確率について思う事。~人生はボーナスステージ~
年始から災害のニュースや、交通事故といった報道がなされる度に、「明日は我が身」だなと感じることが増えた。
単純に“不慮の事故で生涯を終えるのは悔いばかりで勿体無い”という気持ちと、生きれば生きるほど自分より下の世代がどんどん現れて、歳取ったなと思う日々が増えて、それに比例するように老化すること、更にその先の◯ぬことへの怖さも上がってるからなのかもしれない。
でも、捉え方を変えればより「自分自身を大切にしよう」と思っているということなんだろうか。
あらゆる事件や事故、災害は、誰も巻き込まれたくなくて当然なはず。
起こらないに越したことはない。
誰もがそれを願っているであろう。
ただ、人間として高度に生きられることが当たり前ではないとつくづく思う。
“防げた事故”というものが多いだけに、事故の原因にはヒューマンエラーが起因していたり、事件や自然災害は襲われるともう避けようがない。
自分ではいくら気をつけていても、外的要因が重なって予想だにしない事態に巻き込まれてしまう可能性だって出てくる。
理不尽も運命のうちなのか。
だから「明日は我が身」だと自分に言い聞かせて生活を送っていると思う。
そこでふと気になった。
世の中のありとあらゆる起こる出来事の“確率”についてだ。
交通事故も、“起こしたくない” “遭いたくない”と誰もが外へ出る以上思うことだが、悲惨なことにそういうニュースは後を断たず入ってきてしまう。
その繰り返し。
この世に“絶対”はない。
誰も逢いたくないし起こしたくない事故も、過去の統計を参照すると、年間で約0.2%の人が逢い、起こしてしまう確率は約0.4%。
そのデータを基にしたとすれば、努力次第では“防げる事故”もあるが、どう転んでも追突事故など、事故に遭遇する確率も0ではないと考えている。
「外を出る以上事故に遭遇する確率があると思って過ごす必要があり、もっと言うとこれから先もこの確率に基けば今から1年間、500人に1人は事故の被害者になり、250人に1人は事故の被害者になってしまう可能性は理論上避けられない」みたいなことを確率に対してどこかで意見を述べていた人のことを思い出した。
事故を起こしたり人間にミスがあった出来事は「確率のせい」にする訳にはいかず改善に努めていくべきだが、実際にその出来事をデータとして俯瞰して見ると、「世界のどこかでこの出来事が起きる時は起きるんだな」とは思う訳だ。
“絶対”がない以上、“0”にはできない。
他にも世の中には様々な確率がある。
調べていくと、交通事故に遭遇する確率は、遊園地で絶叫マシーンに搭乗して事故に遭遇する確率より高い。
つまり、絶叫アトラクションで事故に巻き込まれる確率より、その遊園地に行くまでの道で事故に遭遇する確率の方が統計上では高いみたいなのだ。
絶叫アトラクションを目の前に「高所恐怖症だから乗りたくない」もしくは「事故に遭いたくない」と思って敬遠しがちな人は確率でいうと「交通事故」の方こそ警戒すべきなのである。
絶叫アトラクションというスリルを楽しんで味わう人ほど正解で、遊園地の方がむしろプロの整備士によって点検されていて安全ということなのか。
ただ人間の心理学上、例えば飛行機などは特に安全な乗り物で、事故に遭遇する確率は極めて低い(約0.0009%)が、それだけに事故やトラブルのニュースが入るとその印象の方が強く残ってしまいがちで、確率に基づいて恐れることのできなくなることも多いのではないか、と思う。
それを考えると、交通事故を筆頭に、もっと目を向けなくてはならない日頃から起きている出来事にほどその報道に慣れてしまって耐性ができて油断してしまうこともあるのではと思った。
こう考えると、様々な出来事を確率としてデータに残して統計を取るというのには必然性も感じられる訳だ。
雷に打たれてしまうこと(2千万分の1)や隕石が直撃してしまう(100億分の1)といった可哀想で災難な出来事もあると思うが、様々な事故はやはり、ほとんどの人が頷くだろうけれども、自分でコントロールできる歩行者や自転車や自動車事故の方から恐れるべきだ。
悪い出来事はなるべく確率が高いことほど気にする必要があると考えているが、良い出来事に関しては「宝くじの1等に当選する確率」というように、母数が多いけど叶う確率は微小レベルなものほど、ロマンが生まれる。
だから確率が低いものほど、母数は多くなり、その連中が追い求めていく。
今、達成できる確率がどのくらいの夢や希望や目標を追っている⁇
そこには確率を無視して自分自身の努力で達成できるビジョンはあるか⁇
まとめると、確率には「悪い出来事には確率が高いものほど“人間は避けようとする”が良い出来事には確率が低いものほど“人間はよって集り掴み取ろうとする”」というしっかりとした反比例の法則が出来上がるのではと思う。
こう考えると確率は不思議だ。
ちなみに、暗黙の了解だが人間が◯ぬ確率は100%で、◯んだことがある人は生存者の中では0%なのである。
この手の確率は、世の中で唯一100:0と極端にして語れるのではと思う。
悪い話になったので、最後に確率に纏わる良い話をして終わりたいと思う。
人に関する確率の話だ。
まず人は一生のうちで、人とどんな出来事でも関われる確率は24万分の1。
イベントで会った有名人や、迷惑な客でもパワハラ上司でもなんでもだ。
そのうち友人と出会える確率は2億4千万分の1。
この時点で友人という存在は関係性がどうであれかけがえのないものだ。
さらに確率を絞っていく。
その中の親友と出会える確率は24億分の1。
親友とどこかに遊びに行く、共通の趣味を共有するその時間がもう後にも先にもかえってこないものだ。
そして結婚相手と出会える確率。
2人1組の人生におけるパートナー。
確率はどのくらいだ⁇
まんま世界の総人口分の1だ。
だって相手はたった1人なのだから。
結婚相手は限定される訳だからだ。
「人生における苦楽を共にする家族や仲間は、出会う確率を見ると度重なる偶然で居合わせていることを自覚して、大切に扱っていく必要がある」ということを考えさせてくれる教材である。
更に「人」に関しての確率が下がる出来事があるんだけれど、何だと思う⁇
それは“人が生まれる確率”だ。
これは自分が小学校4年生の保健の授業でクラスの学級だよりの題名を「一期一会」にする程クラスメイトとの出会いを大切にしていた担任から教わったのが最初。
「赤ちゃん」に関する保健の授業がなされていた時に、人間が生まれる確率は“50~80兆分の1”といったところらしいと説明がなされた。
両親の出会う確率などを考慮すれば更に母数が跳ね上がり、“京”や“垓”といった単位になっていくそうだ。
この事実を知った時、自分含めてクラスメイトは騒然としていた。
神秘的な気持ちに包まれたと思う。
その時先生に説明された記憶が今でもあるという理由はもう説明不要だろう。
もっとこれについて細かく言えば「別の生物(動物や魚や鳥や昆虫や植物等)で生まれる確率」や「平和な場所や娯楽が発達して豊かに暮らせる時代に生まれる確率」や「全人類の精子や卵子の数」といった範囲をどこからどこまでにするかによって概念次第では確率はどこまでも落とすことができて、天文学的な数字にすることができる。
確率として測りようのない域にまで。
生きていく中でどのような経験をして行こうが、どのような最期を迎えようが、地球に生まれた事実に関しては奇跡中の奇跡であることは変わらないわけだ。
もうこう考えると人生はボーナスステージだ、おまけみたいなもの。
思い通りに進まなくても人生自体おまけなんだから仕方ないよねぐらいの価値観で、楽観的に生きなきゃ損だ。
生まれてきたその時から
地球が認めた引力だ
その始まりを忘れないように
これは緑黄色社会の「陽はまた昇るから」の歌詞の一部分なんだけど、存在自体を肯定してくれている感じが好きで自分の中でお気に入りな訳だ。
以上の確率についての良い話を展開した上で、この歌詞の良さを伝えていけばより布教できるのではないかと思う。
高い“確率”でね。
RA−YUでした。
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