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「二十五、二十一」のトンネルから抜け出せない話(なぜこんなにも‟エモい”のか②)

 あなたがフィクションに求めるものは何だろうか。
 
 うっとりするような夢物語もあれば、何気ない日常を切り取った物語もある。お腹を抱えて笑える物語もあれば、自分には起こり得ないであろう恐怖や悲劇を疑似体験できるような物語もある。

 私はというと、フィクションを摂取することによって「良質な没入体験を得たい」という大前提の思いは変わらないものの、年齢とともに求めるテイストは変化してきたように思う。

 「サブカル」とか「アングラ」とかいう言葉がなぜか異様にかっこよく感じた10代の頃は、「パルプフィクション」や「トレインスポティング」や「天使の涙」みたいなミニシアター系映画を見まくっては悦に入っていた。

 あるいは「オールド・ボーイ」や「冷たい熱帯魚」みたいなバイオレンス系鬱映画を見ては、「これぐらいのゴア表現、ヨユーっすわ」と虚勢を張ってみたり。

 ハイ、いわゆる中二病ですね。

 フィクションを自分に酔うためのツールとしか思っていなかったから、ジャケット(外面や雰囲気)がかっこいいことが最優先で、平たく言えば中身はなんでもよかった。
 (誤解のないように申し添えると、上記の作品たちは紛れもなく名作である。きっと今もリアルタイムでどこかのティーンエイジャーにぶっ刺さっているはず!)

 でも、大人の階段を上るにつれて、マイナス方面のフィクション、とりわけ恐怖や悲劇系の刺激を受け付けないカラダになってきてしまった。

 だって、もはやリアルな現実世界がフィクションを超えてるじゃんか…。

 だからせめて、フィクションの世界ではポジティブな感情を受け取りたい。だけど、甘すぎる非現実的な物語じゃちょっと物足りない。

 そんなさまよえる大人たちにぴったりのスイート&ビターな青春物語。それが「二十五、二十一」なのである。


 
 どうも前置きが長くなる癖があるようだ。

 このドラマをエモーショナルにさせている最大のポイントは、リアルとフィクションのベスト配合によってつむがれたあの結末にあると思う。ここからは結末ネタバレがあるので、奇跡的にこのページにたどり着き、このドラマに関心がある方はそっ閉じたもれ。


 

 時代に翻弄されながらも、互いの存在を力に変えてもがき続けるうちに、名前のつけられない関係性からやがて‟愛”にたどり着いたナ・ヒドとペク・イジン。

 1シーン1シーンが絵ハガキになりそうな美しい映像とともに、時にはくすっと笑えるコミカルなやり取りを挟み、丁寧な心情描写を重ねに重ね、あれだけ時間をかけて視聴者に《お互いしかいない》と思わせておきながら、2人は別れを選択する。

 ああ、なんて無慈悲(号泣)。

 
 そんじょそこらのドラマだったら「~3年後~」ってテロップが出て、ひと回り成長した2人が再会を果たすという救いの手(もとい蛇足)があるところだけど、この作品はまるで容赦なし。数年後の再会シーンですでにヒドは結婚していて、現在ではあの頃の輝きがすっかり失われた、小綺麗だが平凡なマダムになっている。

 初恋は実らないし、若かりしあの頃には二度と戻れない。
(だからこそ尊く、美しい)

 
 
 身も蓋もねぇよ、アニキ……。

 だけどそれが人生の真理だし、【一度は手に入れた それが大事】であることは間違いなく、あの日々は確かにこれから続く長い歩みの支えになる。
 
 鮮烈な輝きで若かりしヒドを演じたキム・テリ氏がそのまま中年のヒドを演じなかったのも、過ぎてしまったあの頃のきらめきを浮かび上がらせる効果を最大限に引き出すためのフックになっていて、制作サイドの一貫したテーマを感じた。

 中盤まではヒドやユリムのザ・少女漫画的なキャラクターも相まって、フィクション7:リアル3ぐらいの感覚で進むのだけど、終盤は配分が逆転。

 みんなと一緒に眩いほどの青春を追体験してきた視聴者の私は、ほろ苦い結末に胸をえぐられ、しばらく立ち直れなかった。
 この結末は韓国でも賛否を呼んだらしいが、視聴者に忖度しないシビアな結末だからこそ、後世まで残るエモドラマの金字塔になったのだと思う(あくまで個人的感想です)。

 だって、初恋の人と結婚して、さらに最後まで添い遂げられる人が一体どれぐらいいるのか?って話。

 若いヒドはぺキジンを待てなかった。大人に見えていたぺキジンもまた若く、大きな時代のうねりに巻き込まれてヒドを思いやる余裕がなくなっていった。2人が互いに求めるものがすれ違い、ののしり合って別れるシーンが切なくて切なくて…。

 見切りをつけてさっさと結婚したヒドの、これまた超リアルな選択はともかく、せめてぺキジンに幸あれ、と願うばかり。ラストで「初恋の人は?」のパスワードと背中だけ見せる演出がまたにくい。

 お前、まだ未練あるのかよぉ(2度目の号泣)。

 「とっくにステキな過去の思い出になってるよ☆」っていうわずかばかりの視聴者へのフォローのつもりだったのかもしれないが、ぺキジンはきっと色々こじらせてしまって独り身だろうという確信めいた想像のせいで、切なさしか残らない。つらい。

 完全なる蛇足だが、私がヒドなら、酸いも甘いも経験してめちゃくちゃダンディな大人の男に成長したぺキジンを日々テレビで見るのは耐えられない。逃した魚の大きさに毎夜枕を濡らし、唇を噛みちぎって血塗れになっているはず(そんな女はヒドではない)。
 
 正直に言うと、マジで自分が失恋したのか?ってぐらいの喪失感があったので、最後の2話を見返すことは当分できそうにない。もう伝えたいテーマとか整合性とかどうでもいいからくっついてくれよ、と何度思ったか。でも、2人がソウルメイトから恋人関係に進んでしまった時点でこういう帰結を迎えることはうっすらわかっていたし、喪失感以上に何か温かいものを得たという確かな余韻があったからこそ、私にとっての人生ドラマになったわけで。
 
 私も彼らが「一度は手に入れた夏」のきらめきを心のアルバムにしまって、時折開いては懐かしんでいこうと思う(痛すぎ)。

 つい先ほど最終回を見終わったかのような熱量で書き殴っているが、すでに視聴から数か月経過していること、いまだあのトンネルからまったく抜け出せていないという事実が最も恐ろしい。

 ラブ、コメディ、友情、スポコン、ヒューマン、ファミリーといったさまざまな要素が詰まった純然たるエンタメ作品でありながら、フィクション×リアルの絶妙な黄金比で、徹底的に描き出された"青春の本質”が胸を打ちまくる「二十五、二十一」。

 やっぱりエモい。エモすぎる!









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