を自分で決めているのだ。だから、自分の意思でいつでも自分を変えることができる。

敗北を避けるために、時に人は自ら病気になる。「病気でなければできたのに…」そう言い訳して、安全地帯、逃げ込み、ラクをするのだ→「人は、人生の敗北を避けるために、あらゆるものを利用する」。「頭痛」「腹痛」「発熱」「吐き気」「パニック」などの症状を無意識のうちに作り出すことがある。これを心理学では「疾病利得」と言う

健全な人は、相手を変えようとせず、自分が変わる。不健全な人は、相手を操作し、変えようとする→「どちらが悪かったのか」に時間や労力を注ぎ込むくらいならば、その分のエネルギーを未来の解決に費やす方がはるかに生産的である。

「やる気がなくなった」のではない。「やる気をなくす」と言う決断を自分でしただけだ「変われない」のではない。「変わらない」という決断を自分でしているだけだ→人は「認知」いや「意味付け」を変えることで、いかようにでも反応、すなわち、思考、行動、感情を変えることができる

遺伝もトラウマもあなたを支配してはいない。どんな過去であれ、未来は「今ここにいるあなた」が作るのだ→同じ環境に育っても、人は、自分の意思で、違う未来を選択できる

第二章そのままの自分を認めよ


あなたが劣っているから劣等感があるのではない。どんなに優秀に見える人にも、劣等感は存在する。目標がある限り、劣等感があるのは当然なのだ→たとえ周りから見て順風満帆で、もうこれ以上望むことなどないように見える人であっても、さらなる高い目標を持っているもの。つまり、いつまでたっても永遠に目標は未達成。だからこそ、そこに劣等感が生まれる。劣等感は「人よりも大きく劣っている人特有」のものでは無い。

劣等感を抱くこと自体は不健全ではない。劣等感をどう扱うかが問われているのだ→アドラーは「劣等性」と「劣等感」と「劣等コンプレックス」の3つを明確に区別して使った。「劣等性」とは、目がよく見えない、背が低い、胃腸が弱いなどの具体的事実として劣った性質をいう。「劣等感」とは、自分が劣っていると「主観的に思う」ことである。つまり、具体的に「劣等性」があったとしても、それを劣っていると思えば「劣等感」になるし、思わなければ「劣等感」にならない、と言うことである。あくまでも「劣等感」は主観的なものである。だから、誰が見ても痩せているのに、本人が「自分は太っている」と思えば、それは十分に「劣等感」になる。「劣等コンプレックス」は、一般的に先の「劣等感」と混同されて使われているが、アドラーは明確に区分している。「劣等コンプレックス」とは「劣等感」を言い訳にして、人生の課題から逃げ出すことを指す。つまり、劣等感をバネにして「なにくそ」と頑張る人は、「劣等感」を持っているものの「劣等コンプレックス」を持っていないのである。

人は、正しいことをして注目されないと時に「負の注目」を集めようとする。人生を惨めにするような努力はやめるべきだ→ 勉強して優秀な成績を取ること。グレて非行に走ること。
この2つは、正反対な生き方のように見えて、実は同じ目標、追いかけた生き方だ、とアドラーは考えた。2つの努力の目標は、親や周囲から注目を集めたい、と言う意味で完全に一致するからである。人は「褒められる」と言う「正の注目」を得られないとわかると、「叱られる」と言う「負の注目」を集めようとする

世話好きな人は、単に優しい人なのではない。相手を自分に依存させ、自分が重要な人物であることを実感したいのだ。「私がいなくては、相手は何もできないんです」。そう言って、自分が重要な人物であることを証明しようとしている、とアドラーは指摘する。さらなる行動戦略として、自分を責め、自分を傷つける、という方法もある。例えば、自分で体を傷つけたり、「自分なんて生きていてもしょうがない」と自己否定をする。これらは、一見すると、自分を責めているように見えるが、実際はその逆である。自分を責め、傷つけることで、家族や周囲の人間を責めている。「私はあなたたちのせいでこんなに苦しんでいる」「なのにあなたたちは何もしてくれない」。そうしたアピールをしているのである。そして周囲からの謝罪や同情を手にする。そのために自分を非難している。人は、ありとあらゆる手を使い、自分が重要な人物であることを証明しようと試みる

「みんなが私を嫌っている」「今回ダメだったから、次もだめだ」と言う思い込みは冷静に立証を試みれば消えていく→「今回駄目だったから、次もだめに違いない」「クラスのみんなが私を嫌っている」「友達が笑っているのは、私を馬鹿にしてるに違いない」など。これらは明らかに行き過ぎた思い込みであり不健全である。

できない自分を責めている限り、永遠に幸せにはなれないだろう。今の自分を認める勇気を持つ者だけが、ほんとにつよい人間になれるのだ→人は「不完全さを認める勇気を持つ」ことが必要である。完全であろうとするから苦しくなる。なぜならば、完全な人間など、この世に1人も存在しないから

第3章感情には隠された目的がある


悲しいから涙を流すのではない。相手を責め、同情や注目を引くために泣いているのだ→涙により同情を集めたり注目を浴びたりしようという隠された野心が存在する

カッときて自分を見失い怒鳴ったのではない。相手を「支配」するために「怒り」と言う感情を創り出して利用したのだ→感情は主に2つの目的で使用される。1つは相手を操作し、支配するため。2つ目には、自分自身をつき動かすため。

感情は、車を動かすガソリンのようなもの。感情に「支配」されるのではなく「利用」すれば良い。

不安だから、外出できないのではない。外出したくないから、不安を作り出しているのだ。「外出しない」という目的が先にあるのだ。

子供は「感情」でしか大人を支配できない。大人になってからも、感情を使って人を動かそうとするのは幼稚である。

怒りなどの感情をコントロールしようとするのは無駄である。感情は「排泄物」なのだ。「排泄物」を操作しても、何も変わらないだろう。→アドラーによれば、感情はライフスタイル(=性格)による「排泄物」でしかない。その排泄物を操作しても、結果は何も変わらない。ライフスタイルを変えることで、おのずと感情も変わる。


第3章性格は今この瞬間に変えられる

人は、ライフスタイルを10歳位までに自分で決めて完成させる。そして、それを一生使い続けるのだ。

使い続けたライフスタイルが支障をきたしても、人はそれを変えようとはしない。現実をねじ曲げてでも、自分は正しいと思い込むのである。→私たちは認知バイアスから逃れることはできない。認知バイアスにより、自分にとって都合の良い情報だけを取り入れて、それ以外は例外として処理をする。また、自分にとって都合の良いように解釈をねじ曲げて、「これまでの考え方は正しかったのだ」と無理矢理納得しようとする。そのほうが楽であり、そうでないと不安になるから。「自分は人から愛されている」と言うライフスタイル(=性格)を持っている人は、たくさんの友達を作り、「やはり自分は愛されている」とその信念を強めるでしょう。逆に「自分は人から嫌われている」と思っている人は、友達を作ろうとせず、結果的に友達はできず「やはり自分は人から嫌われているんだ」とますますその信念を強くするだろう。

ガミガミと叱られ続けた者が暗い性格になるとは限らない。親の考えを受け入れるか、親を反面教師にするかは、「自分の意思」で決めるのだから→親の影響はゼロではないが、受け入れたのは自分自身。受け入れるか、反発するか、無視するか、は本人が決めた。自分で決めたのだから、自分で変えられる。人は、いつでもライフスタイルを変えることができる。

「おこりっぽい性格の人」など存在しない。「怒りという感情をしょっちゅう使う人」なのだ。生まれ変わる必要は無い。感情の使い方を変えればいいだけなのだ。→怒りを持つか持たないか、ではなく、怒りをどのように扱うか、怒りをどれくらいの頻度で利用するか、を変更すること。

自ら変わりたいと思い努力をすれば、ライフスタイルを変える事は十分に可能だ。性格は死ぬ1〜2日前まで変えられる。→生きてきた人生の半分ほどの時間をかけて、完全に書き換えを終える。

第4章あらゆる悩みは対人関係に行き着く


すべての悩みは、対人関係の課題である。仙人のような世捨て人さえも、実は他人の目を気にしているのだ。

「最近ウツっぽいんです」「忙しくて休みが取れないんです」内面の悩みに見える言葉も、すべて対人関係の問題に起因している。→一見すると、内面の悩みの吐露のような言葉も、全てそこには「相手」がいて、自らの優位性をアピールする、と言う「目的」がある。これを「使用の心理学」と呼ぶ

悩みをゼロにするには、宇宙でたった1人きりになるしかない→ 仕事がうまく進まない時、それはうまくいかないことによる悩みではなく、上司や周囲の人から否定されるかもしれない、という対人関係の悩みでしかない。

人生には3つの課題がある。1つ目は「仕事の課題」2つ目は「交友の課題」3つ目は「愛の課題」である。そして後のほうになるほど解決は難しくなる。

あなたのために他人がいるわけではない。「〇〇してくれない」と言う悩みは、自分のことしか考えていない何よりの証拠である。→一人一人が等しく、自分の人生の主人公であり、誰もが等しく中心にいたい、と思っている

第5章家族こそが世界である


子供にとって、家族は「世界そのもの」であり、親から愛されなければ生きていけない。そのための命がけの戦略がそのまま性格の形成につながるのだ。

長男は勉強、次男は運動、末っ子は読書。兄弟間で得意分野が異なるのは理由がある。それぞれが違う分野で認められようとするからだ

末っ子は甘やかされて育ちがちだ。そのため、自分では努力をせず、無力さをアピールして、人にやってもらおうとする「永遠の赤ん坊」になる傾向がある→弱さや無力さをアピールすることで、親や兄弟に問題解決を肩代わりさせようと考える依存的な子供になりがちである

身振りや話し方が親に似るのには理由がある。子供は親を真似ることで、親の権力を手に入れようとし、結果として本当に似てくるのだ→ 1つ目の理由は、親と同盟を結んでいることを他の家族にアピールするため。2つ目の理由は、衝突しながらも、その親が持っている権力を手に入れようとするため。

子供は両親が持っている価値観を無視することができない。全面服従して受け入れるか全面反抗するのだ。警察官の子供なのに、非行に走ることがあるのは、それが理由である→子供は、自分の意思で服従するか反抗するか決めている。常に「自己決定性」を持っている、ということを忘れてはいけない

子供は親が貼ったレッテル、例えば「しっかりした子」「甘えん坊」「おてんば」「恥ずかしがり屋」などに対して、過剰に応えようと努力をする

第6章叱ってはいけない、褒めてもいけない


叱られたり、褒められたりして育った人は、叱られたり、褒められたりしないと行動しなくなる。そして、評価してくれない相手を敵だと思うようになるのだ。→ご褒美や褒め言葉で、相手を釣る限りは、一生それをやり続けなくてはならないと言うことになる。あめとむち、褒めたり、叱ったりすることで、コントロールをされることに慣れた相手は、自分を褒めてくれない時に、私たちを敵だと思うようになる。「なぜ褒めてくれないのか?」と責める。私たちは相手をコントロールしようとしてはいけない。それは教育ではない。むしろ逆効果になってしまうから。

叱ると一時的には効果がある。しかし、本質的な解決にはならない。むしろ、相手は活力を奪われ、ますます言うことをきかなくなるだろう→叱ることで、相手の活力を奪い、意固地にさせ、ますます言うことを聞かなくさせる

間違いをわからせるには、親しみのある話し合いをすれば良い。大切なのは、それができる信頼関係を築くことだ→問題行動が起きた後、しばらく経って穏やかな雰囲気になったところで、話し合いをしたいものだ。

問題行動に注目すると、人は、その問題行動を繰り返す。叱ることは、悪い習慣を身に付けさせる最高のトレーニングなのだ→もしも相手の問題行動をやめさせたいのであれば、問題行動を見つけたとしても注目せず叱らないこと。そして、問題行動していないときに、適切な行動のほうに注目し、認める。問題行動に着目するのは逆効果。そうではなく、わずかであったとしても、正しく適切な行動に着目する。それが教育者のとるべき正しいスタンス

他人と比較してはいけない。ほんのわずかでも、できている部分を見つけ、それに気づかせることが重要だ→比較されることにより、子供は自信を失い傷つく。もし正しい例を示したいのであれば、本人の中にある、ほんのわずかでもできていることを見つけ、それに気づかせることが大切。たとえわずかであったとしても、できていることを示し、それを認め、さらに増やすよう要望する。比較をするのなら、過去の相手と現在の相手を比較すること。相手の「自己ベスト更新」を褒める。

人は、失敗を通じてしか学ばない。失敗を経験させ、自ら「変わろう」と決断するのを見守るのだ。→アドラー心理学における教育では、「結末を体験させる」ことを重視している。もしも子供が片付けをしようとしない場合であれば、怒ったり叱ったりして無理矢理片付けさせても、子供は片付け覚えないだろう。そうではなく、しからずに放っておく方が効果的。子供は片付けなかったことにより、自分が欲しいおもちゃを探すことに苦労するだろう。そして、片付けておくほうがはるかに探すのが楽であることを学習する。この「結末を体験させる」と言う手法は、子供の教育に限らず、大人にも当てはまる法則。人は失敗から学ぶ。だから、リスクがあることもどんどん任せることが大切だ。1度や2度の失敗を恐れて、何もさせないよりも、わざと失敗させるくらいの気持ちが重要。できるようになってから任せるのではなく、任せるからできるようになる。

罰を与えるのではない。結末を体験させるのだ。子供が食事の時間になっても帰ってこなければ、一切叱らずにに食事を出さなければ良い。

人の育て方に迷ったときは、自分に質問をするのだ。「この体験を通じて、相手は何を学ぶだろうか?」と。そうすれば、必ず答えが見つかるだろう。

第7章幸せになる唯一の方法は他者への貢献


自分だけじゃなく、仲間の利益を大切にすること。受け取るよりも多く、相手に与えること。幸福になる唯一の道である→社会に自ら居場所を作るためには、他者へ貢献することから始めなくてはならない。そのことにより、他者から感謝され、そして他者からもお返しとして支援され、社会の中に居場所を作っていくことができる

誰かが始めなくてはならない。見返りが一切なくても、誰も認めてくれなくても、「あなたから」始めるのだ→人生におけるあらゆる失敗の原因は、自分のことしか考えていないことにある。

「他者は、私を援助してくれる」「私は他者に貢献できる」「私は仲間の一員である」この感覚が、すべての困難からあなたを解放するだろう→ ①周囲の人は私を援助してくれる=他者信頼②私は周囲の人へ貢献できる=自己信頼③ (その結果として)私は共同体に居場所がある=所属感、この3つが「共同体感覚」

自分のことばかり考えてはいないだろうか?奪う人、支配する人、逃げる人、これらの人は幸せになることができないだろう。

人は居場所がないと感じると精神を病んだり、アルコールに溺れたりする。他者に貢献することで居場所を確保すれば良い→犯罪者、精神病者、アルコール依存症などの人々の問題の根は1つ、「共同体感覚」の低さである。相手よりも自分のことを優先するが故に、相手から支援されていると言う実感を持てず、社会的に孤立する。精神病者は、周囲から哀れに思われ、「病気だからできなくて仕方がない」と免罪符をもらい、「病気でなければできるのに」と言い訳を手にすることができる。それは共同体感覚の低さゆえの居場所のなさを埋めてくれるだろう

人生は課題の連続である。その課題に勇気を持って挑戦し、克服することで初めて幸福は訪れる。そして、その課題を克服するために必要なのは、困難を克服する活力。すなわち、ガソリンたる「勇気」と、その方向付けとなる「共同体感覚」である。それさえあれば、あらゆる課題は必ずや解決可能。

相手の権利に土足で踏み込んではならない。権利を尊重し、自分で決めさせるようにすれば、人は、自分を信じ、他人を信じるようになるだろう→親や上司が、子供や部下に自分で決めさせて、相手の権利を尊重するようにすれば、子供や部下は徐々に、自己信頼と、他者信頼を形成していくだろう

「よくできたね」と褒めるのではない。「ありがとう、助かったよ」と感謝を伝えるのだ。感謝される喜びを体験すれば、自ら進んで貢献を繰り返すだろう→上から目線で「褒められる」よりも横から目線で「感謝される」ことが自己信頼と他者信頼には、はるかに有効

苦しみから抜け出す方法はたった1つ。他の人を喜ばせることだ。「自分に何ができるか」を考え、それを実行すれば良い。

自分と違う意見を述べる人は、あなたを批判したいのではない。違いは当然であり、だからこそ意味があるのだ→見返りを求めない愛を持つことが大切。私たちは、自分と違う意見を耳にすると、あたかも自分が非難されているかのように感じ、不快感を持ってしまう。そして、自分と違う意見に対抗して、競争的な対応をとってしまいがちである。しかし、それでは、共同体感覚を高めることはできない。そうではなく、自分と違う意見を非難と受け止めず、許容する。違って良い。違う意見があるからこそ、意味があるのだ、と思うのだ。同様に、自分の意見を相手に押し付けてはいけない。相手が自分と違う意見を持つことを許容する。違いがあって、当然と受け止める。このような考えを持つことができれば、共同体感覚は自然と高まっていくだろう。その結果、自分の居場所を確保できるようになる。幸せに一歩近づくことができる。

自分の不完全さを認め、受け容れなさい。相手の不完全さを認め、許しなさい→不完全で良い。だからこそ人間臭い。だからこそ愛らしい。

「信用」するのではなく「信頼」するのだ。「信頼」とは、裏付けも担保もなく、相手を信じること。裏切られる可能性があっても、相手を信じるのである。

「自分は役立っている」と実感するのに、相手から感謝されることや、褒められる事は不要である。貢献感は「自己満足」でいいのだ。→「自分は新しいことをした。誰からも認められないが、誰かの役にたつことができた」。そのように、自分1人で感じることが、最も正しい「貢献感」の感じ方である。相手からの感謝や評価がないと、貢献感を感じることができないとしたならば、あなたは常に相手に依存していることになる。相手が褒めてくれなかったら、相手に怒りを感じるだろう。そして、感謝を求めてしまうだろう。それは、本物の貢献感ではない。本物の貢献感は、相手に依存しない、自己満足でいい

判断に迷ったときは、より大きな集団の利益を優先することだ。自分よりも仲間たち。仲間たちよりも社会全体。そうすれば判断を間違う事はないだろう。

理不尽な上司や学校の先生に、無理矢理認めてもらう必要は無い。市場価値の高い人間になればいい。より大きな共同体で考えれば、理不尽な上司や先生に異を唱えるのは、決して共同体感覚に反することではない。ただし、私たちは目的論で考えることを忘れてはならない。もしかしたら、理不尽に思えるのは、あなたが会社や学校を辞めてしまいたい、と言う「目的」が先にあるからかもしれない。そこに気をつけた上で、冷静に共同体を判断していただきたいと思う。

第8章困難を克服する勇気を持て


「勇気」とは困難を克服する活力のことだ。勇気のない人が困難に出会うと、人生のダークサイド(犯罪者になること、アルコール中毒や薬物中毒者になること、神経症や精神病になること)へと落ちていってしまうだろう

人は「貢献感」を感じ「自分に価値がある」と思える時にだけ、勇気を持つことができる。→周囲の人の行動に対して「ありがとう」「あなたがいてくれて助かった」そう伝えることこそが、周囲の人に対する勇気づけになる

他人の評価に左右されてはならない。ありのままの自分を受け止め、不完全さを認める勇気を持つことだ。→誰からも褒められず認められなくても、自分が相手に貢献できていることそのものに満足を感じるので、勇気がある人は、他人の評価を気にしない。

失敗や未熟さを指摘してはいけない。できないからといって取り上げてもいけない。相手の勇気奪ってしまうからだ。自ら困難を克服する機会を奪ってしまうのだ。

人の心理は、物理学とは違う。問題の原因を指摘しても、勇気奪うだけ。解決法と可能性に集中すべきなのだ。→原因究明に割く時間を0もしくはほんのわずかにして、解決法を考えることにほとんどの時間を使うこと。可能性に集中すること。それが勇気づけにつながる。

人の行動の95%は正しい行動である。しかし私たちは「当たり前だから」とそれを無視してしまう。わずか5%しかない負の行動に着目してはいけない。

「暗い」ではなく「優しい」のだ。「のろま」ではなく「丁寧」なのだ。「失敗ばかり」ではなく「たくさんのチャレンジをしている」のだ。→「せっかち」なのではなく「素早い」、「おせっかい」なのではなく「自分の世界を持っている」。このように物の見方を変えるだけで、世界はがらりと変わる。

大切な事は「共感」することだ。「共感」とは、相手の目で見、相手の耳で聞き、相手の心で感じることである。

命令口調を止めて、お願い口調や「私」を主語にして伝えると、それだけで勇気を与えられるだろう→「コピーをとっておいてもらえますか?」このように、相手にイエス、ノーの選択の余地がある問いかけにするだけで、相手は「尊重されている」と感じ、勇気づけられる。またお願い口調だけでなく、アイメッセージを使う方法も有効である。「コピーをとってくれると、私はとっても助かるなぁ」のような言い方

「ケーキ、食べちゃったの?ひどい!」などと怒り、睨みつけてはいけない「食べたかったなぁ。残念だなぁ」と伝えるのだ。→このようにアイメッセージにすれば、相手をなじる勇気くじきをせずに、なごやかに伝えることが可能になる

「まだ無理だ」と思っても、やらせてみる。失敗しても「今度はうまくできるはず」と声をかけることが大切なのだ。→失敗を避けるために、発した言葉が勇気くじきになってしまうくらいならば、失敗をさせる(ジュースをこぼさせるなど)ことも視野に入れなければならない

甘やかすと相手の勇気を奪ってしまう。手助けしたり、ちやほやしたりするのではなく、独り立ちの練習をさせよ→親が子供を信頼し、独り立ちできるという可能性を信じているならば、0歳時の頃から、子供を過保護に甘やかさないよう注意しなくてはならない。

間違いを指摘せず、原因究明と言う吊るし上げもせず、「こんなやり方はどうかな?」と提案する。それこそが、相手を育てる有効な方法である→ソリューションフォーカスと言う技法がある。それはまさにソリューション(問題解決)にフォーカス(焦点)を絞ること。問題指摘や原因分析をせずに、いきなり建設的な問題解決だけを話し合う

楽観的であれ。過去を悔やむのではなく、未来を不安視するまでもなく、今現在の「ここ」だけを見るのだ→過ぎてしまった過去をくよくよ考えるのをやめ、「未来」を不安視することなく、「今現在」できることだけに集中する。楽観的とは単なる能天気ではない。何の根拠もなく、準備もせずに、能天気に対応する人は、楽観的ではなく楽天的と呼ぶ。楽観的とは根拠と準備のある人のこと。しかも、悲観的に検証し、悲観的に準備をし、その上で肯定的に行動すること。それを楽観的と呼ぶ。

行動に問題があるとしても、その背後にある動機や目的は、必ずや「善」である

第9章他人の課題を背負ってはいけない


あなたが悩んでいる問題は、本当に「あなたの問題」だろうか。その問題を放置した場合に困るのは誰か、冷静に考えてみることだ。

妻の機嫌が悪い時に、夫が責任を感じてはいけない。不機嫌でいるか上機嫌でいるかは、妻の課題。その課題を勝手に背負うから苦しいのだ。→では、妻が不機嫌であるのを見たときに、夫がイライラしても、ぐっとこらえて、何も言わずに我慢したとしましょう。この場合、夫の問題は解決したのでしょうか。いいえ、それでもまだ、夫には問題が残る。「相手がどのように感じるか」は「相手の課題」だ。しかし、それを自分の責任であるかのように背負い込んでいる時点で、夫はまだ「課題の分離」ができていない。相手の課題に責任を感じてはいけない。相手の課題を勝手に背負うから苦しくなる。相手との間に線を引き、明確に分離することが必要。

それが「あなたの課題」ならば、たとえ親に反対されても従う必要は無い。自分の課題に足を踏み込ませてはいけないのだ。

陰口を言われても、嫌われても、あなたが気にする事は無い。「相手があなたをどう感じるか」は相手の課題なのだから→
「私は私のために生きる。あなたはあなたのために生きる。私は何も、あなたの期待に応えるために、この世に生きているわけじゃない。そして、あなたは私の期待に応えるためにこの世にいるわけじゃない。私は私。あなたはあなた。でも、偶然が私たちを出会わせるなら、それは素敵なこと。たとえ出会えなくても、それは仕方のないこと。私は私。あなたはあなた。あなたはあなた。私は私」フレデリックエスパールズ
「神よ、願わくは我に、変えられることを変える勇気と、変えられないことを受け入れる忍耐力と、両者の違いを理解する知恵を与えたまえ」ラインホールドニーバー

相手があなたを評価するかどうかは、相手の課題です。たとえ陰口を言われたとしても、あなたが間違っているとは限らない。自分が正しいと思うことを続ければいい。他者からどう思われるかを気にするから苦しくなる。課題を明確に分離すればよい。「課題の分離」ができるようになった時、それは幸福な人生の第一歩である。あなたの心が軽くなり、対人関係もぐんと改善することだろう。人生に革命が起こる瞬間だ。













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